2011年2月15日火曜日
ナマモノを貼りつけて
昨晩に振った雪はいささかメンヘラチックだったように思う。夜中さんざん自己主張をして、翌日の朝に大きな迷惑をかける。けれど昼頃にはわずかに残骸が道端に残る程度。惨めったらしくアスファルトに溶け出していて、ただ鬱陶しい。でもなくなったら、少しだけ残念に思うような。ほとんどテロだ、と言ったらテロリストに失礼だろうか。じゃあ、メンヘラが天災的?まあ、どうでもいいか。
とにかくそんなわけで今朝の通勤は散々だった。ある程度の遅延や車内が満員であることは覚悟の上だったが、まさか改札を抜けてから乗車口に辿りつくまで30分以上かかるとは一体誰が予想していよう。ため息。
それにしても、朝の駅におけるこういったトラブルは本当にどうにかならないものかと思う。周囲にいる何十人という人間がみな苛立っている状況というのは、その場にいるだけでかなりストレスが溜まる。今日ほどの混雑具合ではなくとも、通勤時の電車というのは大概一触即発な雰囲気で、どこかしら死に物狂いというか息の詰まる感じがする。
いっそ電車で通勤・通学する人はすべて、家でダンボールにでも箱詰されて目的地まで運んでもらった方がましなのではないかとすら思う。梱包材に敷き詰められて、結構快適かもしれない。酸素が足りないというのならボンベも同梱すれば良い。そうして会社や学校に出荷されるのは絵的にも悪くないし、それに人身事故にも遭遇しなくて良い。非人道的かもしれないが、それは現状でも同じことだ。問題があるとすれば、正月の年賀状配達のように配達員が荷物を何処かに放置してしまわないか、ということや、配達ミスくらいか。いずれにせよ毎日がアンドロイドごっこみたいで、僕としては結構楽しめると思う。
2011年2月14日月曜日
タイプトレースで書いてみた。
これはタイプトレースというソフトを使ったからおっきくなっていたりちっちゃくなっているのであって、決して僕の気が狂ったわけではない。
アプリを使用すれば自分のタイピングをあとで再生できる、というおもしろ機能も付いていたりするけど、そのおかげで打つ方はめちゃくちゃ緊張して、こんな、内容がペラペラになってしまう。まあ、慣れなんでしょう、そこは。
これ、大小が出るという点で面白くはあるけど、正直読みにくくなる。長いものには適さないだろう。詩とか、誰か書いたらいいんじゃない、と思う。
まあ、他にも色々できるアイディアはあるけれど、なんか、もういいです。これ、気疲れがすごい。苦手だ。なんか喋らされているみたいで。
2011年2月13日日曜日
もし明日背が伸びても
我々は何の準備もなく生まれてくるしかない。しかし明日の準備くらいはできる。
振りかかる出来事を理不尽と思うか、それとも準備不足と思うか。我々にはその判断をする自由がある。
ならば可能なかぎり準備をしておこうではないか。それが明日生まれる自分に対しての優しさであり、知性だ。
そんなわけで、今日は明日身に振りかかるおそれのある出来事を想定し、対策を考えてみたい。
では早速、もし明日目が覚めたら身長が今の倍になっていたらどうしよう。
そんなバカなと動き出す前に、ちょっと待って欲しい。あなたはそのままゆっくり周囲を観察して、このまま動き出して良いのか判断をしなければならない。さもなければ左肩でメガネを粉砕するだろうし、驚いて仰け反ると後頭部でガラスを打ち破り、両足は壁に突き刺さって抜けなくなってしまうかもしれない。慎重に事を運ぶのが肝要である。
声を荒らげて助けを呼ぶのも待ったほうが良いだろう。もし誰かがその声に気付き駆けつけてくれたとしても、状況が好転するとは限らない。なぜなら一晩で身長が倍になるということは普通有り得ないことであり、それ故現時点で最も疑わしいのはあなたの精神である。
間違いなく昨日と身体のサイズが違うことを確認するために、まず自分の今着ているものを見てみるのが良いだろう。確かに倍になっているのであれば、確実におかしなサイズの服を身に纏っているか全裸であるはずである。
しかしここで気をつけねばならないのは、全裸だった場合、あなたが普段から全裸で寝ている可能性、あるいは夢遊状態で全裸になった可能性が残されていることである。だからその場合は落ち着いて下着だけでも身につけたほうが良い。
だが下着だけでもとはいったものの、サイズが変わってしまっていたらおそらく今までのものをそのまま着ることはできないだろう。もしあなたが家族と住んでいて、家族の中に以前のあなたと身長が倍違う者がいるなら、そのときはいったん恥を捨てて彼もしくは彼女の助けを借りたほうが良い。そうでない場合は、とりあえず布団で古代ギリシア風の衣装を真似て体に巻きつけると良い。あるいはテンションが上がりすぎた子供のように上着を履く、あるいは巻きつけるのが良いだろう。
いずれにせよこれらに必要となる一切の動作は起き上がらずに行うのが賢明である。折角だから天井の一つや二つぶち破ってみたい、というのなら止めないが、まず間違い無く怪我をするし、修理費もバカにならない。
さて、とりあえず人前に出られる最低限の準備ができたところで、これからの行いの選択肢が増える。すなわち、人前に出るか否かである。先程の段階で家族の誰かの手を借りた場合であれば、さらに多くの人に知らせるか否かだが。
これを判断するには、この異常事態が今後も継続するのか否か、という予測が必要になるだろう。一般的に考えれば、背が急激に縮むということはありえない。しかしありえないはずの成長が起こってしまっているのだから、その可能性に期待するのも悪くはないだろう。
それに長期的に見れば、人間の身長はピークを過ぎれば縮むものである。成長に対して劣化の速度は緩やかとなるのが生物としては自然かもしれないが、急激な成長によって過度な消耗をしている可能性も高いので、そう悲観しなくても良いかもしれない。
もし仮に明日には元に戻るだろう、とするならば人前に出ないほうが良いだろう。一日部屋でやり過ごすのが妥当だ。できれば眼を閉じて、体を丸めてじっとしていよう。倍の身長である状態の知覚に馴れないよう、意識を逸らしながら。
では逆にもうこの身長は戻ることはない、または戻ることがあったとしてもそれは遠い未来のことだ、と考えるならば誰かの助けを呼ぶのが良いと思う。そう悲観することはない。身長が2m以上ある日本人というのは稀有だから、生きようと思えばその手立てはいくらでもあるだろう。どうしてもそれに耐えられそうにないというのなら、スイッチを切ってしまうのもひとつの手だ。そのときは、体が普通に生きるのを拒絶したのだと諦めるしかない。アーメン。
以上のことを考えれば自明だが、我々は急に身長が2倍になってしまうような事態を想定して生きていない。端的に言えば、それは怠慢であり是正すべきことである。
我々はいつ身長が2倍になっても良いように、少なくとも自分の倍以上の高さがある部屋で生活すべきだし、倍のサイズの衣服を用意しておくべきである。ついでに、自分の身長が半分になってしまったときのことにも備えて、子供用の服も用意しておくと良いだろう。さらに一年は部屋に引きこもって現実逃避していられるように食料や娯楽を備え、預金も蓄えておくと良い。準備は早いほうが良いから今の倍以上は稼ぐべきだ。そして今の倍以上稼ぐための秘訣は、こんなくだらないことに頭を使わないことである。
2011年2月12日土曜日
日々の記録
そういえば、いつの間に実装されていたのかわからないけど、GoogleEarthの過去のイメージを見るという機能が面白い。今はまだストリートビューが実装されて日が浅いから劇的に面白いわけではないけれど、これがあと十年、二十年と時を経ていけばかなり浸れるコンテンツだと思う。 正直言ってコレをGoogleに独占させるのは惜しい。ストリートビューで表示されない地方が手を出すなら今しかない思う。今ならまだ何十年後かに街の売りとして看板にできると思うし、それほど長期的でなくとも、ストリートビュー的なものにリンクを貼り付けてその地域の名物的なものを売るようにすれば、ある程度買ってくれる人もいるかもしれない。
あるいはもしそれが一般的になって外部を引きこむことができないものとなったとしても、そこで暮らす人、暮らしていた人にとっては良いサービスになると思うのだ。というか僕自身、自分が育った村の、十年くらい前のストリートビューを見てみたい。まあ、今更無理だけど。あと無理を承知で言うなら、小学校とか中学校とかのストリートビューも見たい。もはやストリートじゃないというのはさておき。
さらにコレをかなり乱暴に延長させると、家庭内ストリートビューの導入ということになる。そんなものは個人個人、各家庭ごとに写真やビデオに残している、という意見もあるかと思うが、それとコレとは違う。少なくとも僕の知る限りではそういった媒体に残そうとするのは非日常である。非日常から日常の記憶を再生させる、といのは記憶媒体に記録するという行為自体が非日常的だった世代の言わば生活の知恵であり、全然駄目というわけではないが喪失する部分が大きすぎる。
この間、後頭部にカメラを埋め込んだ教授の話を見かけた。結局拒絶反応によってカメラを取り除くことになったそうだ。わざわざ埋めこまなくてもメガネに仕込むなり他に方法は色々あるだろう。それではなぜそうしなかったのか。おそらくわざわざ埋め込んだ、というセンセーショナルな行いで宣伝をするという意味もあっただろう。しかしそれだけではないのではないか。メガネなり帽子なり、それを付けるという行為を必要としないことによって、より日常に近いものを記録したかったのではないか。なんて思う。
いや、あるいは頭にカメラを仕込んでる人間に驚いた人々の表情を撮りたかったのかもしれないけど。
2011年2月11日金曜日
処方箋
何となくで再び書き始めた日記も無事三日坊主を回避成功。少なくとも正月よりめでたいと思う。そういえば前の会社の社長がこんなことを仰っていた。「人が辞めたくなるのは3,6,1。三日目、半年後、一年後、三年後、六年後という具合にその周期が巡ってくる」
たしかに、経営者からみるとそうなのかもしれない。実際自分も、契約の事情もあったとはいえ、半年で辞めたし。よかったね社長、自説の確からしさがアップしたよ!イエイ!
さておき。自分でも変だと思うのだけど、なぜまたここに書き始めたのが今なのだろう。会社を辞めたのが昨年の12月末。それからひと月ぼんやりして、今月頭からまた働き始めた。先月のほうが時間的にかなり余裕があった。にも関わらず、その間ここを更新しようだなんて考えは一切浮かばなかった。では今回更新を再開したのはどういう動機かというと、なんとなく、としか言えない。
そういえば、前のところに就職した時もブログをか再開しようとしたような気が。と思い履歴を見てみたら、そのときは2日で途絶えていた。まあ、うん、しんどかったもんね。
しかし再開しようと思っていたのは事実らしい。さらにもう少し遡ると、就活を始めた3月末にブログを書き出している。それはひと月くらいで途絶えたけれど。
つまり、何かを始めたときに、どうやら僕はここを更新しようとするらしい。といっても、始めた何かとはそれほど関係ないことが殆どだ。では、そうすることで一体何を得ようとしているんだろう。
書くという行為は自分にとって喋ったり踊ったりするよりは慣れたことだから、精神的安定を得ようとしているとも考えられる。何かを始めるとき、あるいは知らない何処かへ行ったとき、そこで経験するあらゆる初めては結構大きなストレスだから、そこから逃避できるセーフハウスを内面に築こうとしている、とも考えられる。
しかしそれとは無関係に、あるいはそういった背景が要求するからかもしれないが、僕がここを更新しようと思いつくのは、なにか新しいことを思いついたか、思いつきたいと願うからだ。
だからおそらく、何かを始めた際に生まれるエネルギーの余剰が、ここで消費されているのではないか、とも思える。
前の仕事をしていたとき、ときどきこんなことを考えていた。「ああ、もっと余裕があったら」「やりたいことがいっぱいあるのに」
しかし実際には、何かをし始めたのは余裕があった先月ではなく、余裕が少なくなった今月からである。
つまり僕のような怠け者は、生来楽をしようという機能が働いているらしく、必要なときに必要と思われる分だけしかエネルギーを用意してくれないようだ。それでは長期的な目でモノを考え先行投資をするというのが困難だから、いずれ改善したいとは思うが、現状の自分がそういう性質なのであればそれを受け入れ、それを利用して動かしていくのが良いのだろう。
何かに行き詰まったら、何か別の新しいことをとりあえず始めてみる。あるいは新しい環境に自分を置いてみる。そうすれば、どこかに行けるのではないか。たぶんそれは立ち止まっているよりは有益なんだろうと思う。自分はただでさえ立ち止まりやすいのだから、意識の側は歩かせることだけを考えてあげるのがきっと良いバランスなのではないか。
2011年2月10日木曜日
自戒
このところ毎日のようにジャニスという店でCDを借りてしまっていた。いかんなぁ、と思いつつ“でもここで借りなければ聴けないものだし仕方ないじゃん”なんて言い訳をしつつ。 そんなこんなで聴く音楽が、“素晴らしいけど、後ろめたい”みたいな無意識のバイアスを掛けられて感じられたら良いのだけど、性能の悪い僕にはただただ“素晴らしい!”としか感じられない。
これをそのまま続けるとどうなるかというと、借りてくる音楽に対しての評価はそのままのため、音楽を借りて聴くことをやめることができない。後ろめたさも同時に生じるわけだけど、それは音楽にも、音楽を借りてくる自分にも直接的には向かず、ただ“自分はダメな奴”という自己否定に向かうと予想される。
その自己否定の蓄積が色々なものの阻害を生じさせるのだけど、それでもこのままだと音楽を借り続けることが考えられる。なぜなら人は自己に一貫性を持たせようとするものであり、さらに自己否定もまた自己弁護の一種であり、つまり自己否定せざるをえない行為を自らに許容するために自己否定し続ける、というダメダメなループが形成されるからだ。
ならんことはならん。そうして自己否定せずに済むように行動することが、多少不利益であっても、自分に優しい行いだと思う。
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