2011年6月6日月曜日

大人になったら

 大人になると、やらなくていいことが増える。というか、大人にやらなければならないことなんて何一つないのだ。いいだろう子供たち、えっへん。
 それだから大人たちの行うことのすべてには、自分で用意した理由がある。やらないことにも、やらなくていい理由がある。理由は全部自分が生み出しているんだけど、大人たちは呼吸をするように理由を生むので、意識しないとそのことを忘れてしまう。
 それを忘れるとどうなるかというと、そうするのが当然、しないのが普通、あるいはもう全然そんなことさえ考えないようになる。
 それがいけないわけじゃない。誰だって、自分が呼吸することを意識することはできるけど、そればかり意識していたらそれ以外のことがなんにもできなくなってしまう。だから他のこともちゃんと意識するために、そのことを部分的に忘れたり、ときどきは思い出したりするのが、なんというか健全だ。
 この曖昧な健全さによって大人の日常は守られる。でも曖昧なので、ある視点からは健全だけど別の視点からは不健全、ということが当たり前になる。
 そういう仕組なのでこれ自体は別に問題ないんだけど、例えば社会というものを想定すると急にやっかいになる。社会とは、人と人のつながりによって作られるものだ。社会全体というのは大きすぎて捉えがたいから身の回りに範囲を絞って見てみると、社会は自分を作り上げる繋がりを保つために人間を配置しようとする。誰かがいなくなったら別の人間を変わりに置く。今そこにいる人間がつながりを適切に保つならそこに拘束しようとするし、つながりを壊してしまいそうなら排除しようとする。余談だけど、では誰がそうして拘束したり排除したりしようとするかというと、それはそのつながりを作っている両端にいる人間だ。両方の人間が、社会的な視点によって、そうする。これはサンタクロースを親が演じたりするのとだいたいおんなじ仕組みと言って良い。
 閑話休題。そういった社会の拘束/排除の力に常にさらされている大人は、自分の行為の範囲をどんどん狭めようとする。なぜならそのほうが安全で安定し、安泰だからだ。というより、むしろ力が働いている以上、そうなるのが自然というだけのことかもしれないけれど。
 さて狭まった自分の行為は、強固な理由によって他を排除する。そうしていくうちに、大人は、たくさんの別の可能性を切り捨てる。やる理由もやらない理由も自分が生んだということを忘れて、「べき」という呪いを自分にかける。
 呪いをかけられた大人たちは、いつも疲れてつまらなそうだ。これを打破するのは、実は案外簡単だ。
 やらなくていいことをやればいい。やらない理由を無視して、やってみればいいのだ。行きたくない場所に行き、見たくないものを見て、聞きたくない音を聴けば良い。
 そうすると、もしかしたら理由がでたらめだったと気づくかもしれないし、逆に理由をより正確に再構成し始めるかもしれない。意識すれば、そこから新たな可能性も見いだせるだろう。

 人は何かを失ったとき初めてその大切さを知る、なんて陳腐な言葉がある。そして自分の命は1つきりで、失ったら取り戻せない、と多くの人は思い込んでいる。
 確かに、生命に関してはその通り。けれど「自分」に関して言えば、そんなことはない。これほど簡単に捨てられるものはないし、これほど簡単に得られるものはない。生きている限り、自分とはそういうものだ。

 これで文章を終わってもいいけど、誤魔化したまんまは気持ち悪いので蛇足。ホントのことを言うと、子供だってすべきことは何一つない。あるのは、何がしたいか、というただそれだけだ。僕はそう思う。

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