2013年8月14日水曜日

から


 最初に失われたのは何だったろう。何もかもが跡形もなく消え去ったあと、ようやく私は生まれた。そんな気がする。
 実際のところはよくわからない。わかるという言葉を使うために必要な条件を、このことに関して私は一切持っていない。けれどそれはわからなくても確かと言える事実だった。私はそれを神様よりも信じていた。そのことと、私という言葉の指す対象は断ち切ることのできないもので結ばれていた。
 生きることで取り戻せたものは、失われたものの何%になるのだろう。最初から、全てをもう一度取り戻せるなんて思っていない。幼い頃そのことで何度涙を流したか知らない。何かを手に入れるたびに、これでは全く足りないと思い知らされる。でもどれくらい足りないのかがわからない。それなのに、その量がどうしようもないほどだということだけはわかっていた。
 私は私になる前、いったい何だったのだろう。どうしてこんな喪失感をいつも抱いていなければならないのだろう。記憶を積み重ねることさえ、私には苦痛だった。
 いつか何もかも手放せる。それだけが救いだった。手放せることよりも、手を失えることが待ち遠しかった。手があるから、境界線が作られる。私は私の手を失うことで、きっと全ての手を同時に握れるだろう。以前はそうしていたに違いない。その証拠に、今まで握った全ての手は懐かしさを感じさせた。これでは全く足りないという確信を伴って。
 ときどき夢を見た。私のいない夢。この体は世界になく、私には何も見えず、何にも触れることができない。けれど全ての時を見て、全ての場所に触れ、それなのにどんな感情も動かない。目が覚める前、一瞬だけ安心を感じる。これこそがあるべき形、あるべき私なのだ、と。
 しかし目を覚ますとそのまやかしと、そんなものにさえ縋る自分にはたと気づき、心底絶望する。
 それでも私は夢を見た。何度も、繰り返し。
 そう、私はそれでも生き続けたのだ。
 でも、それは何のためだったんだろう。
 生きていると、色々なことに慣れてくる。喪失感にも慣れた。絶望にも慣れた。私は私に慣れた。
 そして生きていると、生きてしかいないのに、それでも色々なものを失う。失ったと気づくたび、私は微笑ましく思ってしまう。懐かしいと感じてしまう。そして、どうせ失うのなら、いいか、と今では少し思っているのだ。どうせ失うのなら、始めに何を失ったのかなんて小事ではないか、と。

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