2010年4月11日日曜日

空に地球

 月の開発計画が打ち切られたのはちょうど僕が生まれた頃。計画のために掲げられたあらゆる屹然とした標語はブラックジョークとして使い古され、今さらそれを口にするものもいない。一部の団体は未だに再開発を求めているらしいけれど、きっとそういうところは現実に開発が再開したら、今度は別の何かの再開発を叫ぶだろう。つまり、事実上誰からも見放されているんだ。もっともそれは経済的な意味でだけど。

 あの頃に造られた多くの建物は半分以上が資料館という名目の廃墟となっている。そういうのが好きで、しかもわざわざ自分の目で見てみたい、なんて人が稀にいる。望めば映像なんていくらでも見られるし、それを見るのは間違いなく自分の目なのに、おかしな話だと僕は思う。多分根本的な自己の定義が違ってるのだろう。でも、そういう人たちを歓迎し、持て成すのが僕の仕事だ。ホテル・チャンドラヤーン。もともと大使館として建てられた、無駄に荘厳な僕の職場。

 建物自体は三つ見栄え良く並んでいるけれど、ホテルとして使っているのは一番小さな東棟だけ。しかもその一階部分以外はうちの会社の管理下にない。他の場所で何が起こっても責任を持たないというスタンスだ。だけどそれがうちの売りにもなっている。常連のユーザーにとってここは危険性のあるホテルではなく、寝泊まり出来る安全な廃墟という認識らしい。そんなわけでこのホテルには、わざわざ月まで来る変わった人間の中でも一層変わった人ばかりが来る。

 けれど個人的な救いは二つある。一つは、そんな客たちの大半はかなりの金持ちだということ。だから、少なくとも表面上まともに振る舞える人ばかりで、ここに配属されて以来トラブルに巻き込まれたことは一度もない。もう一つは、ほとんど僕がすべき仕事なんてないこと。これはそもそも客の絶対数が少ないという意味と、客の世話の大半がオートマチックに行われているという意味だ。僕のここでの役割は、この場所が人間にとっても安全だということを示すいわば看板のようなもの。チェックインの時に顔をあわせる以外、客が望まなければチェックアウトまで会うこともない。僕はこの気楽な仕事を割と気に入っていた。


 そんなある日、いつもと違う客がやってきた。

 「ご予約は入っていないようですが」

 「ええ。宇宙船の窓から息子がここを見つけまして、どうしてもここが良いと言うものですから、別のホテルをキャンセルして参りました。お部屋は空いていないのかしら」

 整った顔の女は言った。ずいぶん若い母親だ。隣にいる息子はおそらく10歳くらいだから、彼女も30歳前後ではあるはずだけどそうは見えない。しかし反面振る舞いがいやに古風で落ち着き払っていた。

 「いえ、すぐにご案内しましょう」

 「ああ、良かった。ね、良かったね」

 母親は少年に微笑みかけた。しかし彼の方は、母親の後ろで不満げな顔をしたまま俯いていた。外観と内観との差に失望しているんだろうか。とにかく僕は彼らを部屋に連れて行くことにした。さいわい部屋は全部空いている。彼らの他に客は一人もいない。

 「手続きの方はこちらの固有チャンネルで行えますので、お手すきの時にお願いいたします」

 「ええ、ありがとう」

 「それから、なにかシステムに不具合などがございましたらすぐに参りますので、気兼ねなくお呼びください」

 「そうするわ」

 「では、良い月の旅を」

 僕はお辞儀をして、ドアを閉めた。少年は最後までニコリともしなかった。

 子供連れが月へ来るなんて稀だ。普通、安全性を考慮すればありえない。一応ホテル内の設備は子供にも対応出来るようになっているけれど、せめて大人になるまで宇宙旅行なんてすべきではない。テクノロジィは全能ではないし、そのリスクと天秤にかけて得るべきなにものもここにはないからだ。あるいは子供なのだから、こんなところに来なくても十分素晴らしいなにものでも見つけられるだろう。

 問題さえ起こさなければ、まあ、どうでもいいか。僕は自室に戻り、ペプシコーラを飲んだ。客のステータスを確認すると168時間の滞在と表示されている。廃墟マニアには全然短いが、それ以外にとっては長すぎる期間だ。あの親子は、どうだろう。息を吐き出して音楽をつけ、広がろうとする妄想を打ち切る。客として会社から認められたということは、すなわち彼らは社会的にまともであるということだ。だからそれ以上の詮索は失礼でしかない。たとえあの子供が一般的な価値観からすると虐待を受けているとしても、僕にとっては今地球上のどこかで起こっている内戦と同じくらい無関係でどうしようもない。可視化された音波が部屋中を色とりどりに踊る。意識は拡散され、マクロで見れば安定。遠ざかる。ここから、どこまでも。どこへでも。


 あの親子がここに来て約70時間後のこと、僕は呼び出された。

 「いかがなさいましたか」

 「ええ、私たち、昨日外を散歩して来たんです。空がとても綺麗だったわ。もちろん地球も。つい数日前まであそこにいたなんて、本当に不思議」

 指定したラウンジまで来たのは彼女一人だった。退屈だから世間話に付き合えということだろうか。僅かな苦痛を感じるが、なんらかのトラブルでなければ全然いい。もっとも、人間にとってトラブルの原因の最たるものは、こうした直接的な接触だから気は抜けないけれど。

 「満喫されているようで、こちらも大変嬉しく思います」

 「貴方はここにどれくらいいらっしゃるの」

 「およそ5万時間になりますので、そうですね、地球に合わせて計算しますと6年目です」

 「そう。じゃあ、なにかここで変わったものをご覧になったことはあるかしら」

 「変わったもの、と仰いますと」

 「ええ。友人から聞いたのですが、なんでも宇宙では変わったものを見る人が多いと。例えば、昔の自分とか死んだ人の魂だとか。神様だって宇宙にいらっしゃるんじゃないかしら」

 ああ、そうか。確かにこの手のタイプの人間も月にはよくやってくる。うちにはめったに来ないが、そういう層をターゲットにした同業者も知っている。あまり関わりたくない領域だ。

 「なるほど。仰る通り、そういったものを御覧になる方も多いようです。ですが、残念ながら私はまだ一度も目にしたことがございません」

 「声を聴いたり、何かの存在を感じたことも?」

 「ええ、恥ずかしながら」

 「別に恥じるようなことではないわ。でも、そう。残念ね」

 「はい、とても・・・」

 「ああ、そうだわ。肝心なことを忘れていました。これ、何かご存知?」

 そういって母親は銀色のプレートを差し出した。それはちょうど彼女の手と同じ程度の大きさの長方形で、表面に一辺が2cmくらいの黒い正方形が規則正しく4つずつニ列に並んでいる。

 「少しお借りしてもよろしいですか」

 「ええ」

 彼女からそれを受けとる。非常に軽量でしかし多少の力では曲がりそうもなかった。

 「これをどこかで見つけたのですか?」

 「そう。昨日息子が見つけて参りました。どこで拾ったのか正確にはわかりませんけれど、辺りに建物などはなかったと思います」

 違和感を感じて、思わず視点をプレートから母親に移した。

 「別行動をなさっていたんですか」

 「いいえ、ずっと側にいたわ。でもあのときは少し瞑想していたから」

 母親の表情には一片の後ろめたさも感じられなかった。彼女はそれがどんなに危険なことだったか、全くわかっていないのだろう。少し、迷う。こんなものとできれば関わりたくない。けれど放置してなにかあったら面倒だ。会社にとらされる責任のことも、自分自身の精神的なことも。

 「僭越ながら申し上げます。ここは地球ではありません。お子様に万が一のことがないよう外ではひとときも目を離さない方がよろしいかと存じます。そういった事故も少なくありませんので」

 母親は目を丸くして僕を見た。そしてゆっくりと口元を上げる。僅かに、侮蔑の色を感じる。

 「ええ、そうね。ありがとう。心遣いに感謝します」

 「いえ、出すぎた真似でした。申し訳ありません」

 「でもね、目を離さない方が危険なことだってあるわ。貴方、私の言っている意味がおわかり?」

 「いえ・・・。安心が油断に繋がるということでしょうか」

 「それも確かにありますね。では、それ以外には?」

 僕は挑発的な彼女の視線から逃れ、しばらく壁や天井に答えを探した。けれど特に思いつかない。

 「申し訳ありません。私にはわかりかねます」

 「私があの子に何かをするという可能性です。一般的に考えたら、宇宙で起こる事故よりずっと、母親の方が危険だわ」

 そう言って彼女はくすりと笑った。けれどそれを冗談として受け入れることが僕にできるはずもない。気付かれないように右手を握りしめた。心臓が、少し煩い。

 「仰る通りです」

 自分の声が遠くに聞こえる。変な感覚。

 「このプレートの方はお預かりしてもよろしいでしょうか。チェックアウトまでに調べておきますので」

 「いいえ、それには及びません。それは貴方に差し上げるわ。私も息子も興味がありません。いらなかったら処分しておいてくださる?」

 「わかりました。ありがとうございます」

 母親は立ち上がり、歩きだした。僕は手元に残ったプレートに目を落とす。

 あの少年がこれに興味を残しているか、確実に彼女は知らないだろう。けれど勝手に決めつけたに違いない。本当に、うんざりする。

 「そういえば、貴方、先程から顔色が優れませんけど、大丈夫?」

 振り返ると母親は立ち止まってこちらを見ていた。

 「ええ、大丈夫です。お気づかいいただき、ありがとうございます」

 僕は業務用の言葉をそつなく吐き出した。右手はずっと隠したまま。


 部屋に戻って、僕はこのプレートについて調べることにした。光に当ててよく見ると黒い正方形の部分には何か傷のようなものがついていた。8つ全てにあるから、どうも意図的に刻まれたものらしい。けれど何を意図したものなのかはわからない。ネットで画像検索をかけたが、それらしいものは出なかった。こうなるとどこかに画像を上げて情報を求めたくなるが、見つかった場所を考慮すれば避けた方がいいだろう。仕方がないので、この手の物を愛してやまない友人に訊いてみることにした。

 幸いなことに連絡はすぐとれた。「少し調べるから詳細なデータを送ってほしい。90分後に話をしよう」とのことだった。僕はそれに従いデータを送信した後、コーヒーを入れた。

 こんなことをして何になるというのか。少し自問する。あの少年のためというなら、たとえこのプレートがなんであったとしても、大した気休めになるとは思えない。救いたければ法的な戦略を立て、時間も金も現在の安定も放棄して戦うしかない。けれどその結果が少年にとって本当に救いとなるだろうか。救われたいと願っていたのは過去の自分であって、少年自身ではない。そして仮にもしあの少年を救えたとして、それが何になるというのか。無能な自分は関わらず、ここでじっとしているのが最も良いのではないか。

 結局僕は母親という存在に反発したいだけなのかもしれない。その支配を、ただただ否定したいだけなのかもしれない。そしてその感情こそ、未だに支配されている証拠。忌々しい呪縛。こんな月まで来たというのに、絶ち切れない。空に地球。

 「久しぶり」

 「そーだっけ?一番最近通話した履歴もアンタになってたから、比較的そうでもないよ」

 「最近って、前に話したのなんて2万時間以上前のことだろ?相変わらずだな」

 「まあ、そんなことはどーでもいいよ」

 友人はクマの浮かぶ目を乱暴に擦った。まだ不眠症は治っていないらしい。それを見て、ほんの少し安心する。それは僕らをつなぐものだから。

 「で、プレートの件だけど、なにかわかった?」

 「ああ。あまり大したものではなかったよ。あれは21世紀初頭の探査機に乗せられたメッセージカードだ。広報活動の一環に、一般からそういうのを募ってたわけ。それが乗せられてた探査機はもうこっちに回収されているし、カードの大半は残ってるから資料的価値も薄いな」

 「うん?なんでメッセージを乗せることが広報になるんだ?その頃はまだこっちに誰もいなかったわけだろ?誰が読むわけ、それ」

 「誰も読まないよ。でも当時は言葉がすなわち意識であり、意識こそが個人そのものというのが一般的だった。だから、自らの言葉が月まで届けば、その人が宇宙に行ったも同然なのさ」

 「はあ?」

 「想像させるのが重要なんだ。それを憧れにさせる。その頃は宇宙に行けるのなんて本当に一握りの人間だったから、宇宙開発が自分にも価値があると一般人に考えさせるのは大事なことだったんだよ」

 「想像だけだったら、プレートなんていらないんじゃないか」

 「想像にも、現実的と思えるものと、そうでないものがあるだろ。現実的と思うのに媒介があることは重要なんだよ」

 「ふうん。まあ、よくわからんけど、当時の妄想が詰まっている板ってことか」

 「ま、それでいいよ」友人は頭を掻きながら苦笑した。「どうする?一応メッセージは解析したけど、送ろうか?」

 「なにか面白いの書いてあった?」

 「面白いかどうかは知らんけど、アンタも少し読んで当時の人の生活とかに思いを馳せてみたら」

 「苦手だなぁ、そういうの」

 言いながらも友人からのデータの受信が待機状態になったので、一応許可した。

 「それにしても、アンタよくその仕事続いてるね」

 「前にも聞いたよ、それ」

 「だって本当に意外だから。無理してるんじゃない?」

 「なにそれ。心配してるの?やめろよ、気持ち悪い」

 「アタシはアンタが辞めた方がいいと思ってるよ。ずっと」

 「どうして」

 「いつか死ぬんじゃないかって。地球以外で働く人間の自殺率、知ってる?」

 「ああ、大雑把にはね」

 「普通の人間でさえそうなんだよ?」

 「僕が普通じゃないってこと?」

 「そうだよ。アンタもアタシも普通ではない」

 「お前さ」

 「なに」

 「老けたな」

 友人は躊躇いなく手持ちのカップをカメラの方に投げた。それを見て僕は笑った。

 「冗談だよ冗談。でも僕は当分この仕事をやめないと思うよ。案外さ、普通じゃないから居心地がいいのかもしれない。お前もこっちに来れば?」

 「結構だね」

 「はは、怒るなよ。うん、とにかく調べてくれてありがとう」

 「じゃあ、少なくとも10年は生きるって言ってみてくれないか」

 「そんなの保証はできないよ。生きてる限り、いつだって死ぬかもしれない」

 「いいから言え」

 このまま通信を切ってやろうか迷ったけれど、しかたなく僕は友人に従うことにした。

 「10年は死なないように頑張るよ」

 「それじゃ」

 「ああ、またね」

 目の前から友人は消えた。今死んでやったら、少し面白いかな。僕はくだらない思いつきに少し笑った。

 自分があと10年も生きるなんて想像できない。考えたくもないことだ。友人だって、本当は同じだろう。どんなに時間を重ねたって、僕らは結局。


 解析された文字列をデスクの上に一覧表示させてみる。

 過去の地球を説明するもの。

 将来の夢を綴ったもの。

 自分、家族、恋人、友人、様々な人の未来に当てられたもの。

 どれもこれも綺麗な言葉。

 どれもこれも読む気がしない。

 でも目を離すこともできずに、頬杖をついたまま、いつのまにか夢を見ていた。

 それは初めて月に立った時の記憶。

 左手を母親に握られている。

 視界がぼやけているのは、またなにかひどいことを言われたせいだろう。

 遠くにぼんやり何かがあるのを見つける。

 別に興味はないけれど、母の手を振りほどき、そちらへ走る。

 それは崩れた僕の家だった。

 どうして。

 母に尋ねようと振り返った。

 けれど母の姿はない。

 どこにもなかった。

 ああ、ようやく開放されたのか。

 そう思っていると、いつの間にか足が地面を離れていることに気づく。

 だんだん月が遠ざかる。

 どこまでも浮き上がっていく。

 速さが増していく。

 吸い寄せられている?

 上を見て、気がついた。

 これは浮き上がっていくのではない。

 落ちている。

 地球に向かって。

 もしかしたら、生まれてくるときもこんな感じだったのかもしれない。

 それともこれが生きるということだろうか。

 目を開けた。頭上には白く光る天井しかない。目を落とすと文字列は表示させたままだった。その中の一文を目が自動的に読み込んでいく。

 「アナタは今どんな未来にいますか。どんな未来を夢見ていますか」

 指でなぞり、反転して、バックスペース、文字は消えた。


 あの親子の滞在も残すところあと1時間になった。延長の希望も出ていないから、このまま帰ってくれるのだろう。あのとき呼び出されて以来一度も顔を見ることはなかった。クレームも出ていない。外出記録を見ると40時間前から部屋に籠りきりだった。流石に飽きたのだろう。それとも本当に幻覚を見てしまって、嫌になったか。

 ともあれ、この晴れない気分もあと少しでよくなるはずだ。あの親子の間に何があろうともそれは僕とは無関係なのだから。しばらく蟠りが残っても、きっとすぐに忘れられる。自分がどんなに冷たい人間なのかは十分知っている。

 けれど、30分経ってもチェックアウトの呼び出し音はならなかった。それからさらに10分経過し、しかし部屋は沈黙したまま。客室では既に何度も案内が流れているはずだ。こんなふうに時間ギリギリまでチェックアウトが遅れる客もいないわけではない。きっと準備に手間取っているだけだ。トラブルが起きているなら、それはそれで連絡が入るはずだし、だから僕は待ってさえいればいい。

 そうして残り時間が10分になった。僕はマニュアルに従い、二人の部屋との音声通信を繋いだ。

 「恐れ入ります。お客様、ご予定の滞在時間が残り10分を切っております。滞在を延長なさいますか」

 すると向こうから微かに何かを落としたような音が聞こえた。

 「お客様?」

 「はい、すみません大丈夫です。少し片付けに時間がかかってしまいました。今、こちらを出ます」

 答えたのは少年の落ち着いた声だった。

 「かしこまりました、私もロビーで待機しております。10分未満の超過であれば延長にはなりませんので、どうぞ忘れ物のありませんようお気を付けください」

 「はい、ありがとうございます」

 僕は通信を切り、ため息を吐いた。あの少年に対応を任せたということは、つまりここまで準備に時間をかけているのは母親の方なのだろう。「どんなに技術が発展しても女が化粧にかける時間は一定のまま保存される」なんて馬鹿げた法則を誰かが言っていたのを思い出す。とにかく僕は部屋を出て、ロビーで彼らを待つことにした。


 「遅くなってしまって、ごめんなさい」

 少年は微笑みながら言った。けれど僕が戸惑いを覚えたのはその表情のせいではない。

 「あの、お母様はどちらに?」

 「母は先に行きました」間髪を入れず少年は答えた。「手続きをお願いします」

 「いえ・・・、申し訳ありませんが、それはできかねます。安全の保証上、全員の確認を行いませんと、手続きができないのです」

 「嘘ですね。少なくともそれは、アナタのする事じゃないはずです」

 そのとおりだった。僕は言葉をなくす。喉がやけに痛い。

 「心配してくれなくていいです。大丈夫ですから」

 冷たく突き放す声。その奥にあるものを僕は知っている気がした。

 それでもなんとか表面上の平静を保ち、僕はチェックアウトの手続きを行った。

 「では、こちらにサインをお願いします」

 少年は頷き、左手の人差し指で自らの名前を書いていく。

 それを見ながら僕は思考を遮断し、心を隔離していく。その奥にあるものがなんであれ、自分とは無関係だ。それが知っているものと相似であれば尚の事。

 「はい」

 「ありがとうございます。では今しばらくお待ち下さい」

 書かれたサインを確認する。それは見慣れない拙い字だった。出来損ないの直線、一文字一文字のバランスは悪く、全体としては右肩下がり。あまりにも年相応で、あまりにもこの少年に不似合いだ。まるで手品のミスを見つけた時のような違和感。

 思わず少年の顔を確認する。彼の黒い瞳はゲートに向けられていた。その目尻に走る幾筋かの赤に気づく。

 「ねえ、あのさ」意識より先に、僕は喋りだしていた。「ホントのことを教えてくれないか」

 少年は、少し驚いたような顔で首を捻った。

 「何のことです?」

 「君の母親のこと。どこに行ったの?」

 「それは、アナタに話すようなことじゃないです」

 少年は眉をひそめ、俯いた。

 「なんて説明されたのか知らないけど、君は置き去りにされているんだよ。君が望めば訴えることもできる。もっと居やすい場所を探すことも。必要なら、僕も手伝える」

 「いいです、大丈夫ですから」

 「じゃあ、なんで泣いたりしたんだ」

 「えっ」少年は顔を上げた。「なんで・・・。もしかして見てたんですか」

 「そんなことはしない。これでも一応真面目なホテルマンだし、確かに各部屋にカメラはあるけど、緊急時以外は機能しないようになっているんだ」僕はできるだけ柔らかい声を意識した。「わかったのは、君の目がまだ赤いからだよ」

 少年は再び俯き、唇を噛んだ。

 「知らない大人を頼るのは嫌かもしれないけど、頼む、助けたいんだ」

 けれど少年は首を横に振った。

 「そんなの、もういいんです」

 「なぜ」

 「だって、もうあの人はいませんから」少年の細い声はそう言った。「もう死んだんです。神様のところに行くとか言って。三日前に」

 死んだ?何を言っている?誰が死んだって?

 しかし意識は機械的にその言葉の意味を辿り、頭の中で銃声が響く。

 そして血を流して倒れている女。違う。死んだのは少年の母親で、この人は違う。

 「イタイは?」

 「警察の人が運んで行きました。手続きも終わっています。アナタに迷惑はかかりません」

 「そう」

 感覚はゆっくり戻っていく。でも少しずれているみたいで、立っているのがつらかった。

 「君はこれからどうするの」

 「施設に行きます。大丈夫です。もう全部用意は済んでますから」

 「それでいいの?」

 少年は僕を睨んだ。けれど次の瞬間にはその敵意さえ泡のように消えてしまった。

 「殴りたければ殴っていいんだ。君ばかりが理不尽を受け止めることはない。自分で抵抗して、足掻いて、戦わなければずっとそのままだよ」

 「やめてください。僕は、平気ですから。別にこのままで大丈夫です」

 「そんなこと――

 「じゃあ、アナタはそうして何かを得たんですか?」

 「いいや」僕は言った。「何もない。ずっと、何もないままだ。何もしなかったからね」

 「だったら、いいじゃないですか。何もしないでも生きていけるってことでしょ?僕はそれでいい。十分です」

 少年は床に置いていた荷物を持ち上げた。

 「お世話になりました。それでは」

 「せめて、送っていくよ」

 「いいです。タクシーを呼んでありますから」

 少年は歩きだした。引き止めることなど僕にはできない。なんて情けない。なんて愚かな。思っている間にも、少年は遠ざかっていく。彼の足音にもならない微かな振動だけがロビーに響く。

 大きすぎる扉が開かれ、少年の姿が暗闇の中に消えるその刹那、僕は閃光に射抜かれ、駆け出した。自室に戻り、デスクの上に放置していたプレートを掴み、再び走った。扉を開け、アンテルームに少年の姿はない、ヘルメットを被り、外に出た。

 真っ暗な宇宙と、小さく瞬く星々と、白い大地以外、もう何もなかった。

 それでも僕はしばらく走った。走って、走って、少年のもとへ。自らの息でヘルメットが曇っていく。喉が痛い。肺が痛い。脇腹が痛い。

 地面を蹴るはずの右足が空回りして、体勢が崩れ、僕は両手を地面につけた。

 一体何がしたかったのだろう。何ができると思ったのだろう。もう、なにもわからない。

 仰向けになって、僕はただ呼吸を続けた。宇宙はこんなに静かなのに、呼吸とか、鼓動とか、心とか、自分の中だけが喧しい。いたたまれない気持ちになって、静かになりたいと願う。

 呼吸が落ち着き視界が晴れると、正面に地球が眩しい。僕はプレートを握る右手に力を込める。

 腕を振り上げ、その旧式の宇宙船を地球に投げ返した。

 ――アナタは今どんな未来にいますか。どんな未来を夢見ていますか

 「未来なんて知るか、バカヤロウ」

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