2010年3月30日火曜日

法的な優しさ

 隣席から動きが伝わってきたせいで微睡みから引き戻された。慌てて窓の外を眺めて、まだ降りる必要がないことを確認する。昨晩遅くまで起きていたせいでまぶたが重い。寝付きと目覚めが悪いというのはなんとなく無様だ。まるで古典的なアニメとかの幼馴染キャラのような執着を思わせる。
 隣に目を遣ると老婆が目の前に立った青年に手を伸ばしていた。端末を使ってポイントのやりとりをしているのだろう。一般的に老人は無線の性能を信じていない。最近はそんな老人のためにわざわざ極彩色の光が出る端末があるらしいが、彼らはそもそもそういう新しいものに手を出す意欲を失っているのだから意味が無い。たぶん、発売元も政治的な意味合いでしかたなく作っているだけなのだろう。
 それにしても、いい時代になったものだ。この混み合った電車の中を見渡しても、立っている老人や妊婦は一人もいない。私が若かった頃には想像もできなかった光景だ。優しさ推進法が施行されてもう何年になるだろう。それまで善意に頼っていたすべての行為に優しさポイントが付くようになり、人々は善意の振る舞い方で悩むことから開放された。老人などに席を三回ほど譲れば、だいたいジュース一本くらいと交換できるだけのポイントが得られる。感謝の気持ちがなくなるとか騒ぎ立てて抵抗していた宗教団体もあったけれど、結果的に親切を受ける側の精神的負担も軽減されるこの法はなんだかんだで人々に受け入れられることになった。
 親が子供に弁当を作れば50ポイント、出勤を代わってやれば30ポイント、バレンタインにチョコをあげれば1000ポイント。
 私自身は昔から出来る限りそういう優しさから身を遠ざけたいと思っていた。だから、優しさ推進法には感謝している。なぜならその流通の渦中に身を置かないとしても、ただ損するだけの間抜けと思われるだけで、人格が否定されることはなくなったからだ。
 この時代に無償の優しさが意味のないものだとは思わない。しかし、見えないもの、測れないもの、明文化されない約束はいつも底なしの不安を内包している。だからもう、誰もそんなものに触れようとはしない。今の若者達にはきっと、それが優しさだったことさえ理解出来ないだろう。そんな危うい束縛で構築される人間関係の時代は、もう過ぎ去ったのだ。

 私はケータイを取り出してメールのチェックをした。旧友から、ポイントが無いから恋人にプロポーズ出来ないという愚痴が送られてきていた。彼はポイント貧乏だから、しかたがない。慰めのメールを送ろうかと思ったが、私はそのままケータイをしまった。彼からポイントを受け取るつもりはないからだ。これは旧世代の優しさだろうか。今の時代では、そんなものちっとも伝わりはしないのだけれど。

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