2010年4月4日日曜日

襖の隙間

 いつからだろう。祖母を重荷に感じるようになったのは。世界で一番私を愛してくれているのは祖母だ。細い腕を伸ばし、固いシワだらけの手で私の頭を撫でてくれる。私がそれを振り払ってしまいたいと思っているのも知らずに。それでもされるがままにしているのは、私にはそれ以外得られる愛情がなかったからだ。だから衝動を罪悪感で抑えつけて、じっとその儀式を耐えた。
 儀式の最中に私は決まって襖を眺める。そして襖から覗くあの子に目をやる。小さな小さな顔のない女の子。蔑んでいるのだろうか。羨んでいるのだろうか。でも、私がこんな思いをしなければいけないのは、みんなあの子のせいなのだ。消えてしまえ、と強く思う。
 「あの子はまだ見でんのがい」
 祖母の言葉に私は頷く。
 「だいじょぶだよぉ、婆ちゃんがついでっから」
 何の根拠もないくせに。思いながらも、私は頷く。そうするしかないから。
 そんな無様な私を、あの子はずっと見ている。

 あの子が最初に現れたのはちょうど両親が言い争いをしている時だった。たぶん最悪のタイミングをわざわざ選んだのだろう。なにも知らなかった私は、その子のそばに行って話をしようとした。でもそれが両親には気味の悪いものに見えたのだ。両親にはあの子の姿が見えないから、しかたない。
 「あなたがそんなだから、あの娘まで頭おかしくなっちゃったじゃない」
 「もともと頭がおかしいのはお前の家系だろ。お前が責任とれよ」
 「そんなこと言ったらあなたのお兄さんだって――」
 「お前も本当は――」
 私は。
 私はそれを見て、あの子には話しかけていけないのだと理解した。けれどそうしたら、うまく言葉が話せなくなって。結局両親は離婚してしまった。私は母方の祖母に預けられることになった。
 祖母は、霊媒だのなんだのを商売にしている人だったから、私があの子を見えることを普通のこととして受け入れてくれた。けれど祖母にもあの子の姿は見えないと言う。どうして私にだけ見えるのか訊くと、祖母は、そういうこともあるんだと諭した。
 「あの子は座敷童子っつってな、怖がんねっきゃ、なぁんも悪さしねがら。だがら、だいじょぶだよぉ」
 あのときの私も、頭を撫でる祖母の手を振りほどきたいと思っていた。でもそれは、初めて感じる恥ずかしいくすぐったさをどうしたらいいのかわからなかったからだ。今はもうそんなふうに感じることはできない。祖母はあの頃のまま、ずっと変わらないのに。

 私は学校へ行ってもずっと一人だった。この村で祖母は有名人だったし、あの子は学校にもついて来た。私が気にしないようにしても、そうしていることを周りは敏感に察知して気味悪がった。成績も悪く、運動も苦手で、喋ることさえ人並みにできない私を教師たちは見放した。
 でも、だから高校受験は必死に努力した。周りの誰もいけないところに行くために。そうすれば、誰も私の事情を知らなければ、居場所が見つかるような気がしたのだ。
 高校には無事合格した。誰も私を知らないところに行くことができた。けれど結局私は一人だ。だって、どうしたら誰かといられるのかわからないから。どうしたら、誰かといることの中に安らぎを見出せるのか知らないから。
 まともに話すことは出来るようになったと思う。でもそれは、まともに誰かを追い返すための話し方でしかなかった。そんな私が見る事を許されているのは、疎ましいあの子の姿だけだった。

 昼休み。私はいつもどおり、お弁当を食べ終えてあの子を見ながらぼんやりとしていた。あの子を見ていると、他の一切のものが膜を貼られたように遠ざかる。これは最近発見したことだ。そうしているとだんだん、もうみんな遮断してしまった方が良いのではないかと思えてくる。わざわざこうして耐えるのも馬鹿らしい。いっそ全部。なにもかも、なにもかもを。
 「ねえ。あの、聞いてる?」
 驚いた。いつの間にか隣に立っていた女子が話しかけていたのは私だったようだ。顔はもちろん知っている。クラスメイトだ。でも名前は知らない。聞いたことはあるのだろうけど。
 「なに?」
 「いや、何してるのかなぁって思ってさ。いつもベランダの方見てるじゃん。だから、えっと、それに何か話をしてみたいなって、ねえ?」彼女は後ろに控えている、おそらく彼女の友人たちに同意を求める。
 「そうそう。私らはほらアレだから、なんていうか自然を愛でる心みたいなものないけどさ。たまには向きあってみたい年頃じゃん」
 「なんだよそれ意味分かんないよ」
 「そんなこと言うならあんたもなんか言ってみなよ」
 彼女たちはじゃれながら笑っていた。ああ、そう。つまり、退屈だから私を使って遊ぼうと。そういうことでしょう。
 「ほら、ちょっとやめなって。困ってるじゃん」最初に話しかけてきた女子が言う。「ごめんね。こういう喧しいノリって苦手だよね。真面目だもんね」
 なんだか。
 「でもさぁ、そういう飄々とした感じっていうの?格好良いなって思うわ」
 なんというか。
 「ああ、わかるわかる。俗物には興味ありません、みたいな」
 無性に腹が立った。
 なぜこいつらは、私を勝手に決めつけて、それで納得しあっている?
 なんなんだ?
 それに同意しろと?
 こいつらが見ているのは何だ?
 私は。
 「違うよ。私はただ、幽霊を見てるだけ。昔からずっと見れるの。わかった?わかったら、もういいでしょ」
 彼女たちは一様に目を丸くして、それから憐れむように私を見た。
 ぶん殴ってやろうかと思ったけれど、面倒くさいので、やめた。

 帰宅すると、祖母は霊媒のための服を着替えているところだった。
 「ちょっと待ってでねぇ、今日は二軒も回って来たがら、婆ちゃんちょっとくたびれで」
 祖母は未だに私があの儀式をしてもらいたいと望んでいると思っているんだ。勝手に、そう思ってる。
 「今日はいいよ」
 私が言うと祖母はシワに埋れた細い目を私に向けた。
 「なじょしたんだい」
 「いいの。もう」
 また、腹が立ってきた。無知で傲慢で迷信を押し付け続ける祖母に。そして何もかも気に入らないのにそれを受け入れて甘んじ、にも関わらず内心で文句ばかり言い続ける自分に。
 もういい。もうたくさんだ。
 「したらもう、あの子は消えたんがい」
 「消えないよ!」私は叫んだ。「全然消えない。見えてるよ私にだけずっと!でもあれは幻覚なの!幽霊なんかじゃないの!私の頭がおかしいから、だから、もういいの!」
 虚しかった。なんで私は、このシワだらけの老婆にこんなことを言ってるんだろう。何も満たされないのに。それでも言葉は止まらなかった。
 「あんなことしてたって、治るわけないでしょ。なんの気休めにもなんないよ。もうやだよこんなの」
 吐き出してしまって、私はからっぽになった。
 それなのに、呼吸をするのもつらかった。
 それなのに、鼻水が出る。
 それなのに、涙が溢れる。
 そんな私を弱々しい温かさが包んだ。
 細い、すぐにでも折れそうな両腕が私の背中に当てられている。
 しわがれた声が、耳元で言った。
 「おめぇがそう思うなら、たぶんそうなんだ。んだげど、だいじょぶだがらない。婆ちゃんがついてでやっからない」
 固い指が、頭を撫でた。
 私はその愛情に身を委ねた。
 滲んだ視界にあの子の姿を探したけれど、あの子はもうどこにもいなかった。

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