2013年1月11日金曜日

ゴミ王国崩壊のとき

 ブログ上ではお久しぶりでございます。ええと、ワタクシ、なんだかんだありまして、この度東京から福島へ引っ越すこととなりまして。ほぼ十年続いた一人暮らしも一応これにておしまいです。
 どちらかと言えばめでたいジャンルの話なはずではあるんですが、全く嬉しくない。その理由は下図をご覧いただければ明らかでしょう。













 悪夢でしょう?これを今月中に全部片付けないといけないわけです。
 そんなの無理だよ馬鹿野郎!
 言っときますけどこんなの氷山の一角っていうか、我が家のあらゆる空間がこれなんですよ!もさあ、正直部屋ごと焼いてしまいたい。あるいは今後死ぬまで家賃払い続けてこれを放置したい。
 ・・・わりとマジで!
 どうして、こんな事になってしまったのか。ま、考えるまでもなく、これぞまさしく日頃の行いです。でもこれに関しては森先生がこんな感じのことを書いておられる。
『部屋と頭の散らかり具合は反比例する』
 すなわち、頭の中が明晰であれば混沌とした物の配置であっても問題がない、頭の中においてはそれは整理されているも同然だし、その能力があればこそ散らかった部屋はその部屋の主に許容されているのである、ということです。
 まあそのわりに、しょっちゅう物が無くなったと騒いだりしてますけどね、僕。それにここまでくると、頭の中が散らかるとか綺麗とか以前に空っぽなんじゃないかって疑惑もナキニシモアラズですけどね。
 そりゃそうなんですけど。ともかく、そんなことはどうでもよくて、重要なのはあと20日程度でこの我が部屋は空っぽにならなくちゃいけないってことです。僕の頭の中みたいに!無理!

 そんなわけで、地味に人生最大のピンチを迎えておる溝井でした。明日は燃えるゴミの日だ!!

2012年5月22日火曜日

遭難

気付いたら舟の上だった。あのひどい嵐を生き延びることができたのは、どうやら僕だけだったらしい。それとも、他の人々は別の船に助けられて、僕だけが置き去りにされたのだろうか。疑問に答えてくれる者はいない。一面には海と空。それだけだった。
僕が乗せられていた舟はちっぽけで、一人分のスペースがやっとの大きさだったけれど、古びた釣竿と木製の桶とオールが一応備えられていた。乗せられた。そう。少なくとも僕には、自分の意志でここに乗った記憶が無い。覚えているのはひどい揺れと、悲鳴と、暗闇だけ。僕はあのとき客室から出なかった。騒ぎが収まれば助かるのだろうし、収まらなければ死ぬのだろうと、そう思っていた。きっと日常にすがりつこうとしていたのだろう。獣の前で自分は透明だと信じ込む兎のように。そんなものはなんの助けにもならないのにと、今ならわかる。でも、あのときはもう、何もできなかった。きっと再び同じ目にあっても、何もできないだろうと思う。
けれど、その何もできない僕が助かってしまった。一体誰が、助けてくれたのだろう。その人は、それからどうしたのだろう。
見渡せる範囲には、あの船の残骸も、死体も、他の舟もなかった。太陽が沈む頃、ようやく自分が北の方に流されているらしいことはわかった。

この小舟の上での生活は快適さの対極にあった。穴が開いているわけでもないのにいつの間にかじんわりと浸水してくるので、日に5,6回桶で水を汲み出さなければならなかった。また、そのため長い時間深く眠ることも叶わない。目覚めはいつも衣服の不快な重さ。衝動的に服を捨てたくなったのは一度や二度ではない。
食事は当然魚ばかりだった。安全に食える魚とそうでない魚を見分けられるようになるために、僕は右の人差し指を半分失った。自分の指を食いちぎった魚は、不味くてとても食えなかった。でも他の魚達だって別に美味いというわけではない。食っても問題ない奴と、そうでないのがいるだけだ。ここでは食事もただの作業だった。喜びはない。ただ、空腹が苦痛だから、軽減するためにするのに過ぎなかった。
日差しは体中を焦がし、風は爪先を凍らせるほどだった。病気にかからないことが不思議に思えもしたが、ここでの生活自体が重い病と大差がないため、もはや健康でないことしかわからないというのが適当だった。
あれからどれほどの月日が経ったのかはわからない。ただ、遠くに浮かぶ救助船の幻覚を見なくなって久しい。幻覚でもいいから何か見たいと願っているのに。そこまで消耗しているのか、と自覚させられる。

夢を見た。
横たわる僕を男が見下ろしていた。薄汚い格好で、頭髪も髭も整えられておらず、目は濁っていた。けれど僕は、何故かその男が神様だと思った。
「私は神ではない」男はひどく聞き取りにくい声で言った。「そもそも神なんているわけがないだろう」
「ではあなたは誰ですか」僕は男に訊ねた。否、訊ねようとしただけで、そのとおり口が動かせたようには感じられなかった。
それでも男は静かに答えた。
「私がお前をこの舟に乗せた」
「あなたが?」
「そうだ。そのことはすまないと思っている」
「どうして?だって、助けてくれたのでしょう?」
けれど男は黙って首を横に振った。
「この舟に乗せてもらわなければ、僕は死んでいました」
「死んでさえいれば、この舟に乗ることもなかった。ここでの苦痛を味わうこともなかった。そうは思わないのか」
「それは・・・」僕は迷い、そして訊ねた。「では、どうしてあなたは僕をこの舟に乗せたのですか」
「自分をこの舟から降ろすためだ。お前は他人だ。他人だから、この舟でお前が味わう苦痛に、私は無関係でいられる。だが、自分の苦痛は自分で引き受けなければならない。自分を乗せるより、お前を乗せたほうが楽だから、そうしたまでだ。お前は舟に乗せられたことを、助けてくれた、と言った。それは私という他人の行為だからだ。お前が自分の意志でこの舟に乗ることを選んだとしたら、それだけで助かったとは思わないだろう」
「でも、生き延びている事実に変わりはありません」
「それがこの海でどれほどの価値をもつというのか」男は鼻息を漏らした。「私にはわからない。わからなくなったから、お前を犠牲にしたのだ」
「僕は犠牲にされたのですか?」
「そうだ。助けられてしまったせいで、この舟から降りられずにいる。もはや希望などないのに、生きるのをやめられずにいる。お前がこの舟を降りられるのは、別の誰かを乗せるときだけだ。私がそうしたように」
そして男はまっすぐ腕を伸ばし、遠くを指差して言った。
「目を覚ましたら、あちらへ向かうと良い。二日後、客船が嵐に遭遇する。そこに、乗せるべき者がいるだろう」
「助けろということですか?」
男は何も答えず、じっと僕の瞳を見た。
「では、見捨てろということですか?」
男は、まばたき一つしない。
「僕は助かりませんか?」
男は、呼吸さえしていないようだった。
「あなたは、助かりましたか?」
男は静かに目を閉じた。

目を覚ますと、いつもどおり、身体が海水に浸っていた。僕は上半身を起こし、桶をたぐり寄せる。
男の指した方角を見ると、穏やかな、平和そのものの海が見えるだけだった。あの日の前日だって、あんなふうに穏やかだったな、と僕は思い出した。

2012年1月19日木曜日

蜘蛛

その遊園地にある人影はたった二つだけだった。けれどそれは遊園地に異常があったためではない。むしろこの場において異質なのは二人のほうだった。
里中重は前方を行く小柄な女、七林結花の姿を目で追いながら歩いていた。駆け出しては立ち止まり、カメラを構えてシャッターを切る。彼女はずっとその繰り返しだった。
「いいところですね」彼女は振り返り、里中に言った。「来て良かった」
「でも一応廃墟ですし、足元に注意したほうがいいですよ」それでようやく里中は我慢していた助言を伝えた。
「大丈夫ですよ。転びそうになったら、里中さん、助けてくれるでしょう?」
「その自信がないから言ったんです」
「でも、探偵って普通そういうことができるんじゃありません?」七林は首を傾げた。彼女の肩まで伸びた黒髪もその動きに追従する。
「名探偵はそうかもしれません。でも僕はただの探偵です」
「じゃあ、練習しなくちゃいけませんね」
冗談なのか本気なのか。里中は七林という人間を測りかねていた。しかしその意図がいずれであっても、思わず頷いてしまいそうな力を彼女の笑顔が持っているのは確かだ。気を付けなければ、と里中は思う。そもそもここへ連れてこさせられたのも、その力のせいだった。
「そういえば里中さんはカメラ、持って来なかったんですね」
「まあ、撮ろうと思えばケータイで撮れますから」
別に何かを撮ろうとなんて思ってもいなかったが、里中はつい言い訳をした。
「それは違います。そんなことではいずれきっと後悔しますよ」
「後悔って、大げさな」
「本当ですよ。何かを撮りたいという瞬間にケータイしか持っていないというのは、それはもう大変な不幸ですからね。一応撮影できてしまうという点で、むしろ何も持っていない場合よりも。ああ、あのときまともなカメラさえ持っていれば、とその写真を見返すたびに思ってしまいますから」
「それは良いカメラを持っているから感じることです。僕にはカメラといったらこれしかありませんから、そんなことを感じたことも無いですよ」
「わかりました。そこまで言うなら今度まともなカメラをプレゼントしてあげます」
「そんなに後悔させたいんですか」そこまでってどこまでだ?と里中は思ったがそれは我慢した。
「もちろんですよ」七林はにっこりと笑った。
鼻から息をもらし彼女から視線をそらすと、ふと錆び付いた観覧車が目についた。同時に里中の中で幾つかの光景が再生された。それは、どれもこれもあまり愉快ではなかった。赤いガラス。突き立てられたナイフ。そしてあの歪な悪意。
「里中さん」七林の穏やかな声が彼を現実へ引き戻した。「あそこのベンチでお昼にしましょう」
七林はベンチに綺麗な白いハンカチを敷き、その上に腰掛けた。里中はその隣に、何も敷かずに座った。
七林が差し出した彼女お手製のサンドイッチはなかなかのものだった。特にパン自体が美味い、と里中は感じたが、それをそのまま伝える蛮勇を彼は持っていなかった。
お茶を飲みながら里中がぼんやりと空を眺めていると、七林が彼の顔を盗み見ているのに気づいた。
「何か?」
七林は首を横に振った。けれど、どうやら心配してくれているらしいことを里中は察した。そう、別にここへは遊びで来ているわけではないのだ。いつまでも逃げていたって仕方ない。逃げ切れるはずもない。
「七林さん。頭の体操って得意ですか?」
「え?」本当に意外な質問だったらしい。目を丸くした彼女の表情に里中は少し懐かしさを感じた。
「例えば、三角形の内角の和が180度以上でありうるか、とか、そういう類のクイズです」
「ああ。それでしたら、得意ではないですけど、好きですよ」
「では、食後に一つ問題を」里中は一呼吸置き、右手の人差し指を立てて七林の前に出した。「の、前に。タバコを吸っても良いですか?」
「ええ、どうぞ」
「では、遠慮なく」彼は取り出したタバコを咥え、火を点けた。「うん……。死んでもないのに、生き返った気分です」
七林の顔はなにか言いたげに見えたが、口の端を上げたままだった。そのことがありがたい、と里中は感じた。
「ある遊園地で、殺人事件が起きました。舞台はあそこです」彼は右腕を伸ばし、錆びた鉄骨を指さした。
「観覧車?」
「そう。事件はあのゴンドラの中の一つで起きました。ある男性がその中で亡くなっているのが発見されたのです」
「でもそのゴンドラには男性の他には誰もいなかった。そうですね?」七林は早口で言った。
「ええ。でなければ、問題になりませんからね」それを制するように、里中は意識してゆっくりと答えた。
「死因は?」
「ナイフで刺されてショック死です。ナイフはゴンドラの中に落ちていました」
「可哀想……」
「いえ、これはあくまで架空の問題ですよ」里中はできるだけ優しい声で言った。「やめておきましょうか?」
「平気です。それに、未解決のままじゃあ、もっと後味が悪いでしょう?」
――そうだろうか。いや、それはそうなのだろう。けれど。
里中は一瞬のざらついた感情を無視し、タバコの煙を吸い込んだ。
「でもナイフがゴンドラに落ちていたということは、犯人は相当な返り血を浴びたんじゃないですか?」
「まあ、普通はそうですね」
「ではあからさまに不審な人物もいなかったと」里中の反応を見て七林は唸った。「発見者は?」
「遺体の発見者は観覧車の係員です。ただ、事件の目撃者も別にいます。男性の一つ前のゴンドラに乗ったカップルが、そのゴンドラが不自然に揺れて、窓ガラスに何かが付着したのを見た、と証言しています」
「じゃあ、犯行はゴンドラが上にあったときに行われたということですか?ちなみにどの位置でしょう?」
「そうですね、ちょうど下がり始めたくらい、だいたいあの100度から110度くらいの位置です」里中は指さしながら説明した。
「あ、わかった。ゴンドラの中にナイフの発射装置が取り付けられていたんですね?」
「いえ、そういうものはありませんでした。ついでに言うと、何者かが隠れるようなスペースもありませんでした」
「うーん、駄目かぁ」七林は首を捻って目を瞑った。「その観覧車に隣接する高いものってありました?ジェットコースターとかそういう」
「一応あるにはありましたけど、飛び移るなんて現実的じゃないし、窓ガラスも割れたりしていませんでしたよ」
「でも、ドアは開けられたのでは?」
「鍵は外側から、閂タイプのものがかけられていました」
「そんなもの、いくらでも外せますよ」七林はふっと笑った。「でも、それも駄目なんですね」
「まあ、少なくともゴンドラの係員が発見したときは、鍵はかかっていたそうです」
「うーん」七林は唸ったまましばらく黙った。そしてゆっくりと里中の目を見上げ、囁いた。「ヒント」
「そうですね……。その遊園地はお世辞にも繁盛しているとは言いがたい状態でしたね。それに平日でしたから、どのアトラクションもほとんど並ぶ人がいなかったようです」
「他には?」
里中は答える代わりに肩をすくめた。
「里中さん」
「はい?」
「意外と意地悪ですね」
「それは、心外です」
「いいでしょう。びしっと解決して差し上げます」
彼女は天を仰ぎ、目を閉じて、静かに息を吸い込んだ。そのまま十秒ほど静止して、それから僅かに目を開けると観覧車を射るように見た。
「観覧車の係の方は、何人いました?」
「事件が起きたときに限定すれば、二人です」
「よろしい。犯人は二人のうち、いずれかです。そしてもう一人は共犯者ですね」
「目撃者の証言はどう説明します?」
「そちらも口裏を合わせているだけか……、いいえ、ただの勘違いね。いや、もしかしたら犯人が本当にゴンドラを揺らしたのかも。運転を一瞬だけ止めて」
「返り血の件は、どうでしょう」
「犯人は、発見されるよりもっと前、犯人と共犯者と、被害者しか観覧車周辺にいないような状況で犯行に及んだ。それで、ああ……」
「そう。目撃者が来るのを待っていたんです。遺体を乗せたゴンドラを廻しながら」
「だけど、それだと一つ不可解です」七林は里中に視線を向けた。観覧車に向けていた先鋭さを保ったまま。
「何が不可解ですか?」
「なぜ、わざわざ観覧車で殺したんでしょう。嘘をついたってすぐにばれるに決まっています。普通、計画的に殺すなら、絶対捕まらないように考えるはず。そこがズレているように思います」
「そうですね。まあ、それは」
「それは?」
「それはもう誰にもわかりません。どこかへ逃げる算段だったのかもしれないし、そこで殺すことに価値を見出していたのかもしれない。あるいは半ば冗談だった計画が何かのはずみで実行されてしまっただけかもしれないし、それとも本気でばれるはずがないと信じていたのかもしれません。そもそも」里中は無理に笑顔を作った。「これはお話に過ぎませんから」
「いいえ、お話だからこそ、落とし所があるのです。そうではありませんか?」
「そうかもしれません」
「でもそれは貴方が作らなければ存在しないものです。ねえ里中さん」七林はベンチから立ち上がり、身を屈めて里中の顔を覗いた。「犯人はどうして観覧車で事件を起こしたのですか?」
「わからないではいけませんか?」里中は彼女から目を背けた。
「それも一つの答えです。しかし貴方は別の可能性に囚われていますね。わからないという解答ではそれを誤魔化しきれなかった。そうではありませんか」
里中は何も答えられず、ただ唇を噛んだ。
「仮にそうであれば、いったんわからないという解答は捨てて、別の解決を探すのが賢明です。仮定しましょう。もしわかるとしたら、それはどうしてだったでしょう」
里中は必死にそれらしい嘘を探した。けれど、きっとそのどれもが彼女の前には無力であることを予感した。ふと、犯人はいつもこんな感情を抱いているのか、と思った。それは引き金を引く寸前の殺意であり、十字架の前にひれ伏す救済の渇望だった。
「わからないんです。本当に、ずっと。でも、夢に見る。彼女は蜘蛛で、ゴンドラは彼女の巣で。彼女が蜘蛛なら、獲物を巣で殺すのは自然です」
「ええ」
「だけど、それは彼女を客観視した、場合です。彼女自身は、その、主観では」
どうして言葉につまるのだろう。里中は自分が不思議で、不愉快で、消えてしまいたいと思う。
「主観では?」
「ただ、きれいだから、と。そうするのが一番きれいだから、そうしてあげたのだと」
「それに対して、里中さん、貴方はどう思いますか?」
「許されないことだと。たとえそう感じても、してはならなかったと思います」
「そうですね。私もそう思います」
そして七林は、美しい微笑みを見せた。
「それではいけませんか。それだけでは足りませんか?」
――ああ、なるほど。こういうとき、確かにカメラがあればよかったのかもしれない。里中は思った。もっとも、仮に持っていても撮れるはずがないし、そんなものに頼らなくともきっと忘れることはないだろう。
「いえ、それで十分です」
里中は答えた。
観覧車を見上げる。その赤く錆びたゴンドラには確かな悪意の残留を感じたけれど、もうそれほど怖くない、と里中は感じた。

2011年10月13日木曜日

ノスタルジア



 意識が芽生えた瞬間から、すでに土の中にいた。何も見えず、何も聞こえず、手足も動かせず、けれどそれが普通であることを知っていたので、心も静かだった。
 「誰かいる?」
 呼びかけると、声は意外と近くから返ってきた。
 「いるよ」
 「どこ?」
 「こっち」
 「こっちじゃ、わからないよ」
 すると声の主はかすかに笑った。
 「きっと目の前に木の根があるでしょう?たぶんその向かい側だと思う」
 「たぶん?」
 「だって見えないから。確かめられないわ」
 「見えない?君も?」
 「そうよ。だってきっと私たち同じ生き物だもの。でなきゃ言葉なんて通じない」
 彼女の推測を確かめようと、何とか前方に顔を動かした。口に当たった感触が確かに木の根だとわかった。
 「本当だ。目の前に、木の根、あったよ。でも、なんでわかるんだろう?」
 「必要なことは、私たち、みんな知っているの。生まれるってそういうことよ。準備ができたからこうして生まれて、生きている。君も私も」
 「それ変だよ。だって、そんなの僕は知らなかった」
 すると再び彼女の笑い声。僕は心が縮こまるのを感じた。
 「私もそう。知らなかった。でも教えてもらったの。君と同じように」
 「誰か他にここにいたの?」
 「うん。でも教えてくれたらさっさとどこかへ行っちゃったけど」
 「君もどこかへ行ってしまう?」
 「行かないよ。だって私、君よりほんの少し先に目を覚ましただけだもの」
 「じゃあ、僕も、どこへも行かない・・・。ずっと一緒にいてくれる?」
 「うん、きっとずっと一緒だね」


 それから彼女はいろんなことを教えてくれた。目の前の木の根から樹液が吸えること。他の生き物の振動が聞こえたら静かにしなければならないこと。
 そして長い月日を二匹で過ごした。春も夏も秋も冬も。幾度の季節が巡っても僕達は一緒だった。
 けれどある夏の日、別れのときが来た。それは生まれたときから決められていたことで、僕らはもちろんこの日が来ることをずっと前から知っていた。
 「絶対探してみせるから」
 「うん」
 「だから・・・、いってらっしゃい」
 「うん、行ってきます」
 言葉を飲み込んだ不甲斐ない僕を、いつもの様に彼女は笑い、そして地表に出ていった。


 彼女が去ってからの一日は、一年よりもずっと長かった。僕がどんなに願っても、身体はまだそのときではないと、上へ行くことを許さなかった。未発達のせいで脱皮がままならずそのまま朽ちても構わないと思っても、手足が自由になることはなかった。
 そしていよいよ僕にもそのときがきた。あの日から、ちょうどひと月経った頃だった。
 初めて目にする外界のことなんてどうでも良かった。微かに聞こえる同胞の声も、慣れない飛行を邪魔する風も、睨みつける鳥の目も無視して、僕は飛び続けた。


 上にきて二日目。その死骸を見た瞬間に、それが彼女だと僕にはわかった。彼女は、知らない個体と繋がったまま、干からびていた。
 幸せだったろうか。僕にはわからない。干からびた彼女の身体も、何も答えてくれない。
 僕は何かを失ったのだとようやく思い知らされた。彼女がすでに生きていないことなんて、ここに上がる前からわかっていたのだから、失うものなんて何も無いはずなのに。


 僕はそれからわがままを言うのを辞めて、全部身体の好きなようにさせた。自分が喧しく鳴くのを聞きながら、もう鳴く必要なんてないのにと思った。だって彼女はもういないのだから。
 それでも身体は、朽ちるまでぼくを鳴かせ続けるのだった。

2011年10月6日木曜日

林檎が落ちた

 僕がスティーブ・ジョブズに感謝しなければならないことは3つある。

 1つめは、優れた才能を持つ沢山の人々に、その才能を遺憾なく発揮できる道具を与えてくれたことだ。おかげで本当に多くの素晴らしい作品を今まで堪能することができた。特に森博嗣先生の小説に出会えたことは感謝してもしきれない。
 もしジョブズがAppleを設立していなくても、他のユニークな才能が同じようなものを創り普及させたかもしれない。でもそれにはきっと、もっとずっと長い時間が必要になっただろう。逆に言うと、ジョブズのおかげで僕達はずいぶん遠くの未来まで見せてもらえたと考えることもできる。人生は短い。だからタイミングは非常に重要だ。僕に影響を与えてくれた数々の作品に最良のタイミングで出会えたのは、本をたどればジョブズのおかげである、ということが多々あった。おそらくこれからもそんな経験をいくつもするだろう。だから、ありがとう。

 2つめは、道具に憧れを抱かせ、そしてその期待を裏切らないでくれるというプロセスを経験させてくれたことだ。僕の尊敬する多くの人がMacの素晴らしさを語っていた。幼かった僕はMacさえ手に入れれば自分も彼らと同じように素晴らしい物を創り出せると単純に信じ、いつか手に入れようと心に誓っていた。そして漠然と創りあげたいものを思い描いて楽しんでいた。大学に入り、アルバイトをして、ようやく手に入れたMacはたしかに素晴らしかった。けれど思い描いていたものなんてちっとも創れなかった。それは自分に技量も発想も根気も何もかも欠けていたからだ。
 Macがあれば魔法のように何でも生み出せると僕は思っていた。Macを手に入れてわかったことは、魔法を使うには色々と必要なものがあるということだ。Macがもし素晴らしい道具でなければ、僕は自分がダメな理由をMacに押し付けて逃避することもできただろう。でもそんなことはけして許されない。だから僕は現実を渋々直視する。Macを手に入れる前思い描いていた素晴らしい物を自ら創り出せるようになるまで。

 3つめは、人間はこんなふうにも生きられるという見本を見せてくれたことだ。僕はまだジョブズの半分も生きていないけれど、同じ時代に生き、その強い思想、強い意志をリアルタイムに感じることができたことに感謝する。それを感じることができたのもジョブズが創ったMacを通してなのだから面白い。本当にありがとうございました。


 ワンモアシング!
 iPhone4Sがfor Steveではないか、という意見を見たとき、背筋が寒くなった。もしそれを発案したのがジョブズ自身だったら凄まじすぎる。さすがにそれはないとしても、少なくともそれにゴーサインを出した彼の意思を継ぐ人たちがいるということだ。そう考えると、まだ当分未来は明るいんじゃないかと思うのだ。

2011年10月2日日曜日

誤謬

 シャッター街の中を急ぎ足で歩く。バスの発車時刻まであと20分。乗り遅れたら次はない。それほど大した距離でもないし、速度も言うほどではないのに、少し息が切れる。学生時代に比べてずいぶん体力が衰えたものだ。ここまで自転車で毎日通っていたなんて信じられない。記憶が一瞬風の様に心をくすぐって、かすかに笑ってしまう。
 バス停を一つ二つと通り過ぎて、記録に挑戦しているつもりはないけれど、歩けるところまで歩く。ついに発車時刻との差が5分を切って、コンビニ前のバス停に立ち止まった。もうひとつ歩けば運賃が60円安くなるけれど、そうやって何度も泣きを見た経験がこれ以上を許さなかった。
 西を見ると太陽の最後の抵抗が雲をかすかに染めていた。いつの間にかずいぶん日が短くなった。ついこの間まで夏だったのに。まあ、そのちょっと前は冬で、その先なんて色が見えないほどぼやけている。ずいぶん遠くへ来たのだな、と感じる。自分はあとどれくらい行けるのだろう。
 車の音に振り返ると、バスの扉が開いた。


 車内はいつも通り運転手と自分だけだった。いつもと同じように最後尾のシートに座る。目の前の背もたれには真新しい相合傘が彫られていた。きっと容易に消すことはできないだろう。よく見ると背もたれはところどころ塗料を塗りつけた形跡がある。これも同じように、上から塗料を被せられることになるだろう。しかし、考えてみるとそれはこの落書きの保護としても捉えられる。すると稚拙でどうしようもない子供らの感情が、ここに地層を形成しているわけだ。報われるといいな、と素直に思う。
 「お客さん」急に運転手がマイクで話しかけてきた。「どこまで乗っていかれますか」
 客が一人だから必要以外の降車場所のアナウンスを省きたいのだろう。いつもはこんなことを聞かれることもなく、勝手に目的地で停車してくれるのだが。どうやらいつもとは担当者が違うらしい。今日だけなのか、今後ずっとなのか。いつもの人は、そういえばもう引退してもおかしくない歳のように思えるが。
 そんなことを考えながら、しかし簡潔に行き先だけを答えた。運転手もそれ以外何も言わなかった。


 バスから降りると、風が少し寒いくらいだった。ポケットに手を入れて、すっかり暗くなった道を歩く。外灯以外、家の明かりさえない。昔はこの暗闇がとても怖かった。木々の擦れる音も、小川のせせらぎも恐ろしい物を潜ませているような気がして。けれど今はこの音がとても落ち着く。この暗闇にとても安らぐ。今日の晩御飯は何だろう。秋刀魚なんかが食べたいところだが。
 コンクリートの小さな橋を渡り、少しだけ坂を登って、T字路を左に曲ってーー、けれど我が家の明かりは見えなかった。出かけているのだろうか。けれど心臓の激しい音がそんな安易な解答を打ち消す。しかしあくまでもゆっくりと歩を進め、家の前で立ち止まった。否、家があるはずの場所の前で。


 その一角には、ただ闇が沈殿しているだけだった。家があった形跡さえない。


 そうだ。ここに家なんてない。どうしてそんな思い込みをしていたのだろう。


 歩いているうちに錯覚していたのだ。帰りさえすれば家にたどり着くのだと。


 でもそんなもの、ただ妄想。帰る家はここにない。そんなものどこにもない。


 では、どこへ行けばいいのか。家のない私は、どこへ帰ればいいのだろうか。


 しばらくした後、私は再び歩き始める。


 帰り道をゆっくりと。


 けれど辿り着かない。


 だから歩く。


 いつまでも。


 どこまでも。

終わりの季節

いつか必ず、終りが来る。いずれ言おうと思っていた言葉、そのいずれがいつか途絶える。言えなかった言葉になる。なった。なってしまった。
その日が来ることの想像はしていた。何度も何度も。でも、そうではない妄想も同じくらいたくさんしていた。もう実現することのない未来になってしまった。

けれどもし、時を戻せたとしても、きっと僕は何も言わないだろう。後悔なんてない。でも他のものも何一つない。全部なくなった。空白。

その空白に何があったっけ。

僕は大人だから、大人の理屈をたくさん持っている。大人の理屈は便利で、心にもない言葉をいくらでも吐き出してくれる。僕から切り離された理屈で僕を動かしてくれる。おめでとうと僕は言える。何もない心なのに。

これはひとつの終わり。今までのすべての終わり。
どうしてこんなに儚いものを、なくなったら他の全部が壊れてしまうような場所に置いていたんだろう。
いや、そうじゃない。他になかったんだ。それ以外になかったんだ。あるいは、それがあったから組み上げることができていたんだ。

明日から、また生き始めよう。今はそれがどんなものか想像できないけれど、一から組み上げていこう。かなわない願いが今日のうちにすっかり綺麗に消えてしまいますように。祈りながら眠ろう。