2011年2月13日日曜日

もし明日背が伸びても

我々は何の準備もなく生まれてくるしかない。しかし明日の準備くらいはできる。
振りかかる出来事を理不尽と思うか、それとも準備不足と思うか。我々にはその判断をする自由がある。
ならば可能なかぎり準備をしておこうではないか。それが明日生まれる自分に対しての優しさであり、知性だ。

そんなわけで、今日は明日身に振りかかるおそれのある出来事を想定し、対策を考えてみたい。
では早速、もし明日目が覚めたら身長が今の倍になっていたらどうしよう。
そんなバカなと動き出す前に、ちょっと待って欲しい。あなたはそのままゆっくり周囲を観察して、このまま動き出して良いのか判断をしなければならない。さもなければ左肩でメガネを粉砕するだろうし、驚いて仰け反ると後頭部でガラスを打ち破り、両足は壁に突き刺さって抜けなくなってしまうかもしれない。慎重に事を運ぶのが肝要である。
声を荒らげて助けを呼ぶのも待ったほうが良いだろう。もし誰かがその声に気付き駆けつけてくれたとしても、状況が好転するとは限らない。なぜなら一晩で身長が倍になるということは普通有り得ないことであり、それ故現時点で最も疑わしいのはあなたの精神である。

間違いなく昨日と身体のサイズが違うことを確認するために、まず自分の今着ているものを見てみるのが良いだろう。確かに倍になっているのであれば、確実におかしなサイズの服を身に纏っているか全裸であるはずである。
しかしここで気をつけねばならないのは、全裸だった場合、あなたが普段から全裸で寝ている可能性、あるいは夢遊状態で全裸になった可能性が残されていることである。だからその場合は落ち着いて下着だけでも身につけたほうが良い。

だが下着だけでもとはいったものの、サイズが変わってしまっていたらおそらく今までのものをそのまま着ることはできないだろう。もしあなたが家族と住んでいて、家族の中に以前のあなたと身長が倍違う者がいるなら、そのときはいったん恥を捨てて彼もしくは彼女の助けを借りたほうが良い。そうでない場合は、とりあえず布団で古代ギリシア風の衣装を真似て体に巻きつけると良い。あるいはテンションが上がりすぎた子供のように上着を履く、あるいは巻きつけるのが良いだろう。
いずれにせよこれらに必要となる一切の動作は起き上がらずに行うのが賢明である。折角だから天井の一つや二つぶち破ってみたい、というのなら止めないが、まず間違い無く怪我をするし、修理費もバカにならない。

さて、とりあえず人前に出られる最低限の準備ができたところで、これからの行いの選択肢が増える。すなわち、人前に出るか否かである。先程の段階で家族の誰かの手を借りた場合であれば、さらに多くの人に知らせるか否かだが。
これを判断するには、この異常事態が今後も継続するのか否か、という予測が必要になるだろう。一般的に考えれば、背が急激に縮むということはありえない。しかしありえないはずの成長が起こってしまっているのだから、その可能性に期待するのも悪くはないだろう。
それに長期的に見れば、人間の身長はピークを過ぎれば縮むものである。成長に対して劣化の速度は緩やかとなるのが生物としては自然かもしれないが、急激な成長によって過度な消耗をしている可能性も高いので、そう悲観しなくても良いかもしれない。
もし仮に明日には元に戻るだろう、とするならば人前に出ないほうが良いだろう。一日部屋でやり過ごすのが妥当だ。できれば眼を閉じて、体を丸めてじっとしていよう。倍の身長である状態の知覚に馴れないよう、意識を逸らしながら。
では逆にもうこの身長は戻ることはない、または戻ることがあったとしてもそれは遠い未来のことだ、と考えるならば誰かの助けを呼ぶのが良いと思う。そう悲観することはない。身長が2m以上ある日本人というのは稀有だから、生きようと思えばその手立てはいくらでもあるだろう。どうしてもそれに耐えられそうにないというのなら、スイッチを切ってしまうのもひとつの手だ。そのときは、体が普通に生きるのを拒絶したのだと諦めるしかない。アーメン。

以上のことを考えれば自明だが、我々は急に身長が2倍になってしまうような事態を想定して生きていない。端的に言えば、それは怠慢であり是正すべきことである。
我々はいつ身長が2倍になっても良いように、少なくとも自分の倍以上の高さがある部屋で生活すべきだし、倍のサイズの衣服を用意しておくべきである。ついでに、自分の身長が半分になってしまったときのことにも備えて、子供用の服も用意しておくと良いだろう。さらに一年は部屋に引きこもって現実逃避していられるように食料や娯楽を備え、預金も蓄えておくと良い。準備は早いほうが良いから今の倍以上は稼ぐべきだ。そして今の倍以上稼ぐための秘訣は、こんなくだらないことに頭を使わないことである。

2011年2月12日土曜日

日々の記録

 そういえば、いつの間に実装されていたのかわからないけど、GoogleEarthの過去のイメージを見るという機能が面白い。今はまだストリートビューが実装されて日が浅いから劇的に面白いわけではないけれど、これがあと十年、二十年と時を経ていけばかなり浸れるコンテンツだと思う。
 正直言ってコレをGoogleに独占させるのは惜しい。ストリートビューで表示されない地方が手を出すなら今しかない思う。今ならまだ何十年後かに街の売りとして看板にできると思うし、それほど長期的でなくとも、ストリートビュー的なものにリンクを貼り付けてその地域の名物的なものを売るようにすれば、ある程度買ってくれる人もいるかもしれない。
 あるいはもしそれが一般的になって外部を引きこむことができないものとなったとしても、そこで暮らす人、暮らしていた人にとっては良いサービスになると思うのだ。というか僕自身、自分が育った村の、十年くらい前のストリートビューを見てみたい。まあ、今更無理だけど。あと無理を承知で言うなら、小学校とか中学校とかのストリートビューも見たい。もはやストリートじゃないというのはさておき。

 さらにコレをかなり乱暴に延長させると、家庭内ストリートビューの導入ということになる。そんなものは個人個人、各家庭ごとに写真やビデオに残している、という意見もあるかと思うが、それとコレとは違う。少なくとも僕の知る限りではそういった媒体に残そうとするのは非日常である。非日常から日常の記憶を再生させる、といのは記憶媒体に記録するという行為自体が非日常的だった世代の言わば生活の知恵であり、全然駄目というわけではないが喪失する部分が大きすぎる。

 この間、後頭部にカメラを埋め込んだ教授の話を見かけた。結局拒絶反応によってカメラを取り除くことになったそうだ。わざわざ埋めこまなくてもメガネに仕込むなり他に方法は色々あるだろう。それではなぜそうしなかったのか。おそらくわざわざ埋め込んだ、というセンセーショナルな行いで宣伝をするという意味もあっただろう。しかしそれだけではないのではないか。メガネなり帽子なり、それを付けるという行為を必要としないことによって、より日常に近いものを記録したかったのではないか。なんて思う。
 いや、あるいは頭にカメラを仕込んでる人間に驚いた人々の表情を撮りたかったのかもしれないけど。

2011年2月11日金曜日

処方箋

 何となくで再び書き始めた日記も無事三日坊主を回避成功。少なくとも正月よりめでたいと思う。そういえば前の会社の社長がこんなことを仰っていた。
「人が辞めたくなるのは3,6,1。三日目、半年後、一年後、三年後、六年後という具合にその周期が巡ってくる」
 たしかに、経営者からみるとそうなのかもしれない。実際自分も、契約の事情もあったとはいえ、半年で辞めたし。よかったね社長、自説の確からしさがアップしたよ!イエイ!

 さておき。自分でも変だと思うのだけど、なぜまたここに書き始めたのが今なのだろう。会社を辞めたのが昨年の12月末。それからひと月ぼんやりして、今月頭からまた働き始めた。先月のほうが時間的にかなり余裕があった。にも関わらず、その間ここを更新しようだなんて考えは一切浮かばなかった。では今回更新を再開したのはどういう動機かというと、なんとなく、としか言えない。
 そういえば、前のところに就職した時もブログをか再開しようとしたような気が。と思い履歴を見てみたら、そのときは2日で途絶えていた。まあ、うん、しんどかったもんね。
 しかし再開しようと思っていたのは事実らしい。さらにもう少し遡ると、就活を始めた3月末にブログを書き出している。それはひと月くらいで途絶えたけれど。
 つまり、何かを始めたときに、どうやら僕はここを更新しようとするらしい。といっても、始めた何かとはそれほど関係ないことが殆どだ。では、そうすることで一体何を得ようとしているんだろう。
 書くという行為は自分にとって喋ったり踊ったりするよりは慣れたことだから、精神的安定を得ようとしているとも考えられる。何かを始めるとき、あるいは知らない何処かへ行ったとき、そこで経験するあらゆる初めては結構大きなストレスだから、そこから逃避できるセーフハウスを内面に築こうとしている、とも考えられる。
 しかしそれとは無関係に、あるいはそういった背景が要求するからかもしれないが、僕がここを更新しようと思いつくのは、なにか新しいことを思いついたか、思いつきたいと願うからだ。
 だからおそらく、何かを始めた際に生まれるエネルギーの余剰が、ここで消費されているのではないか、とも思える。


 前の仕事をしていたとき、ときどきこんなことを考えていた。「ああ、もっと余裕があったら」「やりたいことがいっぱいあるのに」
 しかし実際には、何かをし始めたのは余裕があった先月ではなく、余裕が少なくなった今月からである。
 つまり僕のような怠け者は、生来楽をしようという機能が働いているらしく、必要なときに必要と思われる分だけしかエネルギーを用意してくれないようだ。それでは長期的な目でモノを考え先行投資をするというのが困難だから、いずれ改善したいとは思うが、現状の自分がそういう性質なのであればそれを受け入れ、それを利用して動かしていくのが良いのだろう。
 何かに行き詰まったら、何か別の新しいことをとりあえず始めてみる。あるいは新しい環境に自分を置いてみる。そうすれば、どこかに行けるのではないか。たぶんそれは立ち止まっているよりは有益なんだろうと思う。自分はただでさえ立ち止まりやすいのだから、意識の側は歩かせることだけを考えてあげるのがきっと良いバランスなのではないか。

2011年2月10日木曜日

自戒

 このところ毎日のようにジャニスという店でCDを借りてしまっていた。いかんなぁ、と思いつつ“でもここで借りなければ聴けないものだし仕方ないじゃん”なんて言い訳をしつつ。
 そんなこんなで聴く音楽が、“素晴らしいけど、後ろめたい”みたいな無意識のバイアスを掛けられて感じられたら良いのだけど、性能の悪い僕にはただただ“素晴らしい!”としか感じられない。

 これをそのまま続けるとどうなるかというと、借りてくる音楽に対しての評価はそのままのため、音楽を借りて聴くことをやめることができない。後ろめたさも同時に生じるわけだけど、それは音楽にも、音楽を借りてくる自分にも直接的には向かず、ただ“自分はダメな奴”という自己否定に向かうと予想される。
 その自己否定の蓄積が色々なものの阻害を生じさせるのだけど、それでもこのままだと音楽を借り続けることが考えられる。なぜなら人は自己に一貫性を持たせようとするものであり、さらに自己否定もまた自己弁護の一種であり、つまり自己否定せざるをえない行為を自らに許容するために自己否定し続ける、というダメダメなループが形成されるからだ。

 ならんことはならん。そうして自己否定せずに済むように行動することが、多少不利益であっても、自分に優しい行いだと思う。

2011年2月9日水曜日

ポケットに罠を忍ばせて

 朝、いつものように目を覚まし、出勤の準備をする。満員電車に揺られ、仕事場へ到着。いつもどおりに仕事をこなし、また電車に揺られ、帰宅。そしてつかの間の自由を消費し、就寝。
 そんな毎日にふと疑問を感じたら、あなたはあなたのために罠を仕掛けるべきだ。

 また、あるいは、あなたがもし他人に対して自分が望む以上の距離を感じ、それを改善したいと願うものの、その解決策が見いだせないというのであるなら、やはりあなたはあなた自身に罠を仕掛けるべきである。

 罠という言葉が気に入らなかったら、悪戯でも構わない。どっきり、サプライズ、何だって良い。つまり重要なことは、未来の自分を少し驚かせてやろう、困らせてやろうとすることである。
 しかしだからといって、例えばいたずらに保険証を切り刻んでみたり、夜中のうちにメガネを粉砕しておく、などといった行為は日常に大きな支障をきたすため避けたほうが良い。この世には良い罠と悪い罠というものが存在するのである。

 では良い罠とは何か。その条件を以下に羅列しようと思う。
 “良い罠十か条”
 1.いかなる罠によっても何者かの生命を奪うものであってはならない
 2.罠がもたらす影響が長く尾を引くものであってはならない。
 3.罠は、それが罠だと悟られても良いが、その気づきが遅れるものほど良い。
 4.罠が罠と悟られるとき、同時に解法までをも悟られるようなものであってはならない。
 5.罠は超自然な方法、あるいは不可思議な魔力を使ったものであってはならない。
 6.罠に中国人を登場させてはならない。
 7.罠を仕掛けるのに預金が尽きるほど散財してはならない。
 8.罠のために食べ物を粗末にしてはならない。
 9.自分に罠を仕掛けていることを他人に見抜かれてはならない。
10.備考/その他

2011年2月8日火曜日

目からぼた餅、耳から駒

 「耳レイプ」という言葉は、不快に思われる音を無理に聞かされている状態の時に使われるものと認識していたが、最近では肯定的な意味で使われていたり、さらには「耳が濡れた」「耳が孕んだ」などという派生語も目にするようになった。
 従って我々が誤解のないように本来の意味として、「こんなクソみたいな音を聞かされるのは非常に不愉快であり、このままでは私かあなたのどちらかが命を落とすことになりますよ」と言いたい時に使う場合には、いっそ「耳が望まない子を孕ませられた」「耳が望まない子を出産した」というのが良いのではないか。

 なんてことを公衆の面前で口にしたら、「そういったことは冗談にして良い類いのことではありません、慎みなさい」と窘められるか、「おまわりさーん」と逃げられるだろう。前者だった場合、その人はかなり優しいと思って間違いない。
 しかし、そんな優しさに屈するのも癪である。なぜなら、それほどまでに不快な音というのは確かにあるからだ。それも、ときどき耳にする、という頻度ではないほどに。

 あなたがもし買い物しようと街まで出かけたら、財布ないのに気づいてそのままドライブしない限り、つまりカローラⅡを所有していない限り、ほぼ確実に最低一度は耳を塞ぎたくなる音を耳にするはずだ。
 そんなことはない、街中は賑やかな流行歌で溢れていて全く不快ではないし、カローラⅡは持っていない、と仰るのであれば、よろしい、謝ろう。ごめん言い過ぎた。

 ひとまずここは落ち着いて、深呼吸して、右手に持ったカッターナイフを降ろして、こちらの主張を聞いてもらいたい。
 不快な思いをしているからといって、周囲をも不快にさせることで自らの不快を取り除いてもらおう、というのは確かに甘えである。それが許容されるのはせいぜい思春期までであって、大人であれば意識的に廃していかねばならないものの一つである。
 「耳が望んでいない子を出産した」
 確かに、同様の体験をした、あるいは目にした人が聞いたら眉をひそめる表現かもしれない。また、望まれていない子がいる、という認識自体に腹を立てる人もいるだろう。
 では、「耳が望んでいない子を出産した。最初はこの新しい生命に対する戸惑いと不安、相手の男への憎しみ、そして周りの人達のぎこちない優しさに、疲れ、疎ましく思い、いっそ心中さえも考えた。しかしある日、パートから帰った耳を、母に抱かれた我が子が笑いながら手を伸ばし、出迎えてくれた。耳は思う。いつか私もこの子を愛せる日がくるのだろうか」とでも言えばいいのか。毎回毎回、一言一句違わずに。それともあれか、このくだらない与太話を街中で毎回更新していけというのか。新手のイジメか。

 単純に「この音は不愉快だ」と言えばいいじゃないか、と思われるかもしれない。しかし、自分が真に主張したいと欲しているときは、相手に違和感を覚えさせるようなものでなければ効果が無い。在り来りに言ってしまえば、ああ、またその話ね、なんて流されるのが落ちだ。

 まあ、この手の音や映像に関することは大概にして主張しても意味が無いケースばかりだから、諦めて黙り、ヘッドホンでも付けるのが一番賢いのだろうけど。
 何が言いたかったのかというと、いつもどおり、特に何も。

2011年2月7日月曜日

whitecap(フリー版)について

 ここでいうwhitecapとはiTunesのビジュアライザの一つである。
 1,2年前にダウンロードして、「お、なかなか良いな」と思ったものの、いくら気に入ったエフェクトに設定しても壊れかけのファービー人形のごとく次々とランダムな設定に切り替えられるのにうんざりした挙句、僕はいつしかこいつを使わなくなった。

 しかし先ほど気まぐれにいじってみたら、ランダム設定が解除できて「おお、なかなかなか良いではありませんこと?」くらいに感動したので、ここにそのやり方を書いて残す。
 というのも、グーグル先生に“whitecap 使い方”で伺い立てても知らぬ存ぜぬを決め込まれたことに、少し憤りを感じたためである。

 whitecapのインストール方法等々はここでは省く。
 iTunesで無事whitecapが動かせてからの話をしようじゃないか、お奉行様。


 さて、whitecapのランダムを切る方法は、まずwhitecap表示中に“u”を打つ。
 以上である。


 ね、簡単でしょう?
 あ、これ、一回言ってみたかったんです、すみません、猛省してます。
 せっかくなので、他の機能も紹介すると、“h”を打てばヘルプが表示されるから、それを読めばいいんじゃないかな。
 というか、僕個人、ランダムさえ切れればあとはどうだって良いので、全然知らないし、英語は読めないし、日本語もおぼつかないし、最近歯が痛い。

 個人的におすすめなのは、waveを“My Malia”、Colorを“Parchment”に設定、背景なんて無し。
 こうすることによって、残響を視覚的に見るということを楽しめるわけである。