昨日の件について、家の喩えがなんとなくしっくりきたのでもう少し考えてみる。
住んでいる場所に不満があるならどうすればよいか。自分だったら、第一に別の住処を探すだろう。それに結局どこに住んだって生活に大差はないと考えている。たぶん僕だったら、住む場所がどこでも室内をどうしようもなく散らかすだろう。それは誰と住んだって一緒。そうであれば散らかしても文句を言われないのが良いし、つまるところ一人がベストだ。
しかしそうもいかない境遇というのも想像できる。例えば養うべき家族がいれば、住む場所を変えるのは容易ではない。その場合環境を改善するのがとたんに困難になる。もしそんな立場に追い込まれたら、自分ならやはり別の住処を持とうとするだろう。けして出ることができない、離れることができない家というのは不自由で好ましくない。
だが多くの人にとって理想の家庭を築くことはそれだけで十分価値のあることとされているように思う。理想のために不具合が生じる。不具合を受け入れるために理想が育まれる。不具合を理想のためにあるものと仮定すると、それはまるで未来のための貯金のようだが、果たして万人がそれに見合う理想を手に入れられるのだろうか。
想像するに多くの場合、不具合と理想、現実と理想の境界がいずれ曖昧になり、まるで明日の不具合を手に入れるために今日の不具合を引き受けるというようなわけのわからないところへ陥ってしまうのではないだろうか。
どうしたら状況はよくなるだろう。みんなが複数の住処を持てばある程度は緩和されるかもしれない。一つしかないという状態、選択肢のない不自由さが人を追い詰める。複数のものを実際に持つことの利点は、それ以外のものも持ち得るという確かな想定が可能となることだ。
結局、人間同士の摩擦が一番面倒という話。あれ、そんな話だったっけ。

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