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| 今日の信号機 |
いつでもすぐに記憶から呼び出せるようなものだろうか。だったらそれは感性よりも記憶に依存する。そしてそんなものは、けして一つに特定できずむしろかなり膨大な量になるはずである。質問者は記憶テストをしたいのか、というと無論違うだろう。何らかの意味で他と一線を画す〇〇について知りたいはずである。
goo辞書によれば、
感動や印象などが、のちのちまで忘れられない。「―・る名場面の数々」
というようなものらしい。
注目したいのは、対象の内容には言及していない点である。つまり、〇〇は心に残ったけど、具体的な中身は全く覚えていない、といったケースも十分にありうるということだ。けれどやはりこれでは疑問が大きい。具体的内容に比べて印象などむしろその記憶のラベルとして耐久性が強いのではないだろうか。すなわちこれだと抽出できる量が多すぎるように思う。
忘れられない、という点が重要なのだろうか。ではそれは忘れていない、という状態と何が異なるのだろう。現在記憶されているAとBについて、それを忘れることができるかどうか判別することなど可能だろうか。おそらく、ある程度は予測可能である。ただしそれは、忘れるか否かというより呼び出す機会があるか否かという予測に基づく。これは、呼び出される機会のない記憶は忘れられているに等しい、という結構乱暴な前提を持つ。
なぜそれが乱暴なのかというと、それは記憶というものの一面しか扱えていないからである。何かが記憶されるとは、その何かが対象に影響を与えるということと同義だ。例えばある店で強盗が起こったとする。そのことにより店は強盗が起こった際の対策を考え、マニュアルを増やしたとすると、たとえ店で働く者が入れ替わり、個々人が過去に起こった強盗に関して何も知らないとしてもそのマニュアルなどよる影響がある限り店にとって強盗は記憶されているといえる。そのマニュアルがのちに改定され、強盗に対する対策がおろそかになっていく状態を“記憶が薄れる”、全くなくなった状態を“忘れられた”と呼んでも良いだろう。
つまり、その個々のエピソードが語れるか否かということがすなわち記憶されているか否かであるとはいえないのだ。そのように考えると、忘れることが可能かどうかは、むしろその影響の持続性を予想することで可能であるように思われる。しかしここで問題なのは、我々はあくまでも自らの主観に則った物の見方しか出きることができず、ある事象が自らに与えた影響は自らの動きを観察することでしか測ることができないという点である。つまり〇〇に影響されましたと申告することは可能だし、それに対して誰もが納得のいくストーリーを組み立てることもできるが、実際には全く異なっていることもありうるということだ。現実的には全く異なっていることは稀だろうが、すべてが正しいという状態はほとんどありえないだろう。ストーリーは必ず理解しやすいように、あるいは理解されやすいように組み立てられる。誰かを納得させるとき、そのような改ざんは誰しも行うことであり、それは自分から自分に対して行われる時も同様であると考えるべきだ。
さて、最初の問題に立ち返る。心に残る〇〇はなんですかという質問は、言い換えると、貴方の現状をそのようにさせたらしめたものとして他人に説明すると分かりやすい〇〇はなんですか、ということになる。
・・・なるのか?まあ、なると仮定すると、つまり該当するいかなる〇〇も分かりやすいもの、記憶におけるランドマークのようなものになりがちであり、あまり面白い回答には期待できないように思う。他のものと何において一線を画しているかというと、おそらくは理解しやすさ、説明しやすさだからである。

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