2010年4月1日木曜日

排水口の花詰まり

 目が覚めてすぐに、しまったと思った。布団をはねのけて慌てて時計を確認する。けれどどこを見回しても時計なんてない。そしてようやく僕は、それで良いのだということを思い出した。安心するとふっと気が抜けて、そのままベッドに倒れてしまった。
 この街の名前を僕はまだ知らない。昨日ようやくここに到着したときには街はすっかり眠りについていて、あの悪夢のような疲労がなければ僕だっておとなしく路上で一夜を過ごしていただろう。とはいえ、この宿の主人には迷惑をかけてしまったわけだし、少し顔を合わせづらい。
 窓の方に顔を向けると薄いカーテンを突き破る日差しが眩しかった。もう十時くらいだろうか。表から子どもたちの歓声が響く。馴染みのある騒がしさだから、きっとずいぶん前から聞かされていたのだろう。
 僕は朝の儀式をやり直すみたいにゆっくり体を起こして両腕を伸ばした。下に降りてなにか飲み物を貰おう。旅をするにあたって期待は疲弊をもたらすだけだということはもう十分に理解しているけれど、僕は密かにコーヒーを期待した。

 朝食を終えて僕はタバコに火をつけた。コーヒーの代わりにいただいた茶色っぽい飲み物の独特な香りがまだ口の中に残っている。人を笑顔にさせるなかなか強力な味だった。もっとも、その笑顔は多少歪んだものになるけれど。
 今日はこれからどうするつもりなのか、と近寄ってきた店主に尋ねられた。食事中付き合わされた彼の尋問の結果、僕を一応真っ当な客として受け入れてくれたらしい。どちらかといえば喜ばしいことだ。
 まだ決めていない、と答えると彼は間髪入れずに、それは幸運なことだ、と言った。聞けば、今日はこの街で祭りが開かれるらしい。一年のうちで最も華やかな祭りだ、と彼は言うので僕も一応それらしく微笑んでみせた。しかし、宿に僕以外の客がいる様子は見られなかったので、それほど大したものではないことは想像出来た。

 部屋に戻ってから暫く、僕はこれからの計画について考えた。そして正午を回った頃だろう。必要なものを頭の中にリストアップし、買出しに出かけようと腰を上げて、ふと疑問に思った。祭りなのだから、商店は閉まっているかもしれない。だとすると厄介だ。明日の朝には出発しようと思っていたのに。
 表の喧騒は既に朝の比ではなかった。大人も子供もなく、暴力的なまでの笑い声。窓の下の大通りを覗くと、ちょうど少年が転ぶのが目に入った。泣き出した彼に母親らしき女性が駆け寄る。それから、ああ、怒らなくてもいいのに、女性は少年の背を叩いた。
 僕は目をそらし、その惰性で開いている商店を探した。人だかりで見づらいけれど、向かいのパン屋は開いているようだ。黒髪の痩せた女性がちょうど店から出てくるのを見つけた。
 見つけてしまったからにはしかたない。僕は準備をして一階へ降りた。玄関ホールに着いたところで都合よく店主が表から入ってきた。アルコールが入っているのか頬を少し赤らめている。今日開いている店を教えて欲しい、と僕が言うと彼は一瞬顔をしかめた。そして頭を二度ほど叩き、それなら俺が案内してやる、と両手を広げた。まるでこれが最大限の譲歩だとでもいうように。
 乗り気はしなかったけれど、僕は彼のあとについて行った。外に出るとその音で内臓が震えるほどだった。店主がこちらに顔を近づけ、耳元で、お前は幸運だ、と叫んだ。目を背けると濡れた地面に赤色の花弁が沢山踏み潰されているのが見えた。路中どこもその花だらけだ。汗とアルコールと、おそらくその花の匂いが混じった空気は少なからず吐き気がした。
 僕は我慢ができなくなって、早く案内してくれ、と店主に伝えた。
 店主に従ってしばらく行くと、通りの中心をゆくパレードの一群に出くわした。彼らは頭上に例の花びら投げながらよくわからない呪文を唱えている。けれど周りの連中はそんなものお構いなしに騒ぎ続け、結果として立ち往生してしまった。
 青い空、黄色い土壁を背景に、赤い赤い花びらが舞う。破顔する大人たち。遠くから子供の泣き叫ぶ声。目の前で蠢く頭。ほら、あれを見ろと店主の指が天空をさす。目眩がした。
 僕は人々の間を無理やり進み、大通りから出ようとした。こんなところに来るべきではなかった。頭の中でそう谺していた。路地に屯する若者たちを押しのけて、ようやく、あの騒ぎから遠ざかった。
 どうしてこんなところに来てしまったのだろう。おそらく今、この街中に自分の居場所はないだろう。昨日、あのまま野垂れ死んでしまえばよかった。そのほうがずっと良かった。額に押し付けた手のひらから、心を挫くような熱が伝わってくる。けれど意識をそこに集中させると、少しだけ楽だった。
 呼吸も落ち着いて、僕は当たりを見回した。すると建物の影に子どもが四人、うずくまっている。彼らの顔は笑っても泣いてもいなかった。なにか作業に集中しているような。
 おい、大丈夫か。その声に振り向くと心配した店主が僕を追ってきていたようだった。僕は少年たちを指さし、あれは何やっているのかと尋ねた。店主は子どもたちに目をやって何度か頷くと、僕を見て再び、笑った。
 あれが見たかったのか、ああ、お前さんは大したもんだ。彼は僕の背を叩いた。それから逃れるように子どもたちの方へ近寄ると、彼らが花の詰まった排水口に棒を突き刺しているのが見えた。排水口からは赤く染まった水が溢れ、彼らの手も、服も、同じ色に染まっていた。
 そうか、お前はこれが見たくてこの街にきたんだな。お前は大した旅人だよ。
 違う。僕は店主の言葉を無視して、子どもたちのすぐ側まできた。
 やめろよ。
 そんなことはやめろ。
 彼らから棒を取り上げた。後ろから店主の笑う声が聞こえる。子どもたちは何も言わず、じっと僕を見つめる。
 お前は本当に幸運だ。まったく羨ましいよ。もしかして、自分でもやってみたいのか。ああ、思う存分するといい。
 店主を睨みつけた。違う。僕はそんなことをしない。震える声で言い返した。
 何が違う。全部お前の望んだとおりじゃないか。構うことはないさ、お前は旅人なんだから。
 違う。
 店主は僕に歩み寄ると、その拳を僕の顔面に叩きつけた。子どもたちは顔を伏せ、排水口を見ていた。口の中は血の味がする。
 それでも僕が出せたのは、違う、という言葉だけだった。

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