
集団によって何かが選択されるとき、多数決がとられることが多い。最も得票数が多い意見を採用とする方式で行われる場合、もしなんであれ自分の意見を通したいのであれば、その集団において一部に利益が傾くように意見を設定するのが良い。その一部というのが過半数を超えていなければならないが、そうすれば最も票を得られる可能性が高い。
利益が傾くということは、どこかに損が生じる。通常は集団の外部に損をさせて内部の利益を得るのが一般的だと思われるが、そもそもその構造を集団が持っているのだから多数決をするという段になって改めて多くの利益を外部から徴収する仕組みを作り上げる、あるいは提案するのは難しい。しかしすでにある内部の利益を偏らせるのは比較的容易であり短期間で可能である。
集団に属する者の多くは、自らに得られる利益こそが重要であり、その利益の出所など二の次である。
このようなあり方で行われる多数決の場合、最も多くの票を集める意見が集団内で最も多くの不利益をもたらすことがままある。100人が50円得するために10人が一万年損をする。しかし、100人の者たちの意見も10人の者たちの意見もそれぞれ1ずつしかカウントされない。そういう構造が一番分かりやすくよく見られるのは選挙のときだろう。
では集団内でそのような不利益や偏りを出さないためにネガティブな票を入れられるようにし、投票された総数からその分を引くようにしたとする。するとどうなるか。毒にも薬にもならない意見が採用される、と思いたいところだがそれはありそうにない。なぜなら集団に属する殆どのものが自らの利益を第一に考えており、その意見は集団に属する何ものかが発したものだからである。
この場合ありえそうなのは、議論されてもいない新たな偏りが生じるであろうという予測である。そしてその偏りは10人に十万円をもたらし、100人に千円を払わせるようなものであることも十分にありうる。
それであれば、十分議論され認識されている、集団内で最も不利益をもたらすと思われる意見を採用した方が良い、ということも考えられる。もちろんそんなことはないということもあるが、十分認識されているのであればその対策もしやすいからである。それに最も不利益を被る集団内の集団が多いのであればその対策を大きくしやすいし、その集団内の集団を構成する条件が自明であるほどまとめることが容易である。
さて、こういった意思決定の構造を個人の内面に当てはめてみる。自分の中の多数派は、少数の内部を犠牲にしてはいないか。また、犠牲を恐れるあまり十分にそのメリットデメリットを考えられていない意見を採用してはいないか。
あるいはそこから少し離れて、自分の現状を作り上げた意思決定の方法はどのようなものか、他にどのようなものがありえたか、などを考えると、もしかしたら客観に近づけるのかもしれない。
そんなどうでもいい話。
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