十分な睡眠を取ることが自分には必要だ。
そんなわけで、目を瞑りながらこの文用を売っている;。とにかく眠い。それでもこんなものを書いているのはなぜだろう。一体何の使命感なのか。不毛だ。しかし、この不毛さこそが、命綱としていざというときに機能する。総に違いない。そんな妄執と同じようなもので、きっと僕の爺医さんはいらない紐を要らないはこの中に蓄え続けていたんだろう。爺さんは随分昔になくなって、紐は箱ごと随分前に捨てられたけれど。そんな無駄な安心感が生きるのに役立つ。役立つと信じられる何かを持つことが大事だ。子供さえ騙せなくても、自分ならば騙せる。たぶんそういうものだ。何を書いたのか既に覚えていない。きっと変換ミス、打ち間違えの甚だしい何かが、ゴミが、またネット上に一つ増えたというだけだ・ごくありふれた生命活動だ。
2014年6月3日火曜日
特に意味が特にない特に
なにかこう、継続可能で労力も少なく、なおかつ面白いネタはないだろうか。というわけで、復帰後すぐに放置していました。ただいま。
最近、文章を打っていると、指が勝手に予測行動してしまう。上に大した意味もなく「ただいま」とか書いたけど、そのときも“いま”の時点で自動的に“す”が打たれた。なんだよ「ただいます」って。まあその自動化も極まれば、指の動きと別の思考を分断できるだろうから、無意識領域にはぜひ頑張っていただきたい。今、「いただきます」って打ちかけたけど。
しかし、まあ、おそらく世の中のデスクワーク従事者の大半は、既にそうやって文字を打ったりしているんだろうな。つまり、こんなことを書いたところで自分の未熟さを際だたせるだけである。
でも別に見栄を貼りたいわけでもないし、一番読んで欲しいのは数年後の自分だし、正直に、素直に、思うまま書いたらいいんじゃないかな。
未来の自分に優しく。年長者におもいやりを、というのは正しい。自分の歩む道の先には、必ず老いた自分がいる。まあ、30くらいで死んだとしても、少なくとも今よりは老いているだろうから、間違いではないだろう。
明日もなにか書けるでしょうか。頑張って、明日の自分。
最近、文章を打っていると、指が勝手に予測行動してしまう。上に大した意味もなく「ただいま」とか書いたけど、そのときも“いま”の時点で自動的に“す”が打たれた。なんだよ「ただいます」って。まあその自動化も極まれば、指の動きと別の思考を分断できるだろうから、無意識領域にはぜひ頑張っていただきたい。今、「いただきます」って打ちかけたけど。
しかし、まあ、おそらく世の中のデスクワーク従事者の大半は、既にそうやって文字を打ったりしているんだろうな。つまり、こんなことを書いたところで自分の未熟さを際だたせるだけである。
でも別に見栄を貼りたいわけでもないし、一番読んで欲しいのは数年後の自分だし、正直に、素直に、思うまま書いたらいいんじゃないかな。
未来の自分に優しく。年長者におもいやりを、というのは正しい。自分の歩む道の先には、必ず老いた自分がいる。まあ、30くらいで死んだとしても、少なくとも今よりは老いているだろうから、間違いではないだろう。
明日もなにか書けるでしょうか。頑張って、明日の自分。
2014年4月22日火曜日
むりくりハイパー
また、性懲りもなく日記を書き始めることにした。たぶん三日坊主、と書いてしまうことで、書かなくなったときの精神的予防線を予め張らないと気が気でないヘタレですよ、どうも。
4月になって、また一人暮らしが始まった。久しぶりに味わう一人っきりの開放感たるや新たに築かれつつあるゴミ王国に対する嫌悪感・罪悪感をものともしないほどだ。まあ、そんな開放感があろうとなかろうと、王国はできあがってしまうものだが。
とは言え、3週目に入ってそろそろ飽きがくる。冷静になって見渡せば、開いた缶詰、お菓子の空袋、段ボール箱、割り箸。家を留守にしている間は、誰がどう見ても人の住めない汚部屋である。
それはさておき、今回も隣人が歌をうたう人だった。しかも夜中に。頻度はあまり高くないが壁が大した遮音性を持っていないため、有り体に言えば不愉快である。なぜいつも、自分の部屋の隣人は歌うのか。ひょっとしたら、隣人が自らの意志で歌っているのではなく、僕が歌わせているのではないか。あるいはダンサー・イン・ザ・ダークみたいな感じで、本当は隣人は歌ってなどいないのではないか。隣人の歌などというものは僕の生み出した幻聴で、もっと言えば隣人などという存在そのものも、ああ、もういいです。
そんな妄言はさておき、隣人の歌とはどうしてこんなに不愉快なのだろう。例えば電車の中で歌を口ずさむ不思議な人は多少いるとは思うが、僕はそれをそれほど不愉快に感じない。あるいは家の前を誰かが歌いながら歩いていても、顔を軽くしかめる程度だ。だが、これが毎日だったらどうか。あるいは、歌ではなくお経だったらどうか。
特に文章の向かう先も決めぬまま、惰性ではあるが条件を更に変えてみる。もし、これが自宅ではなく、カラオケBOXだったらどうか。きっと隣人は、僕があからさまに不愉快な顔をし、あまつさえ壁ドンなんてやり始めたら、殴り込みにくるかもしれない。では更に、隣人が隣の部屋などという隔たりを持った場所ではなく、僕のすぐ隣で歌い始めたらどうか。僕には、壁ドンならぬ腹ドンをする勇気はない。僕に彼を止めるすべはない。であればもう、事態を受け入れ、順応するしかないのではないか。つまり、ユニットのできあがりである。伝説の始まりだ。目指せ武道館。何を書いているんだ僕は。
しかし、思うのだが、もし隣人が僕の好みの曲を歌ったら、多少下手くそでも許容できるのではないだろうか。万が一頭がオカシイほど僕の機嫌が良かったら一緒に歌い出すことだってありえないわけではない。そのときはぜひ僕のところに救急車を寄越してもらいたいが、ともあれ、そういう入居条件があっても良いのではないか、ということを僕は言いたかったのだ!!え、そうだったのか、と僕自身戸惑って、5分くらいキーボードを打つ手が止まっていたが、つまりそういうことだ!
遮音性の高いマンションを増やすよりも、趣味が合う人間を集めるという方向のほうが、日常が楽しくなるのではないだろうか。さらに状況を拡大させてみる。今、日本はある程度どこへ行っても大体同じような生活を送ることができる。田舎と都会はその度合を、可能なこととそうでないこととで測ることがほぼできてしまう。そしてそれはほぼ一直線だ。そうではなくて、もっといろいろな方面に特化した集合を形成していくべきではないか、というかそのほうが楽しいんじゃなかろうかと思うのだ。あらゆる公共スペースがミュージカルみたいな状態になる街とか、一切自動車を受け付けない自転車一色の街とか、あらゆる場所があらゆる落書きで埋め尽くされて常にペンキの匂いが漂う街とか、街全体がひとつの建物になってしまっている街とか、そういう極端な集合が結構な規模で存在する街があってもいいんじゃないかと思うのだ。それは経済効果云々じゃなくて、ただその方が楽しめるから、そういう人の受け皿として存在し、維持されるような、そういう街の作り方をしてもいいんじゃないかと思うのだ。
では翻って自分はどんな街に住みたいかというと、静かな、できるだけ人のいない街がいい。たぶん生活が成り立たないけど。現状は。
まあ結局、そういうのは今ネット上で少し形成されているけど、仮想現実が日常になったって、きっと上記のような街づくりがなされることはないようにも思う。何かを好きだという集団には、大体それに興味を持たない他人が必要なんだと思う。なんとなく、そう思う。
4月になって、また一人暮らしが始まった。久しぶりに味わう一人っきりの開放感たるや新たに築かれつつあるゴミ王国に対する嫌悪感・罪悪感をものともしないほどだ。まあ、そんな開放感があろうとなかろうと、王国はできあがってしまうものだが。
とは言え、3週目に入ってそろそろ飽きがくる。冷静になって見渡せば、開いた缶詰、お菓子の空袋、段ボール箱、割り箸。家を留守にしている間は、誰がどう見ても人の住めない汚部屋である。
それはさておき、今回も隣人が歌をうたう人だった。しかも夜中に。頻度はあまり高くないが壁が大した遮音性を持っていないため、有り体に言えば不愉快である。なぜいつも、自分の部屋の隣人は歌うのか。ひょっとしたら、隣人が自らの意志で歌っているのではなく、僕が歌わせているのではないか。あるいはダンサー・イン・ザ・ダークみたいな感じで、本当は隣人は歌ってなどいないのではないか。隣人の歌などというものは僕の生み出した幻聴で、もっと言えば隣人などという存在そのものも、ああ、もういいです。
そんな妄言はさておき、隣人の歌とはどうしてこんなに不愉快なのだろう。例えば電車の中で歌を口ずさむ不思議な人は多少いるとは思うが、僕はそれをそれほど不愉快に感じない。あるいは家の前を誰かが歌いながら歩いていても、顔を軽くしかめる程度だ。だが、これが毎日だったらどうか。あるいは、歌ではなくお経だったらどうか。
特に文章の向かう先も決めぬまま、惰性ではあるが条件を更に変えてみる。もし、これが自宅ではなく、カラオケBOXだったらどうか。きっと隣人は、僕があからさまに不愉快な顔をし、あまつさえ壁ドンなんてやり始めたら、殴り込みにくるかもしれない。では更に、隣人が隣の部屋などという隔たりを持った場所ではなく、僕のすぐ隣で歌い始めたらどうか。僕には、壁ドンならぬ腹ドンをする勇気はない。僕に彼を止めるすべはない。であればもう、事態を受け入れ、順応するしかないのではないか。つまり、ユニットのできあがりである。伝説の始まりだ。目指せ武道館。何を書いているんだ僕は。
しかし、思うのだが、もし隣人が僕の好みの曲を歌ったら、多少下手くそでも許容できるのではないだろうか。万が一頭がオカシイほど僕の機嫌が良かったら一緒に歌い出すことだってありえないわけではない。そのときはぜひ僕のところに救急車を寄越してもらいたいが、ともあれ、そういう入居条件があっても良いのではないか、ということを僕は言いたかったのだ!!え、そうだったのか、と僕自身戸惑って、5分くらいキーボードを打つ手が止まっていたが、つまりそういうことだ!
遮音性の高いマンションを増やすよりも、趣味が合う人間を集めるという方向のほうが、日常が楽しくなるのではないだろうか。さらに状況を拡大させてみる。今、日本はある程度どこへ行っても大体同じような生活を送ることができる。田舎と都会はその度合を、可能なこととそうでないこととで測ることがほぼできてしまう。そしてそれはほぼ一直線だ。そうではなくて、もっといろいろな方面に特化した集合を形成していくべきではないか、というかそのほうが楽しいんじゃなかろうかと思うのだ。あらゆる公共スペースがミュージカルみたいな状態になる街とか、一切自動車を受け付けない自転車一色の街とか、あらゆる場所があらゆる落書きで埋め尽くされて常にペンキの匂いが漂う街とか、街全体がひとつの建物になってしまっている街とか、そういう極端な集合が結構な規模で存在する街があってもいいんじゃないかと思うのだ。それは経済効果云々じゃなくて、ただその方が楽しめるから、そういう人の受け皿として存在し、維持されるような、そういう街の作り方をしてもいいんじゃないかと思うのだ。
では翻って自分はどんな街に住みたいかというと、静かな、できるだけ人のいない街がいい。たぶん生活が成り立たないけど。現状は。
まあ結局、そういうのは今ネット上で少し形成されているけど、仮想現実が日常になったって、きっと上記のような街づくりがなされることはないようにも思う。何かを好きだという集団には、大体それに興味を持たない他人が必要なんだと思う。なんとなく、そう思う。
2013年8月16日金曜日
老人とタカシ
「じいちゃん、じいちゃん、肩たたきしてあげる」
「おうおう、タカシはいい子だなぁ」
「ねえねえじいちゃん、聞いてもいい?」
「よしよし何でも聞いてごらん」
「人って死んだらどうなるの」
「うーん」
「先生は、死んだら何もかもなくなるから、危ないことはしちゃだめだって」
「うんうん、そうだなぁ」
「でも、ばあちゃんは死んだけど、オボンに帰ってくるんでしょ?意味わかんない」
「タカシは賢いなぁ。そうそう、人は死んでもな、魂は死なん。そういうことなんだよ」
「タマシイってなに?」
「うーん、心みたいなものだな。ばあちゃんは死んだけど、ばあちゃんの心は生きているから、お盆になると帰ってくるんだよ」
「ふーん。じゃあさぁ、みんなもう死んじゃったらいいんじゃない」
「・・・うん?」
「みんな死んだら、タマシイだけになって、一緒にいられるんでしょ?じゃあみんな早く一緒に死んだらいいんじゃないかな。死んだ方がいいよね!」
「タカシ待ちなさい、タカシ!・・・とりあえず座りなさい。いいか・・・、死んだ人間は天国か地獄へ行くんだ。いい人間は天国へ行く。悪い人間は地獄へ行く。ばあちゃんは、いい人間だから天国へ行った。だからワシらはばあちゃんに会えるように、しっかり生きていい人間にならなくちゃいけないんだ。わかるか?」
「でもさっき、じいちゃんは僕のこといい子だって言ったじゃん。いい子なら天国に行けるんじゃないの」
「待て待てタカシ、自分で命を粗末にする人間は、どんなにいい子でも地獄へ行くんだ。それは、命を粗末にするのが悪い行いだからだ」
「じゃあ命をソマツにしないで死ねばいいの?」
「タカシ、自分で死のうとするのが、命を粗末にするということなんだ。わかるか」
「タサツに見せかければいいってこと?」
「全然違う、タカシ。それはハズレだ。というかそんな言葉どこで覚えてきたんだ」
「本で読んだ」
「タカシは本が好きだからなぁ。偉いなぁ」
「えへへ。じゃあ死んでいい?」
「待ちなさいタカシ。それは偉くない。死んだら偉くない」
「えー、じゃあばあちゃんは偉くない?」
「いや、ばあちゃんは偉い。そうじゃなくて、たとえばばあちゃんは病気で死んだ。そういうふうに、生きようと精一杯頑張ったけどダメだったときは、偉い」
「病気になればいいの?」
「違う違う。ばあちゃんは、病気になりたくてなったんじゃない。なりたくなかったんだけど、病気になった。そういうことが大事なんだ」
「わかった!僕も病気になりたくないけど頑張る!」
「わかってない!タカシ、待ちなさい。何をするつもりだったんだ」
「何って、病気になるように頑張るつもりだけど」
「まず、病気にならないように頑張りなさい。そうしないと天国には行けない」
「うーん、難しいね」
「そうだ、難しいんだ」
「わかったよ、じいちゃん、僕まだ死なない」
「うんうん、それでいいんだ。そうだ、肩たたきのお礼にお駄賃をあげよう」
「わ、ありがとう!じいちゃんはいい人だね。・・・あっ、そうか!」
「待ちなさいタカシ。たぶんそれは間違っている」
2013年8月14日水曜日
から
最初に失われたのは何だったろう。何もかもが跡形もなく消え去ったあと、ようやく私は生まれた。そんな気がする。
実際のところはよくわからない。わかるという言葉を使うために必要な条件を、このことに関して私は一切持っていない。けれどそれはわからなくても確かと言える事実だった。私はそれを神様よりも信じていた。そのことと、私という言葉の指す対象は断ち切ることのできないもので結ばれていた。
生きることで取り戻せたものは、失われたものの何%になるのだろう。最初から、全てをもう一度取り戻せるなんて思っていない。幼い頃そのことで何度涙を流したか知らない。何かを手に入れるたびに、これでは全く足りないと思い知らされる。でもどれくらい足りないのかがわからない。それなのに、その量がどうしようもないほどだということだけはわかっていた。
私は私になる前、いったい何だったのだろう。どうしてこんな喪失感をいつも抱いていなければならないのだろう。記憶を積み重ねることさえ、私には苦痛だった。
いつか何もかも手放せる。それだけが救いだった。手放せることよりも、手を失えることが待ち遠しかった。手があるから、境界線が作られる。私は私の手を失うことで、きっと全ての手を同時に握れるだろう。以前はそうしていたに違いない。その証拠に、今まで握った全ての手は懐かしさを感じさせた。これでは全く足りないという確信を伴って。
ときどき夢を見た。私のいない夢。この体は世界になく、私には何も見えず、何にも触れることができない。けれど全ての時を見て、全ての場所に触れ、それなのにどんな感情も動かない。目が覚める前、一瞬だけ安心を感じる。これこそがあるべき形、あるべき私なのだ、と。
しかし目を覚ますとそのまやかしと、そんなものにさえ縋る自分にはたと気づき、心底絶望する。
それでも私は夢を見た。何度も、繰り返し。
そう、私はそれでも生き続けたのだ。
でも、それは何のためだったんだろう。
生きていると、色々なことに慣れてくる。喪失感にも慣れた。絶望にも慣れた。私は私に慣れた。
そして生きていると、生きてしかいないのに、それでも色々なものを失う。失ったと気づくたび、私は微笑ましく思ってしまう。懐かしいと感じてしまう。そして、どうせ失うのなら、いいか、と今では少し思っているのだ。どうせ失うのなら、始めに何を失ったのかなんて小事ではないか、と。
2013年1月11日金曜日
ゴミ王国崩壊のとき
ブログ上ではお久しぶりでございます。ええと、ワタクシ、なんだかんだありまして、この度東京から福島へ引っ越すこととなりまして。ほぼ十年続いた一人暮らしも一応これにておしまいです。
どちらかと言えばめでたいジャンルの話なはずではあるんですが、全く嬉しくない。その理由は下図をご覧いただければ明らかでしょう。
悪夢でしょう?これを今月中に全部片付けないといけないわけです。
そんなの無理だよ馬鹿野郎!
言っときますけどこんなの氷山の一角っていうか、我が家のあらゆる空間がこれなんですよ!もさあ、正直部屋ごと焼いてしまいたい。あるいは今後死ぬまで家賃払い続けてこれを放置したい。
・・・わりとマジで!
どうして、こんな事になってしまったのか。ま、考えるまでもなく、これぞまさしく日頃の行いです。でもこれに関しては森先生がこんな感じのことを書いておられる。
『部屋と頭の散らかり具合は反比例する』
すなわち、頭の中が明晰であれば混沌とした物の配置であっても問題がない、頭の中においてはそれは整理されているも同然だし、その能力があればこそ散らかった部屋はその部屋の主に許容されているのである、ということです。
まあそのわりに、しょっちゅう物が無くなったと騒いだりしてますけどね、僕。それにここまでくると、頭の中が散らかるとか綺麗とか以前に空っぽなんじゃないかって疑惑もナキニシモアラズですけどね。
そりゃそうなんですけど。ともかく、そんなことはどうでもよくて、重要なのはあと20日程度でこの我が部屋は空っぽにならなくちゃいけないってことです。僕の頭の中みたいに!無理!
そんなわけで、地味に人生最大のピンチを迎えておる溝井でした。明日は燃えるゴミの日だ!!
どちらかと言えばめでたいジャンルの話なはずではあるんですが、全く嬉しくない。その理由は下図をご覧いただければ明らかでしょう。
悪夢でしょう?これを今月中に全部片付けないといけないわけです。
そんなの無理だよ馬鹿野郎!
言っときますけどこんなの氷山の一角っていうか、我が家のあらゆる空間がこれなんですよ!もさあ、正直部屋ごと焼いてしまいたい。あるいは今後死ぬまで家賃払い続けてこれを放置したい。
・・・わりとマジで!
どうして、こんな事になってしまったのか。ま、考えるまでもなく、これぞまさしく日頃の行いです。でもこれに関しては森先生がこんな感じのことを書いておられる。
『部屋と頭の散らかり具合は反比例する』
すなわち、頭の中が明晰であれば混沌とした物の配置であっても問題がない、頭の中においてはそれは整理されているも同然だし、その能力があればこそ散らかった部屋はその部屋の主に許容されているのである、ということです。
まあそのわりに、しょっちゅう物が無くなったと騒いだりしてますけどね、僕。それにここまでくると、頭の中が散らかるとか綺麗とか以前に空っぽなんじゃないかって疑惑もナキニシモアラズですけどね。
そりゃそうなんですけど。ともかく、そんなことはどうでもよくて、重要なのはあと20日程度でこの我が部屋は空っぽにならなくちゃいけないってことです。僕の頭の中みたいに!無理!
そんなわけで、地味に人生最大のピンチを迎えておる溝井でした。明日は燃えるゴミの日だ!!
登録:
投稿 (Atom)