2011年2月8日火曜日

目からぼた餅、耳から駒

 「耳レイプ」という言葉は、不快に思われる音を無理に聞かされている状態の時に使われるものと認識していたが、最近では肯定的な意味で使われていたり、さらには「耳が濡れた」「耳が孕んだ」などという派生語も目にするようになった。
 従って我々が誤解のないように本来の意味として、「こんなクソみたいな音を聞かされるのは非常に不愉快であり、このままでは私かあなたのどちらかが命を落とすことになりますよ」と言いたい時に使う場合には、いっそ「耳が望まない子を孕ませられた」「耳が望まない子を出産した」というのが良いのではないか。

 なんてことを公衆の面前で口にしたら、「そういったことは冗談にして良い類いのことではありません、慎みなさい」と窘められるか、「おまわりさーん」と逃げられるだろう。前者だった場合、その人はかなり優しいと思って間違いない。
 しかし、そんな優しさに屈するのも癪である。なぜなら、それほどまでに不快な音というのは確かにあるからだ。それも、ときどき耳にする、という頻度ではないほどに。

 あなたがもし買い物しようと街まで出かけたら、財布ないのに気づいてそのままドライブしない限り、つまりカローラⅡを所有していない限り、ほぼ確実に最低一度は耳を塞ぎたくなる音を耳にするはずだ。
 そんなことはない、街中は賑やかな流行歌で溢れていて全く不快ではないし、カローラⅡは持っていない、と仰るのであれば、よろしい、謝ろう。ごめん言い過ぎた。

 ひとまずここは落ち着いて、深呼吸して、右手に持ったカッターナイフを降ろして、こちらの主張を聞いてもらいたい。
 不快な思いをしているからといって、周囲をも不快にさせることで自らの不快を取り除いてもらおう、というのは確かに甘えである。それが許容されるのはせいぜい思春期までであって、大人であれば意識的に廃していかねばならないものの一つである。
 「耳が望んでいない子を出産した」
 確かに、同様の体験をした、あるいは目にした人が聞いたら眉をひそめる表現かもしれない。また、望まれていない子がいる、という認識自体に腹を立てる人もいるだろう。
 では、「耳が望んでいない子を出産した。最初はこの新しい生命に対する戸惑いと不安、相手の男への憎しみ、そして周りの人達のぎこちない優しさに、疲れ、疎ましく思い、いっそ心中さえも考えた。しかしある日、パートから帰った耳を、母に抱かれた我が子が笑いながら手を伸ばし、出迎えてくれた。耳は思う。いつか私もこの子を愛せる日がくるのだろうか」とでも言えばいいのか。毎回毎回、一言一句違わずに。それともあれか、このくだらない与太話を街中で毎回更新していけというのか。新手のイジメか。

 単純に「この音は不愉快だ」と言えばいいじゃないか、と思われるかもしれない。しかし、自分が真に主張したいと欲しているときは、相手に違和感を覚えさせるようなものでなければ効果が無い。在り来りに言ってしまえば、ああ、またその話ね、なんて流されるのが落ちだ。

 まあ、この手の音や映像に関することは大概にして主張しても意味が無いケースばかりだから、諦めて黙り、ヘッドホンでも付けるのが一番賢いのだろうけど。
 何が言いたかったのかというと、いつもどおり、特に何も。

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