オムニナビが届いたのは注文から一週間後の日曜だった。無駄に洒落た白い箱を開けると、中からは新品の機械特有の匂いと、ゴーグルとヘッドフォンが一体になったような例のフォルムが姿を現した。早速取り付けて電源を入れる。「Hello world」外国人の声がして、中央にガイドが表示された。幸い表示されたガイドは最初から日本語だった。僕はそれに従って初期設定を行う。
「設定が完了しました」その声で、僕は固まってしまった。「ようこそ、オムニナビへ」
それは間違いなく先輩の声だった。彼女がマイクに向かって、あのぎこちない笑顔で録音している姿が目に浮かぶ。僕は遅れてこみ上げてきた可笑しさに耐えきれず、声を出して笑ってしまった。噂は本当だったのだ。日本語版の音声を開発チームの女性スタッフが担当したらしいというネット上の書き込みを初めて見たとき、まさかとは思った。けれど一応世界的な大企業であるあのメーカーがそんな古いTVゲームののような製作を許すとは普通考えられない。けれど彼女ならあり得るのではないかと冗談半分に思った。彼女の立場は普通ではないし、彼女自身もまた普通ではないから。しかし本当にやるとは、恐れ入った。僕はオムニナビのメールソフトを起動して、彼女になにか言ってやろうかと思った。五年ぶりだから、届かない可能性も大きいけれど。
先輩のような人と知り合えたのは、偏に彼女が変人だったからだ。僕は大学に入りたての頃、生活費を稼ぐために近所の潰れかけたコンビニでアルバイトをしていた。そして彼女は僕が入る二ヶ月前からそこで働いていたのだ。そのコンビニは時給も安く仕事も楽ではなかった。少なくとも彼女のような頭の良い人が働くには条件が悪すぎる環境だった。当時の僕は常識もなく無遠慮な人間だったから、彼女に「どうしてこんなところで働いているんですか」と愚直に尋ねた。自分のように生活費のためかと聞くとそうではないと言う。では何か思い入れがあってかと聞いても違うと答える。首が折れるほど疑問符を頭上に重ねる僕を彼女は笑うと、限りなく粘度の低い声で言った。
「体を動かしたいなぁ、と思って」
つまり、散歩と同じ感覚で彼女は働いていたらしい。それにしてももっと条件の良いところはあるでしょう、と食いつくと、「どこへ行っても、私にはここに私があるから」と言った。
先輩は僕の提案を何一つ拒まなかった。どこへでも一緒に行ってくれたし、何にでも付き合ってくれた。たぶん、それは相手が僕だったからではない。あの時期の先輩は世界に対する折り合いのつけ方を学ぼうとしていたのだと思う。けれどそれは後から至った考えで、当時の僕には嬉しい半面とても怖かった。だから僕は次第に何も提案しなくなっていった。そして彼女から何かを言い出したことは一度もない。休日に雨が降ると安心して、僕は彼女のいる部屋でぼんやりと本を読んだ。今でも、幸福というものをイメージしようとすると、沈黙したあの部屋の映像が頭に浮かぶ。僕はあのとき読んだ本の内容をまったく頭に入れられず、きっと彼女は逆に本の内容しか記憶していないだろう。それでも、あるいはそれだから、僕にはとても落ち着く記憶として残されている。
そんな関係だったから、先輩がアメリカに行くと言い出した時も、比較的落ち着いて受け入れられた。流石に出発が二日後だというのは驚いたけれど、先輩のことを欲している企業があることは人づてに聞いていたし、むしろあるべき場所に行くのだと思えて安心した。自分は竹取の翁より傲慢でないか、あるいは愛情というのがなかったのだろう。
「それじゃ」
つい二、三日家を開けるのと何らかわりない軽さで、彼女は歩きだした。けして振り返らないことを僕は知っている。自分に許されているのはそれを眺めていることだけだというのは理解していた。けれど衝動が、僕に彼女の名前を呼ばせた。彼女は振り向いてくれたけれど、僕は恥ずかしくて消え去ってしまいたかった。
「どうしたの」
「あの・・・、えっと、最後に僕の名前を呼んでもらえませんか」
ただ、なんとなく、記憶に焼き付けておきたかった。そうすれば、ずっと、生きていけるような気がしたのだ。
「気が向いたらね」
しかし彼女はそっけなくそう返すと、そのまま行ってしまった。
彼女に何かを断られたのはそれが最初で最後だ。
でも結局同じことなのだ。
僕はそれから、あのときの蟠りを抱えてずっと生きている。
その蟠りの恥ずかしさやくすぐったさが、そのまま彼女との記憶と繋がる。
彼女のまなざしを思い出して、僕はそのときあろうとした自分の形を思い出せる。
だからそれで良かったんだ。
先輩のアドレスから返信がきたのは、送信から三日後の夜中だった。しかし送信者は先輩自身ではなく、彼女の弟だった。簡潔な文章には、僕のことは先輩から聞いているということ、先輩は一年前に亡くなられているということ、それから位牌の置いてある住所が書かれていた。
僕はオムニナビをつけたまま、ベッドに横たわった。
スピーカーから、僕の名を呼ぶ彼女の声が聞こえた。
僕はその幻聴を繰り返し、繰り返し聴いた。
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