2011年4月5日火曜日

はるとはなばかりの寒さ

 東電が新たに福島に原発を2基増設する計画を政府に提出したニュースを見た後、こんな言葉を目にした。
 「経済を考えたら仕方ない」「作るのはいいけど福島以外には建てるな」「反対する奴は停電を味わってみろ」
 確かに、夏場にはさらなる電力不足が見込まれていて、経済を考えると妥当と言えるかもしれない。また経済のみならず、冷房を前提にしている東京の建築などを考えれば、お年寄りや子供にも被害が出かねない。
 それに放射線のようなリスクは、どこか一箇所に背負わせたほうが合理的だろう。

 これらの言説の前提となっているのは、おそらく周辺住民はその地を離れて住めば良い、あるいはもう戻ることなどない、という意見だろう。
 しかしそんな前提は倫理的に成立し得ない。

 もし彼らが“合理的”であれば、どうして経済的に追い詰められつつあった福島に住み続けようとしただろう。外部から見た“合理的”な判断をした者たちは、とっくに別の都市へ移住しているものと思われる。それでもなお住み続けていた彼らが判断に使用するのは“合理性”ではないはずだ。

 それでも彼らに“合理的”判断を求めるのであれば、どうしてこの閉塞感が充満した日本を離れ海外に移住しないのか、自らに問えば良い。理由を抽象すると、すなわち海外より日本でのほうがいきいきと生きられるから、ということではないだろうか。
 同じことが彼らにも言えるのではないか。そしてそれは、上述のような発言をする人たちよりずっと根深いものだと思われる。

 「先祖の代から守ってきたこの土地を云々」という説教を、僕は小さいころよく聞かされていた。実際に自らのルーツがどうであるのかということは、意味が無い。重要なのは彼らがその土地をどのように見ているか、どのような価値観を持っているかという点だ。
 想像するに、彼らだって当然馬鹿ではないので、外部から見た“合理的”思考を自らに投げかけなかったわけがない。多くの者が都市へ移住する中、自らの境遇をどのように措定したのか。自らを縛り、働かせ、喜びの多くと、そうでない感情の多くを与えたその土地に、交換可能な価値なんて見いだせるのだろうか。
 彼らは彼らの持つ前提において“合理的”なのだ。そこにあるのはきっと、自分の、そしてそれ以外の大切なものの、生命と同義の価値だ。

 他者特有の“合理性”を認めずに何が民主主義だろう。経済的合理主義もまたひとつの価値観ではあるけれど、決して絶対であってはならない。そして今、その破綻しかけている価値観を取り繕うために、新たな愚行を犯そうとしているのではないだろうか。
 とにかく、何が言いたいのかといえば、下記の一言で済む。
ふざけるな馬鹿野郎!

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