2009年11月30日月曜日

君を思えば血路に咲く、左胸の花となれ

 今朝、兄からメールが来て、実家で飼っていた猫が亡くなったことを知らされた。ルネという名の白猫で、太っていてノロマくせにいつも家の外に出たがって、そして時々ケンカをするのか怪我をして帰ってくることも多い猫だった。ご飯を要求するときばかり愛想が良くて、あとはいつもふてぶてしくて、バカで、ネズミ取りに引っ掛かったこともあるくらいで、だけどかわいい猫だった。とても良い猫だった。

 それで久しぶりに、生き物って死ぬんだっけって、感覚として思い出した。それは今まで会った人全員がいつかいなくなるってことだ。ついでに自分もいなくなる。それがルールだから、仕方がない。そして死んだらもうそれっきり。あの世とか来世とかを信じる信じないにかかわらず、それでおしまい。

 だから、できるだけのことをしなくてはいけない。できることがあるうちに。できることが全部すんだら、満足したら、死ぬのもいいな。生き物の強みは、死んでしまえることだし。

 けれど勝手なもので、自分に対してはそう思うものの、自分以外の生き物に対してはずっと永遠に生きていて欲しいとやっぱりどこかで思ってしまうのも事実だ。きっと死後に関する迷信も、ある程度はそんな思いで作り上げられたのだろう。

 だけどそれも無理だから、まったく文句の一つも言いたくなるって話。ああ、もう、ちくしょう。

2009年11月28日土曜日

忍び寄る12月の影は夕暮れの向こう側

 そんなこんなで土曜日。たっぷり10時間も寝てしまった。しかも就寝が4時だというからもう何も言うまいよ。

 で、夜は書店でバイト。こうして接客業をしていると、話しかけてくる客と遭遇することも多い。一言二言交わすだけなら全然問題ないけれど、やたら話しかけてくる方もいて、これが対応に困る。いったいどうするのが正解なのだろう。他の客が来たら去ってくれるのであればまだいいのだが、脇に避けて終わるのを待つ人もいたりするから、迷惑甚だしい。

 だいたい店員と客が延々と会話し続けている状況というのは、いかなる理由にせよ、他の客にとっては近づきがたい環境にしかならない。しかし、だからといって話しかける客に「迷惑だから帰れ」とも言えない。

 僕個人としてはそうした困難を避けるために、すべての話しかけてくる客に対し一律に愛想笑い程度しか返さないことにしている。だけどそれはマニュアル化されていない領域であるので、他の店員は普通に会話にのめり込んだりもする。できる限り愛想よく、という対応もあってはならないものではないし、頭から否定することはできない。

 結局そんなわけで、他の店員と客が会話し始めた場合、僕は隣で黙々と仕事をして気まずい空気を作ることくらいしか解決策が見当たらないのである。まあ、いいけどね。別に、バイトだし。

2009年11月27日金曜日

どこかのだれかから

 そんなわけで、今日もやってしまった。すなわちまた、万歩計を所持し忘れたのだ。冗談みたいだが本当のことである。しかしこの冗談みたいだがというフレーズが使われるとき、そのエピソードは大概冗談にしては面白みに欠けるものだったりする。まあそれは語り手がその冗談のようなエピソードを面白く可笑しく構築できないということが原因であることもしばしばだ。どうでも良いですね。こっちだって矛先をフレーズの使用者全体に拡散したくてテキトーに書いてるだけですし、眠いしね。

 じゃあ今日も、昨日に引き続き以前体験した微妙に怖い話を書こう。

 僕は以前、ケータイのメールアドレスをとある小説のタイトルに設定していた。確かそのアドレスに設定したのは高校2年のころだったと思う。そういうありがちなアドレスにするとよくあることだが、アドレスを変えた当初は知らない人からメールが届くことがあった。このアドレスの前の使用者が変更を通知していないのか、通知されたものを登録していないのか、それとも作品のファンによるいたずらか、いずれかだろうと思っていた。

 当然のことながら日を追うごとにその手のメールは減っていき、大学に入った頃にはそんなメールが届くこともなくなっていた。だから、そのメールが届いたとき、僕は懐かしくほほ笑ましいと感じた。

 そのメールの詳細な内容は覚えていない。ただそれは見知らぬアドレスから送信された他愛ない用件のメールだった。一人称が私であり、はしゃいだ文の書き方から送信者はおそらく女性だと思われた。また受信者に対してちゃん付けで呼んでいたことから、彼女が想定していた受信者も女性であるようだった。ここでは仮に送信者をA氏、想定されていた受信者をB氏とする。

 確か、その日は休日で、僕は友人宅にいた。メールは、A氏がその日B氏とどこかへ出かけたことに対する感想のようなものだった。内容的には親しげに感じられたが、その日初めてアドレスを聞いて、打ち間違えでもしたのだろうか。あるいは当時あったような(今もあるかどうかは知らないが)、送信ミスを装ったスパムだろうか。

 もし、その日メールを一人きりで見たのだったら、僕はおそらく以前していたように間違いを指摘するだけだっただろう。けれどその日は友人といたため少し悪ふざけが過ぎた。B氏になり切って返信してみよう。どちらから言い出したのかそんな馬鹿げたことをすることになった。

 いずれにせよ後日B氏によって間違いは修正されるだろう、もしスパムだったとしてもそれ以降無視すればいいだけだ、自らの悪ふざけを肯定するためか僕はそんなふうに考えていた。けれどA氏からのメールは次の日もその次の日も来た。スパムにありがちな、わざとらしい間違いの気付きもなかった。

 偶然か知らないけれど、A氏からのメールはいつもただ一度同意すればすむようなものばかりだったから、僕はいい加減な返信をし続けた。今更間違いを指摘するのは後ろめたかったし、その時もまだB氏が指摘することを期待していたからだ。

 そして週末になって、A氏からまたメールが来た。B氏を遊びに誘う内容だった。流石にこれに返信するわけにはいかないだろう。そう思った。肯定も否定もできない。正直に言えばその時にはもうすっかりA氏に返信をすることにも飽きていた。だから僕は、そのメールを無視することにした。それでA氏から返信を要求するようなメールが来たら、今日アドレスを変えたばかりだとか偽って彼女の間違いを指摘すればいい。そんな都合の良い防御策を考えながら、しかし週末は過ぎていった。

 彼女からのメールはそこで途絶えた。きっとようやくB氏から本物のアドレスを教えてもらったのだろう。そして僕はそんな出来事を次第に忘れていった。


 再びA氏からのメールが届いたのは半年ほど経った頃だったろうか。彼女は前と同じように、B氏に対して語りかけていた。そのメールには“久しぶりだね”というような言葉もなく、さも昨日から続いていたような日常性が感じられた。僕には意味がわからなかった。どういったバックストーリーがこの状況を作り上げているというのか。異常なのは誰だ。

 その後も時々、A氏からメールは届いた。僕は少しの好奇心と罪悪感から受信拒否の設定にはしなかった。A氏はメールを無視されても決してそれを非難することはしなかったし、それどころか、そんな事実はないかのように努めて明るいメールを送ってきていた。


 今はもう、僕はそのアドレスを使っていないから、A氏がどうなったのかはわからない。けれど、そのアドレスは最初に書いたように小説のタイトルからとったもので、その作品は後に映画にもなったから、きっと今も誰かが使っているだろう。願わくば、A氏の誤りが指摘されることのないように、なぜだか僕はそのように今も思っている。

2009年11月26日木曜日

上天からの音

 違うんですよ。

 誰だって忘れ物ぐらいするじゃないですか。あまつさえ二日連続で忘れてしまうことだって、十分あり得ることですよ。いいですか。所持されるべきものの状態は所持されているか所持し忘れているかのいずれかです。このうち所持し忘れている選択肢は2分の1です。これが二日連続で起きる確率は4分の1、つまり4日に1日は何かしらの所持すべきものを2日連続で忘れている可能性が非常に高いのです。財布とかケータイとか向上心とか道徳とか、他にも友人上司恋人の名前だって忘れていたっておかしくはない。おかしくないんです。


 そんなわけで2日間ほど万歩計の数値が0になってしまった。しかし、しめたとばかりにサボり続けてしまっては確実に面倒だったら所持しないという習慣が確立されてしまいそうだ。従ってテキトーに何かを書いて今日のブログを埋めてみる。


 そういえば今日もバイトだったのだが、少し怖いことがあった。

 いつものように客はまばらで、店内には何年も前からありそうな今どきの邦楽が流れていた。店長もいなくなったことだし、そろそろチャンネルを変えようかと思ったときその客は来た。40代後半と思しきその男性はレジに雑誌を差し出した。見たことのない顔ではない。特に格好が汚いわけでもなければ顔や体格にもこれといって特徴のない普通の客だ。会計を済ませるとその客は、天井を指さし僕に尋ねた。

 「これは、有線ですか?」

 僕は一瞬固まってしまったが、何とか笑顔で頷いた。客は納得したように頷き返すと、そそくさと店内から出ていった。


 出来事としてはこれだけである。普通に考えれば、流れていた音楽が気に入ったかあるいは気に入らなかった、といったところで済ませてしまえるものだろう。けれどそれは、この質問が初めてであった場合だ。しかし、実際にはこれで3回目だった。なんの特徴もないこの客を物覚えの悪い僕が記憶していたのもそのせいである。

 以前質問されたとき流れていた音楽と今回のものは明らかに趣味の違うものだった。それも3回とも全く違う。

 どういうことだろう。

 単純にこの男性客が世間話のバリエーションがこれ以外にはないということだろうか。しかしそこまで彼にとって定番なら、そこから広げる話を振ってこないのはなぜだ。第一、彼がコミュニケーションを求めているようには見えない。件の質問も仕方なくしている印象が強い。

 では、その客が仕方なくその質問をしていると仮定する。彼は何らかの理由からその質問をしなければならないということだ。ならば、その理由とは何だろう。彼は「これは、有線ですか」と聞いた。そして、有線ですという僕の返答におそらく納得して帰っていった。ではもし、いいえと返されていたら彼はどんな反応を示しただろう。

 流れている音楽が有線ではない場合。そしてこの客が音楽自体には興味がないとする場合。客の質問を保管するならこのようになるのではないか。すなわち、

 「これは、有線ですか。それとも私の幻聴ですか」


 もちろん勝手で無礼な想像にすぎない。けれど、そういうこともあるかもしれないな、と有線のチャンネルを変えながら思ったわけである。

2009年11月24日火曜日

変換してみる

 例えば立ち読み客ばかりの書店に、突然ショッカーが現れる。奴らは唖然とする客たちを余所に奇声を上げながらしばらく店内を跳ね回る。そして笑い出した一人の子供に目をつけると、三人で取り囲みソフトタッチ。子供は泣き出しはしないものの、歪んだ笑顔のまま固まってしまった。ショッカーたちはそれを見てアイコンタクトを交わす。そして子供を抱きかかえた。客たちは事態を飲み込めないまま立ち尽くしている。相変わらず店内に流れ続ける安物のラブソングがいかにも滑稽だった。

 いったいどうするつもりだろうとレジ越しに眺めていると、彼らは逃走するでもなく子供を抱えたまま店内を跳ね回り続けた。誰か通報しろよ、と思い客たちの顔を見回す。彼らは皆不安そうな顔を浮かべながら、しかし睨むようにこちらを見ている。

 跳ね回るショッカーの一人がこちらに近づいてきて、突然カウンターを小さく叩いた。そして僕に対して何かを促すようにあごを突き出す。やれ、お前の番だ、ということらしい。店内にいる大人全員の意向のようだ。どうやら拒否権はないらしい。

 「あー、お客様の中に仮面ライダーはいませんか」


 そんな妄想を繰り広げて時間を潰すことがたまにある。自家製人力ARだ。今回の設定ではこの後名乗り出たライダーとショッカーがわざとらしい殺陣を演じてショッカーは殲滅(といっても店から出るだけ)、そして親玉の怪人が登場しライダーはピンチ、そこに助けに来たウルトラマン、わかってるぜ兄弟的な大仰な頷きあいを見せた後で怪人フルボッコ、退場する怪人を横目に握手会開始、以上のようなプログラムになっている。バイト中どれほど暇なのかがご理解いただけると思う。

 しかしこういった無理やりの妄想は、現実にすり合わせる過程で笑うどころか全力での思考へ移行してしまうことも間々ある。その上現代社会においては、もっと手軽に平易に分かりやすく、しかし拡張性を十分備えて、という要素が多く求められている。従って以下のような妄想による暇つぶしを提案する。



 一昔前のヒーローは一般に○○マンという形が多かった。この妄想は、そのヒーローの“マン”を“さん”に置き換えることによって一気に胡散臭くしてみる遊びだ。

 【ウルトラマン → ウルトラさん】

 ウルトラさんはきっと冴えない中年の男性で、ややでしゃばり。本質的には真面目なので、二十年前先輩に職場の空気作りは大事だと言われて以来そのことに少なからぬ使命感を感じている。が、実際には彼が頑張れば頑張るほど部下たちの表情は硬直していくという、ありがちな善意の悪人。口癖は“ウルトラ”。一応若者に合わせているつもりだから、もう周囲は笑うしかない。

 【アンパンマン → アンパンさん】

 ここで言われているアンパンとはつまりシンナーの俗語である。アンパンさんはどうやらいつも夢を見ているようで、右に左に揺れながら寂れた裏通りを歩いていく。アンパンさんの過去を知る者はこの街にはいない。誰も彼に近づかない。誰も彼を見ようとはしない。でもきっと彼の目もこの世界を見ていないのだからおあいこだ。アンパンさんは夜に歌う。歌声だけが街に響く。夜、アンパンさんを見たことのある人はいない。けれど誰もがその歌声の主をアンパンさんと知っている。つまりそれが、この街におけるアンパンさんの機能だ。


 まあだいたいこんな感じ。他にも【スーパーさん】とか【スパイダーさん】とか【ロックさん】とかいろいろ展開できるので、暇だったら試してみるといいだろう。ちなみに、妄想しすぎて表情が緩むと変人と思われるので、そう思われたい人や既にそう思われている人以外は注意が必要だ。

2009年11月21日土曜日

午後からつけた万歩計は私をそっと黙らせる

 【伊集院光のでぃーぶいでぃー箱庭カウンセリングの巻】を観る。出演者の心の闇を箱庭療法により白日の下に晒すという氏ならではの素晴らしい企画をDVD化したもの。いや、目茶苦茶面白い。それと同時に目茶苦茶怖い。このバランスが流石というか、編集とか大変だったろうと思うところ。

 というかDVD観ながら記事を書こうと思っていたけどDVDの方に意識がいってしまって全然ダメだ。まあ、ながら作業を許さないほど面白いということで。

 ところで、先日の某試験で小論文を書いたのだけど、これが全然ダメだった。展開もまとめ方も無茶苦茶で、読むのが大変だろうと思われる。採点の方、ごめんなさい。それで感じたのがパソコンって本当に便利だということと(ワープロでも可)、慣れって恐ろしいということ。あと、この試験を設定した奴はバカだろうということは、言うと角が立つので、思わなかったことにする。全然思わなかった。

2009年11月18日水曜日

フレンド・オポチュニティ

 今日は大変良い天気だったけれど、そんなものと関係なく面接試験の期日が迫っている。受かる可能性はゼロに等しいが、一応失礼に当たらない程度には予習的なことはしておくべきだろう。面倒ではあるが、言ってしまえば僕もあちらもある種の被害者である以上、譲り合いの精神が3番目くらいに大事だ。


 そんなわけで今日は映画館へ行ってきた。しかし残念なことに興味が引かれるような作品は上映していないかった。唯一マイケルジャクソンのドキュメンタリーに若干心が動いたが、そもそも僕は彼が死んだ後でWikipediaの記事を見て感心した程度だ。そんなにわかファンにも満たない状態で観るのはどうかと思ったので、鑑賞を見送った。


 だがこんなことでは面接官に軽蔑されても仕方ないというもの。かわりとしてCDを買って帰ることにした。これで十全というわけではないが、帯に短したすきに長し、だったらそれで段ボールを結べばきちんとゴミの日に出せるわけである。別にCDを買ったら紐がついてきたということではないが、だいたいそんな感じだ。


 あとは脳内でシミュレートしておけば完璧。

 「貴方の志望動機を教えてください」

 「お金以外にありませんが、とりあえず10万円ほど補助してください」

 「わかりました。貴方の長所、短所を教えてください」

 「長所はありません。短所は枚挙にいとまがありません。もう10万円いただいてもよろしいでしょうか」

 「わかりました。採用して欲しいですか」

 「どっちでもいいですけど、毎月20万円振り込んでください」

 「わかりました。ありがとうございました」

 「ありがとうございました」

 ほら、もう、完璧。心臓が痛いくらい。

2009年11月17日火曜日

今日は休憩

 森博嗣先生の【εに誓って】と【自由をつくる 自在に生きる】を読まねばならないので、今日はサボります。
 ちなみに今日は9000歩程度歩いたみたいです。以上。

2009年11月16日月曜日

歩きすぎだよパトラッシュ

 今日は兄に夕食をおごってもらった。兄と会うのはひと月ぶりだろうか。実は僕と彼とは血が繋がっていない。彼と最初に会ったのは、僕が小学2年生のときだった。今だから書くが、僕は当時彼が苦手だった。小学生ながらに眼鏡をかけた顔は不気味に見えたし、彼は左利きで、向かいあってご飯を食べるとそれだけで気持ち悪くなった。

 冷静になって考えれば、そんな理由なんてただの当てつけで、当時のやり切れない感情のすべてを兄に向ける事で処理していたのだろう。彼は僕に比べてずっと大人だったから、そんな理不尽な敵意を受け流し、いつも笑って歩み寄ってくれていた。

 こう書くとわが家がいわゆる複雑な環境であるように受け取られてしまうかもしれない。しかし実際はそうでもないのだ。一般的な家庭が形成されるのは、婚姻と血縁というルールに従っての事である。それに対してわが家では少し一般的ではないルールの下に家庭が形成されたという、ただそれだけの事だ。いわゆる複雑な環境である家庭における複雑さとは、ルールが歪む事によって生じているけれど、言ってしまえばわが家では最初から歪んだルールが適用されていて、それが変化したことはないのである。

 わが家において血縁者は存在しない。それどころか、笑ってしまうけれど、全員人種さえ違っている。一応全員日本人らしく見えるが、日本人の血は確か父が4分の1程度受け継いでいるだけだったと思う。

 わが家を組み立てたルールを設定したのはどこぞのなんとかという大学の教授だ。今もその人が教授をしているのか、あるいは存命なのか僕は知らない。ルールについて詳しいことを僕は何も知らされていない。本当のところ、どんなルールであるかさえわからない。でもとりあえず、そんなことは大したことがないというか、それを絶対に解明し打破しなければ生きていけない、なんて不自由に陥ることなく生活できている。一般家庭で育ってきた方々はそれはおかしい、何とかすべきだ、とお思いになるかもしれないが、では全人類が哲学に没頭するかというと全然そうなっていない。身体が不自由な人たちが医療関係を絶対に志すわけでもない。つまり僕も、普通の人と同じで、どのようなルールを与えられていようともゲームが滞りなく進むなら別段気にかけたりしない、ただそれだけのことなのだ。

 ただ一応、こんな環境を与えられたのはなぜなのか、考えることはある。子供のうちは父か母のせいなのだと思っていた。けれど大人になるにつれてそんなはずはないことに気付いた。人種やある身体的特徴を除けば、父も母も普通の人である。それは社会的に見てもそうで、彼らがこのようなことをし出したとは考えづらい。行き着くのは、一般的な家庭形成のルールを設定している人たち、政府だとかそんなところ。きっとわが家は何か、新しい何かのモデルケースなのだろう。

 現在の社会において、伝統的価値は形骸化しつつあり、過去において無理やりに機能が局所化していたものが開放されつつある。例えば、教師は生徒に学問を教え、常識を与え、メンタルをケアし、生徒同士の関係を調和する、という超人的な振る舞いが過去においては求められていた。しかしこれにはどうしたって無理が生じる。そのため分業が行われたのだが、結果として総合職としての教師の役割は薄まりつつあり、ポジションを明確にしないならば、何十年後の社会では存在しない職業となっている可能性もある。

 もし、そのような合理的な社会が出来上がるとするならば、家庭というものが現行のルールに従って形成されるべきだという常識は果たして保たれ続けるだろうか。すなわちわが家は、その常識が崩れたときに新たに形成されうるルールに則って造られたのではないか、と最近では考えている。


 という嘘を並び立ててようやく今日の制限字数の半分に到達した。あと半分を書き終える頃にはきっと日が昇り、僕の睡眠は失われるだろう。なんてこったい。

 ああ、そうそう、兄と一緒に夕飯を食べたのは本当のことです。きりたんぽを奢ってもらいました。目茶苦茶うまかった。

 え?兄ですか?血が繋がっていることは明らかすぎる程度に顔や声は類似してますよ。並べてみると2倍気持ち悪いんじゃないでしょうか。ってうるさい。

 あとは別に、取り立てて特筆すべきようなことって何もなかったのですけれども、そういえば実は僕、某組織に就業すべく受験ってヤツを受けさせられている(ここ重要)んですが、トラブルが起きまして。

 というのも、一応一次試験的なものは通過したらしいのですけど、二次試験を受けるために必要な書類が期限までに提出できそうにないという、ね。

 原因は明らかに僕の怠惰にあるんですが、どうしましょうね。蹴りましょうか、蹴っちゃいましょうか?奈落の底まで落ちますよ、僕が。


 こういうミスは初めてのことではないので、意外と内心は落ち着いています。前にも、授業料の半分が免除されるための手続きをうっかり忘れてしまい、何十万か損しちゃってますからね。マジで。

 当時はへこみましたけど、その後多くのミスを重ねるにつれて、即座に「まあいいか」と思い込めるようになりました。

 街中で、ものすごいぼろぼろの車を見かけることが稀にあるじゃないですか。サイドミラーをガムテープで補強してあるようなヤツ。ああいう車も、きっと最初は修理に出したりしていたと思うんです。しかしあまりにもキリがないので、あのままになる。ああいう車を普通の人は見窄らしいと感じるのかもしれませんが、僕からしたらあれは悟りカーと呼んでも良い、別次元に格好良い車だと思います。それに普通の小奇麗な車より実は強度が高かったりするのです。普通の車にひっかき傷をつけたりしたら、がっかりしますね?でも悟りカーは、むしろ所有者に傷を気付かせないことだってありうると思います。また、車とは性質上常に一定の危険を孕んだ機械です。大きな事故に遭えば一瞬で全機能を失います。仮に、一般車と悟りカーが衝突したとして、その事故による犠牲者がいなかったとしましょう。では、生き残ったドライバーのどちらがより喪失感を与えられたか。考えるまでもないでしょう。

 つまりその悟りカーを人に当てはめてみて、そういう人になりたくてなったのが僕というわけですか?なんか書いてて落ち込みそうになったので、慌ててクエスチョン回避を試みてみました。危ない危ない。


 もうなんか話が収集つかなくなってきたというか、始めから何を書いているのか無自覚にキーボードを叩いているのでわけがわからなくなってきました。眠いし。

 それでもまだ叩き続けるしかないのです。という感じで、自分ルールに縛られて生活が危うくなるということを繰り返すのは結構まずいので、普通の人にはお勧めしません。自分ルールって楽しいですけどね。道路の白線だけ踏んで歩いたり。一日一言も喋らないマシンになり切ってみたり。いや、僕はそんなことはしないですよ、念のため。本当に、もう十年近くやってないと断言できます。


 そんなわけで、ようやくそろそろ駄文も終わる。結局今回の日記で何が言いたかったのかといえば、くだらないルールでこんな苦行を押し付けた過去の自分は今すぐ猛省して寝ろということだ。

2009年11月15日日曜日

トヘロスの如き旋律で

 ここはどこだろう、と思った。

 日常を平坦と思わせしめるのは脳の学習機能による。脳は正常に働いている限り、情報を最適に処理するように整理していく。例えば記号化なんかが良い例だ。状況や対象に逐一全力で情報の収集、計算、一からの予測を行うのではとても生きてはいけない。だから脳はある一定の物事をひと括りにして処理を飛ばす。

 逆説的に、この脳の働きによって人は異質なものと対面し、そして愕然とする。

 そう、愕然とした。そして、ここはどこだろうと僕は辺りを見回した。

 何の変哲もない、いつものバイト先の書店である。ただ、天井から流れてくる音楽が異様である事を除いては。

 やけにこもった、多分70年代の歌謡曲。

 ここは昭和か!!


 どうやら有線を設定し直したらしい。犯人はパートのおばさんだろう。店で最年長である彼女は、強い権力を持っている。こういうおばさんが小売店などで権力を持つ事は日本において散見される事象であり、それには一応利点もあるので、そのこと自体を今更糾弾するつもりはない。問題は、如何にして店内に満たされた異様さを取り除くかという事だ。この事は僕の全脳細胞が悲鳴を上げている以上、速やかに解決されねばならない。

 「あの」僕はおばさんに話しかけた。「有線変えました?」

 「うん、すごく懐かしい感じでしょ。やっぱりいいなぁ」

 やばいやばいやばい。このチャンネルをものすごく気に入っていらっしゃる。ここはきっぱりと意見すべきだ。

 しかし僕は反射的に「そうですね」と微笑みのようなものを浮かべて答えていた。

 …違うんだ。だってここで正直に「糞みたいな音垂れ流してたら客がいづらいわボケ」とか言ってしまったら、気まずいじゃないか。ああ、そうですよ、へたれですよ。はいはいうんこです、ぷりぷり。


 自分がへたれである事を考慮すると、このおばさんが決定したチャンネルを無理やり変えるのは難しい。ならば、この状況を肯定的に捉えてみよう。

 確かにこの糞音は若者には受けないだろう。けれど来店する若者の6割程度はイヤホンなどを付けているのである。つまり自分用の音を鳴らしているというわけだ。では店側が用意すべきは音を自前で用意しない層に対するものであってしかるべきである。

 また、この店にも喧しい若者の集団というのは来る。彼らに対してこの糞音は凄くいづらい雰囲気を提供し、結果暗黙のうちに追い出す事が可能となる。

 

 なんだ、良いことずくめじゃないか。高々店員の2分の1が瀕死の頭痛を患うだけでこれだけの恩恵を授かれるなんて、すばらしい。

 …ふざけんな!!


 結局、蛍の光を流すまで延々と歌謡曲は流れていましたとさ。

2009年11月14日土曜日

木枯らしの季節に部屋を掃除するといふこと

 人は掃除をするために生くるにあらず、されど掃除する事なければ人の生に活路無し。

 ようするに、部屋が汚すぎるので整理しようってそれだけの話。しかしtwitterに画像のURL載せたけれど、ひどいね、まったく。こんなのホームレスとの違いは外壁だけといっても過言ではない。と思ったけれど、どうなんだろう。きれい好きのホームレスとかってやっぱりわずかにいるんだろうか。いや、主観的にはきれい好きであっても客観的には結局ホームレスだし。そこには限度があって、言ってしまえばその奇麗さたるや自己満足に過ぎないだろう。いやいや、そもそも奇麗かどうかという事自体が主観なんだし、じゃあ一般にきれい好きと呼ばれる人々が細菌レベルにまで気を使っているのかというとそんなこともあまりないだろう。

 と思いついた事を一から十まで書いていくと誰にとっても価値の無い駄文が生まれますよと仰りたいかもしれないが、こっちだって本当は百も千も書きたいところを十までで止めているのかもしれないじゃないですか。じゃ、おあいこってことでどうでしょうかと提案したあたりでもう字数限度の3分の2くらい埋めてしまっているのだから縛り日記は恐ろしい。その抑圧加減といえば戦前の日本や中学男子のアレな感じと肩を並べるほどだ。

 ともかく、掃除。掃除って賽の河原の作業に似ていると思う。過去の自分が崩した石の塔を現在の自分が積み上げる。そしてやがて未来の自分がやってきて、無情にも塔は崩されてしまうのだ。

 まあ、基本的に僕はこの世のあらゆる行為に対して、賽の河原と似ているとか言い出すから聞き流すのが良いけど。

2009年11月13日金曜日

呆れるほどの十一月の理不尽と共に

 月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なりね。と書き出してみたが別に旅に出る気はない。というより出られるんならもうどこへでも行っとるわボケクズカスと足りない語彙を出血しながら大放出してもよいとさえ思っている。
 とどうでも良い事を書いていたらあっという間に時間も残り文字数も無くなってしまうよね。いやはや。恐ろしいよね、現実って。
 そうではなく今日病院へ行ってきたら驚き戦慄きつつも猛烈に腹が立ったという話をしたいわけですよ僕は。ところで今何文字?とカウンタさんに伺ったら238文字だという。ご冗談を。じゃあなんですか、このやり切れない垂れ流し状態の怒りをたった372文字で書き綴れという事ですか。え?あと305文字?減ってる…。みなさん、つまりこれが生きるという事です。合掌。

 ともかく病院へ行ってきた。身体検査のためだ。X線を照射されたり病人と空気を共有したりという暴露実験の如きものだったけれど、その程度の本末転倒には別に怒っていない。僕を怒らせたのは、この大した事のない検査の価格だ。
 6500円。
 僕はあの黒髪の眼鏡をかけた可愛らしい事務員の女性に6500円を請求されたのだ。
 冗談じゃない!別に青いキラキラした液体を注入してもらったわけでも、怪人納豆ワニ男に改造されたわけでもない。それなのに…。
 だから僕は彼女に言った。「お金下ろしてきていいですか」
 彼女は微笑み頷いた。
 その節はお世話になりました。