女の子は、一生幸せに暮らしましたとさ。
2010年4月5日月曜日
種
4月から東京で一人暮らしを始めたのですが、部屋はとても居心地の悪いものでした。壁が薄いので隣りに住む人の物音や、換気扇の音、キッチンの隅で一晩中働く冷蔵庫の音が煩くてたませんでした。それから六畳もある空間が一人でいるには広すぎました。どこを見回しても誰もいませんし、叫んでも誰も返事をしてくれません。もしも恐ろしい夢を見てしまったらどうすればいいのでしょう。そんなわけで、この部屋で一瞬も眠ることができずに過ごしてきました。
けれど、思いついたのです。それは駅前の花屋の前を通りかかったときでした。色とりどりの花なんて見たくもないので下を向いて歩いていたのですが、コンクリートで作られた重々しい鉢に目を奪われたのです。まるでお墓のように白いその質感と、それが作り出す影。きっとそこにぎっしりと土が詰まっていて、仰々しい葉を垂らすこの木の根っこがその中で静かに眠っているのでしょう。
私もその中で眠りたいと思いました。その中でならきっと眠ることが出来るはず。けれど人間用の鉢なんてどこにも売っていませんでした。お金があれば何でも手に入るなんて、嘘ですね。
しかたがないのでお風呂で代用することにしました。土は思っていたより重たくて運ぶのに苦労しましたが、浴槽が土でいっぱいになるとなかなか壮観で達成感がありました。それにようやくここで寝られるのだと思うと、やっとここが自分の家になったような気がしました。
夜も更けて、私は土の中に埋まりました。土の中は冷たくて、また、全身に何かがずっと触れているという状態に違和感がありましたが、だんだんと気にならなくなっていきました。少し意識すれば、身体が土に馴染んでいくのがわかって面白いです。そして最後には私の身体なんて消えてしまって、すっかり土に溶けてしまえます。その心地よさが静かに私を眠らせてくれるのです。
目が覚めると私の身体はちゃんと元に戻っています。それとも、身体が元通りになると目が覚めるのでしょうか。半分だけの状態で目覚めたことはないので、私にはわかりません。
でも、こうして私は一日を始めることが出来るようになりました。毎日新しい私も、このベッドを気に入ってくれているみたいです。
2010年4月4日日曜日
襖の隙間
いつからだろう。祖母を重荷に感じるようになったのは。世界で一番私を愛してくれているのは祖母だ。細い腕を伸ばし、固いシワだらけの手で私の頭を撫でてくれる。私がそれを振り払ってしまいたいと思っているのも知らずに。それでもされるがままにしているのは、私にはそれ以外得られる愛情がなかったからだ。だから衝動を罪悪感で抑えつけて、じっとその儀式を耐えた。
儀式の最中に私は決まって襖を眺める。そして襖から覗くあの子に目をやる。小さな小さな顔のない女の子。蔑んでいるのだろうか。羨んでいるのだろうか。でも、私がこんな思いをしなければいけないのは、みんなあの子のせいなのだ。消えてしまえ、と強く思う。
「あの子はまだ見でんのがい」
祖母の言葉に私は頷く。
「だいじょぶだよぉ、婆ちゃんがついでっから」
何の根拠もないくせに。思いながらも、私は頷く。そうするしかないから。
そんな無様な私を、あの子はずっと見ている。
あの子が最初に現れたのはちょうど両親が言い争いをしている時だった。たぶん最悪のタイミングをわざわざ選んだのだろう。なにも知らなかった私は、その子のそばに行って話をしようとした。でもそれが両親には気味の悪いものに見えたのだ。両親にはあの子の姿が見えないから、しかたない。
「あなたがそんなだから、あの娘まで頭おかしくなっちゃったじゃない」
「もともと頭がおかしいのはお前の家系だろ。お前が責任とれよ」
「そんなこと言ったらあなたのお兄さんだって――」
「お前も本当は――」
私は。
私はそれを見て、あの子には話しかけていけないのだと理解した。けれどそうしたら、うまく言葉が話せなくなって。結局両親は離婚してしまった。私は母方の祖母に預けられることになった。
祖母は、霊媒だのなんだのを商売にしている人だったから、私があの子を見えることを普通のこととして受け入れてくれた。けれど祖母にもあの子の姿は見えないと言う。どうして私にだけ見えるのか訊くと、祖母は、そういうこともあるんだと諭した。
「あの子は座敷童子っつってな、怖がんねっきゃ、なぁんも悪さしねがら。だがら、だいじょぶだよぉ」
あのときの私も、頭を撫でる祖母の手を振りほどきたいと思っていた。でもそれは、初めて感じる恥ずかしいくすぐったさをどうしたらいいのかわからなかったからだ。今はもうそんなふうに感じることはできない。祖母はあの頃のまま、ずっと変わらないのに。
私は学校へ行ってもずっと一人だった。この村で祖母は有名人だったし、あの子は学校にもついて来た。私が気にしないようにしても、そうしていることを周りは敏感に察知して気味悪がった。成績も悪く、運動も苦手で、喋ることさえ人並みにできない私を教師たちは見放した。
でも、だから高校受験は必死に努力した。周りの誰もいけないところに行くために。そうすれば、誰も私の事情を知らなければ、居場所が見つかるような気がしたのだ。
高校には無事合格した。誰も私を知らないところに行くことができた。けれど結局私は一人だ。だって、どうしたら誰かといられるのかわからないから。どうしたら、誰かといることの中に安らぎを見出せるのか知らないから。
まともに話すことは出来るようになったと思う。でもそれは、まともに誰かを追い返すための話し方でしかなかった。そんな私が見る事を許されているのは、疎ましいあの子の姿だけだった。
昼休み。私はいつもどおり、お弁当を食べ終えてあの子を見ながらぼんやりとしていた。あの子を見ていると、他の一切のものが膜を貼られたように遠ざかる。これは最近発見したことだ。そうしているとだんだん、もうみんな遮断してしまった方が良いのではないかと思えてくる。わざわざこうして耐えるのも馬鹿らしい。いっそ全部。なにもかも、なにもかもを。
「ねえ。あの、聞いてる?」
驚いた。いつの間にか隣に立っていた女子が話しかけていたのは私だったようだ。顔はもちろん知っている。クラスメイトだ。でも名前は知らない。聞いたことはあるのだろうけど。
「なに?」
「いや、何してるのかなぁって思ってさ。いつもベランダの方見てるじゃん。だから、えっと、それに何か話をしてみたいなって、ねえ?」彼女は後ろに控えている、おそらく彼女の友人たちに同意を求める。
「そうそう。私らはほらアレだから、なんていうか自然を愛でる心みたいなものないけどさ。たまには向きあってみたい年頃じゃん」
「なんだよそれ意味分かんないよ」
「そんなこと言うならあんたもなんか言ってみなよ」
彼女たちはじゃれながら笑っていた。ああ、そう。つまり、退屈だから私を使って遊ぼうと。そういうことでしょう。
「ほら、ちょっとやめなって。困ってるじゃん」最初に話しかけてきた女子が言う。「ごめんね。こういう喧しいノリって苦手だよね。真面目だもんね」
なんだか。
「でもさぁ、そういう飄々とした感じっていうの?格好良いなって思うわ」
なんというか。
「ああ、わかるわかる。俗物には興味ありません、みたいな」
無性に腹が立った。
なぜこいつらは、私を勝手に決めつけて、それで納得しあっている?
なんなんだ?
それに同意しろと?
こいつらが見ているのは何だ?
私は。
「違うよ。私はただ、幽霊を見てるだけ。昔からずっと見れるの。わかった?わかったら、もういいでしょ」
彼女たちは一様に目を丸くして、それから憐れむように私を見た。
ぶん殴ってやろうかと思ったけれど、面倒くさいので、やめた。
帰宅すると、祖母は霊媒のための服を着替えているところだった。
「ちょっと待ってでねぇ、今日は二軒も回って来たがら、婆ちゃんちょっとくたびれで」
祖母は未だに私があの儀式をしてもらいたいと望んでいると思っているんだ。勝手に、そう思ってる。
「今日はいいよ」
私が言うと祖母はシワに埋れた細い目を私に向けた。
「なじょしたんだい」
「いいの。もう」
また、腹が立ってきた。無知で傲慢で迷信を押し付け続ける祖母に。そして何もかも気に入らないのにそれを受け入れて甘んじ、にも関わらず内心で文句ばかり言い続ける自分に。
もういい。もうたくさんだ。
「したらもう、あの子は消えたんがい」
「消えないよ!」私は叫んだ。「全然消えない。見えてるよ私にだけずっと!でもあれは幻覚なの!幽霊なんかじゃないの!私の頭がおかしいから、だから、もういいの!」
虚しかった。なんで私は、このシワだらけの老婆にこんなことを言ってるんだろう。何も満たされないのに。それでも言葉は止まらなかった。
「あんなことしてたって、治るわけないでしょ。なんの気休めにもなんないよ。もうやだよこんなの」
吐き出してしまって、私はからっぽになった。
それなのに、呼吸をするのもつらかった。
それなのに、鼻水が出る。
それなのに、涙が溢れる。
そんな私を弱々しい温かさが包んだ。
細い、すぐにでも折れそうな両腕が私の背中に当てられている。
しわがれた声が、耳元で言った。
「おめぇがそう思うなら、たぶんそうなんだ。んだげど、だいじょぶだがらない。婆ちゃんがついてでやっからない」
固い指が、頭を撫でた。
私はその愛情に身を委ねた。
滲んだ視界にあの子の姿を探したけれど、あの子はもうどこにもいなかった。
2010年4月3日土曜日
放課後会議
帰りの会が終わって40分後、いつもの4人は音楽準備室で何をするでもなくぼんやりとしていた。校庭では既にサッカー部の練習が始まっていて、本来ならば彼らもそこに混じっているべきだった。けれどリーダー格のSが現在サッカー部の部長と対立をしているので、他の3人もSに従い練習をサボっているのだった。
「つまんねー」Sはぼやく。「なんか面白いのない?」
「あのお腹を押してはぁはぁやるやつは?」色黒のTが提案した。
「あの気絶するやつ?あれでも、やってると脳が死ぬらしいよ」
「ええっ、マジで?嘘、だって俺5回くらいやっちったよ」一番体格の良いNは青ざめた。
「たぶん10回くらいやらなければ大丈夫だよ」Tは根拠もなく言った。
「暇だー」
Sは不思議に思う。なぜ一人だと退屈なんて感じないのに、誰かといるとそう思うのだろう。自分が部活をサボると言い出したとき、彼らも便乗してくれたのは嬉しかった。それなのに今はどちらかと言えばいなくなって欲しいと思っている。だんだん、こんなところにいなければならないのは、こいつらのせいなんじゃないかと思えてくる。
「うちに行ってさ、ゲームやろうよ」メガネをかけたRは言った。
「駄目だよ。そしたら部活サボったの親にばれるじゃん」とN。
「先生が出張とかで今日は休みになったとか言えばいいだろ」
「学校に電話されたらどうすんの。うちの親、すぐ疑うから無理だって」
「お前が嘘ヘタだからだろ。お前すぐ顔真っ赤になるもん」
「あのさ」二人を仲裁するようにTは口を挟んだ。「やることないなら、部活行けばよくない?」
一瞬、部屋は静かになった。
そして次の瞬間にはTを罵倒する言葉が響く。
Sはいたたまれなくなって、廊下の方に目をやった。そして、赤く光るそれを見つける。
「なあ、あの非常ボタンって、押したらどうなるか知ってる?」
「え、サイレンが鳴って消防署の人がくるんじゃないの」
「押してみようか」
「だめだよそんな。警察に捕まる」
「バレなきゃいいじゃん」
「指紋とられてバレるって」Nは引きつった笑顔で言った。
「あ、ハンカチの上から押せば指紋つかないね」Rは得意げに反論する。「ドラマで見たよ、そういうの」
「ハンカチなんて誰が持ってんの?」
再び沈黙が訪れる。
「第一さ、今どきカメラくらい付いてんじゃない?」
「非常ボタンのとこに?」
「うん。そうじゃなきゃ犯人捕まんないかもしれないし」
「全然付いてるように見えないけど」
「見えないくらいちっちゃいんだよ」Nは大きな身体を縮めて言った。
Tは口をすぼめて首を捻ったが、Rは大げさに頷いた。
「そっか、じゃあ、ハンカチを持ってきて、変装しなきゃいけないんだ」
「だからぁ、捕まるってば」
「どうやって」
「臭いでバレるよ、絶対。警察犬ってものすごい頭もいいし」
「Nの臭いならバレるな」
Sの言葉を皮切りに、RとTは笑いながら「Nはくせーもんな」「Nのジャージが非常事態です!」などとはしゃいだ。
「警察犬はめちゃくちゃすごいのっ。お前らの臭いだってわかるのっ」
顔を赤くするNを鎮めるようにSは落ち着いた声で言った。
「そもそもさ、なんで捕まるの」
「なんでって、ええと」
「消防署に迷惑をかけたら犯罪になるからじゃない?」Tの代わりにRは答えた。
「迷惑っても、それが仕事なんだろ?」
「ほんとに火事とかが起きてたらそうだけど、そうじゃないのに押したら仕事のじゃまになるよ」
「勘違いしました、じゃ駄目?あとは、消防署がくる前に自分たちで火を消しました、とか」
「バレるよ、絶対・・・」Nは不安そうにSを見つめた。
「なんで」
「だって、ほら、天井に煙のセンサーだってあるし、勘違いだって言ったって信じてもらえないよ」
「Nだったらな」Tはそう笑ったけれど、3人はそれを無視した。
「じゃあさ、ほんとに火をつけてやればいいじゃん」Sの目は非常ボタンの上の赤い光だけを見ていた。「それで消せば、嘘になんないだろ」
NはSとRを交互に見た。RはSに顔を向けたままけれど目を合わせられずにいた。Tだけが未だに校庭の部活を気にしていた。
「本気なの」Rはようやく開いた口でそれだけ尋ねた。
SはゆっくりRに顔を向ける。その顔にRは言い知れない恐ろしさを感じていた。
「嘘だよ。そんなのやるわけないじゃん。別に、面白くもないし」
そしてSは立ち上がって、廊下の方へ歩きだした。
「どこ行くの?」
「便所」
Sが去った後、次第に室内は以前の空気に戻っていった。多少のぎこちなさを残したまま。
そして。
10分後、学校中をサイレンが響いた。
Tが驚いて声をあげる。
Nは笑顔のまま固まって、Rの方を見た。
「ああ、やっぱり」
Rはそう呟いた。
2010年4月2日金曜日
エコー
思わぬ収入が入ったため、僕はようやくオムニナビの購入を決めた。ケータイがあれば不便はないし、発売から一年も経っているから他社が出し始めた安いオムニナビもどきの方がスペック的には良い部分もあったけれど、直営店に本家の注文を出した。友人にそのことを漏らしたら微妙な顔をされた。僕だって、たぶん別の誰かが同じ決断をしたらそんな表情をしていただろう。こういう新しいテクノロジーはオリジナルに触れることで、よりその意思が伝わる、ということは認める。けれどオムニナビは新しすぎたが故に、多くの欠陥を持つ商品だった。なにより寿命が短い。この一年、あれを修理無しで使い続けられたユーザは一人もいないだろう。それでも真新しさから購入する人は多かったのでメーカーは一応の利益を得て、再来月には新しいモデルが出ると噂されている。そんななか、僕は現行のモデルを買うわけだ。本当に馬鹿らしいと自分でも思う。それでも決意を曲げなかったのは、メーカーに対する特異な愛着と、あの噂のせいだった。
オムニナビが届いたのは注文から一週間後の日曜だった。無駄に洒落た白い箱を開けると、中からは新品の機械特有の匂いと、ゴーグルとヘッドフォンが一体になったような例のフォルムが姿を現した。早速取り付けて電源を入れる。「Hello world」外国人の声がして、中央にガイドが表示された。幸い表示されたガイドは最初から日本語だった。僕はそれに従って初期設定を行う。
「設定が完了しました」その声で、僕は固まってしまった。「ようこそ、オムニナビへ」
それは間違いなく先輩の声だった。彼女がマイクに向かって、あのぎこちない笑顔で録音している姿が目に浮かぶ。僕は遅れてこみ上げてきた可笑しさに耐えきれず、声を出して笑ってしまった。噂は本当だったのだ。日本語版の音声を開発チームの女性スタッフが担当したらしいというネット上の書き込みを初めて見たとき、まさかとは思った。けれど一応世界的な大企業であるあのメーカーがそんな古いTVゲームののような製作を許すとは普通考えられない。けれど彼女ならあり得るのではないかと冗談半分に思った。彼女の立場は普通ではないし、彼女自身もまた普通ではないから。しかし本当にやるとは、恐れ入った。僕はオムニナビのメールソフトを起動して、彼女になにか言ってやろうかと思った。五年ぶりだから、届かない可能性も大きいけれど。
先輩のような人と知り合えたのは、偏に彼女が変人だったからだ。僕は大学に入りたての頃、生活費を稼ぐために近所の潰れかけたコンビニでアルバイトをしていた。そして彼女は僕が入る二ヶ月前からそこで働いていたのだ。そのコンビニは時給も安く仕事も楽ではなかった。少なくとも彼女のような頭の良い人が働くには条件が悪すぎる環境だった。当時の僕は常識もなく無遠慮な人間だったから、彼女に「どうしてこんなところで働いているんですか」と愚直に尋ねた。自分のように生活費のためかと聞くとそうではないと言う。では何か思い入れがあってかと聞いても違うと答える。首が折れるほど疑問符を頭上に重ねる僕を彼女は笑うと、限りなく粘度の低い声で言った。
「体を動かしたいなぁ、と思って」
つまり、散歩と同じ感覚で彼女は働いていたらしい。それにしてももっと条件の良いところはあるでしょう、と食いつくと、「どこへ行っても、私にはここに私があるから」と言った。
先輩は僕の提案を何一つ拒まなかった。どこへでも一緒に行ってくれたし、何にでも付き合ってくれた。たぶん、それは相手が僕だったからではない。あの時期の先輩は世界に対する折り合いのつけ方を学ぼうとしていたのだと思う。けれどそれは後から至った考えで、当時の僕には嬉しい半面とても怖かった。だから僕は次第に何も提案しなくなっていった。そして彼女から何かを言い出したことは一度もない。休日に雨が降ると安心して、僕は彼女のいる部屋でぼんやりと本を読んだ。今でも、幸福というものをイメージしようとすると、沈黙したあの部屋の映像が頭に浮かぶ。僕はあのとき読んだ本の内容をまったく頭に入れられず、きっと彼女は逆に本の内容しか記憶していないだろう。それでも、あるいはそれだから、僕にはとても落ち着く記憶として残されている。
そんな関係だったから、先輩がアメリカに行くと言い出した時も、比較的落ち着いて受け入れられた。流石に出発が二日後だというのは驚いたけれど、先輩のことを欲している企業があることは人づてに聞いていたし、むしろあるべき場所に行くのだと思えて安心した。自分は竹取の翁より傲慢でないか、あるいは愛情というのがなかったのだろう。
「それじゃ」
つい二、三日家を開けるのと何らかわりない軽さで、彼女は歩きだした。けして振り返らないことを僕は知っている。自分に許されているのはそれを眺めていることだけだというのは理解していた。けれど衝動が、僕に彼女の名前を呼ばせた。彼女は振り向いてくれたけれど、僕は恥ずかしくて消え去ってしまいたかった。
「どうしたの」
「あの・・・、えっと、最後に僕の名前を呼んでもらえませんか」
ただ、なんとなく、記憶に焼き付けておきたかった。そうすれば、ずっと、生きていけるような気がしたのだ。
「気が向いたらね」
しかし彼女はそっけなくそう返すと、そのまま行ってしまった。
彼女に何かを断られたのはそれが最初で最後だ。
でも結局同じことなのだ。
僕はそれから、あのときの蟠りを抱えてずっと生きている。
その蟠りの恥ずかしさやくすぐったさが、そのまま彼女との記憶と繋がる。
彼女のまなざしを思い出して、僕はそのときあろうとした自分の形を思い出せる。
だからそれで良かったんだ。
先輩のアドレスから返信がきたのは、送信から三日後の夜中だった。しかし送信者は先輩自身ではなく、彼女の弟だった。簡潔な文章には、僕のことは先輩から聞いているということ、先輩は一年前に亡くなられているということ、それから位牌の置いてある住所が書かれていた。
僕はオムニナビをつけたまま、ベッドに横たわった。
スピーカーから、僕の名を呼ぶ彼女の声が聞こえた。
僕はその幻聴を繰り返し、繰り返し聴いた。
2010年4月1日木曜日
排水口の花詰まり
目が覚めてすぐに、しまったと思った。布団をはねのけて慌てて時計を確認する。けれどどこを見回しても時計なんてない。そしてようやく僕は、それで良いのだということを思い出した。安心するとふっと気が抜けて、そのままベッドに倒れてしまった。
この街の名前を僕はまだ知らない。昨日ようやくここに到着したときには街はすっかり眠りについていて、あの悪夢のような疲労がなければ僕だっておとなしく路上で一夜を過ごしていただろう。とはいえ、この宿の主人には迷惑をかけてしまったわけだし、少し顔を合わせづらい。
窓の方に顔を向けると薄いカーテンを突き破る日差しが眩しかった。もう十時くらいだろうか。表から子どもたちの歓声が響く。馴染みのある騒がしさだから、きっとずいぶん前から聞かされていたのだろう。
僕は朝の儀式をやり直すみたいにゆっくり体を起こして両腕を伸ばした。下に降りてなにか飲み物を貰おう。旅をするにあたって期待は疲弊をもたらすだけだということはもう十分に理解しているけれど、僕は密かにコーヒーを期待した。
朝食を終えて僕はタバコに火をつけた。コーヒーの代わりにいただいた茶色っぽい飲み物の独特な香りがまだ口の中に残っている。人を笑顔にさせるなかなか強力な味だった。もっとも、その笑顔は多少歪んだものになるけれど。
今日はこれからどうするつもりなのか、と近寄ってきた店主に尋ねられた。食事中付き合わされた彼の尋問の結果、僕を一応真っ当な客として受け入れてくれたらしい。どちらかといえば喜ばしいことだ。
まだ決めていない、と答えると彼は間髪入れずに、それは幸運なことだ、と言った。聞けば、今日はこの街で祭りが開かれるらしい。一年のうちで最も華やかな祭りだ、と彼は言うので僕も一応それらしく微笑んでみせた。しかし、宿に僕以外の客がいる様子は見られなかったので、それほど大したものではないことは想像出来た。
部屋に戻ってから暫く、僕はこれからの計画について考えた。そして正午を回った頃だろう。必要なものを頭の中にリストアップし、買出しに出かけようと腰を上げて、ふと疑問に思った。祭りなのだから、商店は閉まっているかもしれない。だとすると厄介だ。明日の朝には出発しようと思っていたのに。
表の喧騒は既に朝の比ではなかった。大人も子供もなく、暴力的なまでの笑い声。窓の下の大通りを覗くと、ちょうど少年が転ぶのが目に入った。泣き出した彼に母親らしき女性が駆け寄る。それから、ああ、怒らなくてもいいのに、女性は少年の背を叩いた。
僕は目をそらし、その惰性で開いている商店を探した。人だかりで見づらいけれど、向かいのパン屋は開いているようだ。黒髪の痩せた女性がちょうど店から出てくるのを見つけた。
見つけてしまったからにはしかたない。僕は準備をして一階へ降りた。玄関ホールに着いたところで都合よく店主が表から入ってきた。アルコールが入っているのか頬を少し赤らめている。今日開いている店を教えて欲しい、と僕が言うと彼は一瞬顔をしかめた。そして頭を二度ほど叩き、それなら俺が案内してやる、と両手を広げた。まるでこれが最大限の譲歩だとでもいうように。
乗り気はしなかったけれど、僕は彼のあとについて行った。外に出るとその音で内臓が震えるほどだった。店主がこちらに顔を近づけ、耳元で、お前は幸運だ、と叫んだ。目を背けると濡れた地面に赤色の花弁が沢山踏み潰されているのが見えた。路中どこもその花だらけだ。汗とアルコールと、おそらくその花の匂いが混じった空気は少なからず吐き気がした。
僕は我慢ができなくなって、早く案内してくれ、と店主に伝えた。
店主に従ってしばらく行くと、通りの中心をゆくパレードの一群に出くわした。彼らは頭上に例の花びら投げながらよくわからない呪文を唱えている。けれど周りの連中はそんなものお構いなしに騒ぎ続け、結果として立ち往生してしまった。
青い空、黄色い土壁を背景に、赤い赤い花びらが舞う。破顔する大人たち。遠くから子供の泣き叫ぶ声。目の前で蠢く頭。ほら、あれを見ろと店主の指が天空をさす。目眩がした。
僕は人々の間を無理やり進み、大通りから出ようとした。こんなところに来るべきではなかった。頭の中でそう谺していた。路地に屯する若者たちを押しのけて、ようやく、あの騒ぎから遠ざかった。
どうしてこんなところに来てしまったのだろう。おそらく今、この街中に自分の居場所はないだろう。昨日、あのまま野垂れ死んでしまえばよかった。そのほうがずっと良かった。額に押し付けた手のひらから、心を挫くような熱が伝わってくる。けれど意識をそこに集中させると、少しだけ楽だった。
呼吸も落ち着いて、僕は当たりを見回した。すると建物の影に子どもが四人、うずくまっている。彼らの顔は笑っても泣いてもいなかった。なにか作業に集中しているような。
おい、大丈夫か。その声に振り向くと心配した店主が僕を追ってきていたようだった。僕は少年たちを指さし、あれは何やっているのかと尋ねた。店主は子どもたちに目をやって何度か頷くと、僕を見て再び、笑った。
あれが見たかったのか、ああ、お前さんは大したもんだ。彼は僕の背を叩いた。それから逃れるように子どもたちの方へ近寄ると、彼らが花の詰まった排水口に棒を突き刺しているのが見えた。排水口からは赤く染まった水が溢れ、彼らの手も、服も、同じ色に染まっていた。
そうか、お前はこれが見たくてこの街にきたんだな。お前は大した旅人だよ。
違う。僕は店主の言葉を無視して、子どもたちのすぐ側まできた。
やめろよ。
そんなことはやめろ。
彼らから棒を取り上げた。後ろから店主の笑う声が聞こえる。子どもたちは何も言わず、じっと僕を見つめる。
お前は本当に幸運だ。まったく羨ましいよ。もしかして、自分でもやってみたいのか。ああ、思う存分するといい。
店主を睨みつけた。違う。僕はそんなことをしない。震える声で言い返した。
何が違う。全部お前の望んだとおりじゃないか。構うことはないさ、お前は旅人なんだから。
違う。
店主は僕に歩み寄ると、その拳を僕の顔面に叩きつけた。子どもたちは顔を伏せ、排水口を見ていた。口の中は血の味がする。
それでも僕が出せたのは、違う、という言葉だけだった。
2010年3月31日水曜日
こころの放射性
首筋の痛みで目が覚めていった。昨日はあのままソファで眠ってしまったんだっけ。記憶は鮮明だけれど、やけに遠い。たぶんそれは、これまでの思い出を全部、昨日に括り付けてしまったからだろう。3年分の重みですっかり深く沈んでしまったのだ。
「そうか、終わったのか」
口に出してみた。けれど思っていたよりもずっと安らかだ。実感がない。壊れてしまった実感ではなく、今までそれがあったということがもうよくわからない。あんなに悩んでいたのに。あんなに大事だと思っていたのに。心はそよ風に揺られるだけで、寂しささえない。ひょっとして寝ているうちに神様が別の誰かの心を私に移植したんじゃないだろうか。死骸を綺麗に取り去って。
そんな馬鹿なことばかり考えてはいられない。私はコーヒーを入れるためにキッチンへ向かった。
「あ」
玄関先に散らばった、割れたマグカップに目がいった。壁に染み付いたコーヒーの跡も昨日のままだ。ちゃんと落ちるんだろうか、これ。それから自暴自棄になった昨日の自分が見た映像、放った言葉が思い出された。馬鹿な事をしたとは思うが、同時に微笑ましく感じる。まるで小さい子供のした悪戯を見つけた時のように。
あんなふうにしてモノを壊したことは今まで一度もなかった。そんな衝動は自分には無縁で、よほどヒステリックな人かフィクションの中でしかありえないものなのだと思っていた。彼に対する私の感情もすっかり形骸化していると認識していたし、あんな最後を迎えるだなんて想像もしていなかった。
好きだとか嫌いだとかそういう単純なものではなく、きっとむしろそういったたくさんの感情で作り上げられ形作られてきた何かが昨日ついに壊れてしまった。
あれはすなわち私自身のカタチでもあった。
そうか。
昨日壊れたのは、私自身でもあったんだ。
壊れてしまえるものなんだな。
壊れるってあんなふうなんだな。
真新しいから、今なら全て受け入れられるように思う。
全てを許せたような気がした。
その後、カップの破片はすぐに捨ててしまったけれど、私は壁をそのままにすることにした。茶色く残ったその染みは、私自身の影だ。爆発で焼き付いた、あの頃のポートレイト。いつまでも消えないで欲しい。
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