2011年3月9日水曜日

いつまでどこまで

今日の信号機
GIZMODEでこんな記事を見かけた。RGS-14というタンパク質を投与されたネズミの記憶力が向上した、という内容だ。
これを読んで思い出したのは、「アルジャーノンに花束を」や「レナードの朝」。記事の中には数カ月後にとんでもないことになった、というような記実はないので当然そんなのは行き過ぎた想像だ。けれど、実際に反作用として記憶の減退などが起こらないとしても、恐ろしいという印象に変わりはない。

能力が向上するのは無条件に素晴らしいことだ、というキャンペーンはもうそろそろいいんじゃないかと思う。現代はあまりにポジティブな理想にとらわれすぎている。誰かの役に立つことや、効率的なこと、スキルアップは確かに善いことかもしれない。けれど、誰かが無理し続けなければ成立しないシステムを築き、行動を強制するために思想を支配するのは間違っている。情けは人のためならず、効率化もそれによって自らも楽になる、スキルアップもしかり、と思想に染まった人は言うだろう。しかしそんなことがありえないことは、それを言う人の疲れた顔を見れば一目瞭然だ。
無理な負担は人の心を貧しくする。心の貧しい人は汚い言葉を吐き散らかす。僕は、正直他人がどんな負担を抱えようと知ったこっちゃないが、そういう言葉を聞きたくないし、見たくない。

自分の能力というのは、当たり前のことだが、自分を生かすためにあるものである。自分が望むより良い環境や状態へ導くための力である。そして人はそれぞれ違うものを望んでいる。しかも、同一の人間でさえ時と場合によって望むものが異なる。望む環境や状態が異なれば、当然必要となる能力も違ってくる。つまり最適は存在しても、最高なんてありえない、あるいは意味が無い。逆もまたしかりである。
そして必要となる能力がその時々で異なるのだから、それを自在に切り替えられるのが最も望ましい。それを可能にすることこそが道具というものの利点である。道具は、使わないという選択肢があるということ、または調整が可能であるということが素晴らしいのである。それが忘れ去られれば、直ちに人は劣等感や無力感に襲われるだろう。上を見るなと言っているのではない。それは上ではないと言っているのである。

いつか現在の反動で、誰かが「必見!モノの忘れ方」とか「サルでもできる部屋の散らかし方」とか「非効率的仕事法10のポイント」みたいなものをレクチャーし始めるんだろうか。それはそれで違うと思うけど、今よりはマシかと思う。だけど人って選択肢が2つの場合、一つを否定したらもう一つを肯定しがちなような気もするし、やっぱ駄目か?部屋の散らかし方なら第一人者としてコメンテータも務まるレベルなんだけどなぁ。

0 件のコメント:

コメントを投稿