2011年10月13日木曜日

ノスタルジア



 意識が芽生えた瞬間から、すでに土の中にいた。何も見えず、何も聞こえず、手足も動かせず、けれどそれが普通であることを知っていたので、心も静かだった。
 「誰かいる?」
 呼びかけると、声は意外と近くから返ってきた。
 「いるよ」
 「どこ?」
 「こっち」
 「こっちじゃ、わからないよ」
 すると声の主はかすかに笑った。
 「きっと目の前に木の根があるでしょう?たぶんその向かい側だと思う」
 「たぶん?」
 「だって見えないから。確かめられないわ」
 「見えない?君も?」
 「そうよ。だってきっと私たち同じ生き物だもの。でなきゃ言葉なんて通じない」
 彼女の推測を確かめようと、何とか前方に顔を動かした。口に当たった感触が確かに木の根だとわかった。
 「本当だ。目の前に、木の根、あったよ。でも、なんでわかるんだろう?」
 「必要なことは、私たち、みんな知っているの。生まれるってそういうことよ。準備ができたからこうして生まれて、生きている。君も私も」
 「それ変だよ。だって、そんなの僕は知らなかった」
 すると再び彼女の笑い声。僕は心が縮こまるのを感じた。
 「私もそう。知らなかった。でも教えてもらったの。君と同じように」
 「誰か他にここにいたの?」
 「うん。でも教えてくれたらさっさとどこかへ行っちゃったけど」
 「君もどこかへ行ってしまう?」
 「行かないよ。だって私、君よりほんの少し先に目を覚ましただけだもの」
 「じゃあ、僕も、どこへも行かない・・・。ずっと一緒にいてくれる?」
 「うん、きっとずっと一緒だね」


 それから彼女はいろんなことを教えてくれた。目の前の木の根から樹液が吸えること。他の生き物の振動が聞こえたら静かにしなければならないこと。
 そして長い月日を二匹で過ごした。春も夏も秋も冬も。幾度の季節が巡っても僕達は一緒だった。
 けれどある夏の日、別れのときが来た。それは生まれたときから決められていたことで、僕らはもちろんこの日が来ることをずっと前から知っていた。
 「絶対探してみせるから」
 「うん」
 「だから・・・、いってらっしゃい」
 「うん、行ってきます」
 言葉を飲み込んだ不甲斐ない僕を、いつもの様に彼女は笑い、そして地表に出ていった。


 彼女が去ってからの一日は、一年よりもずっと長かった。僕がどんなに願っても、身体はまだそのときではないと、上へ行くことを許さなかった。未発達のせいで脱皮がままならずそのまま朽ちても構わないと思っても、手足が自由になることはなかった。
 そしていよいよ僕にもそのときがきた。あの日から、ちょうどひと月経った頃だった。
 初めて目にする外界のことなんてどうでも良かった。微かに聞こえる同胞の声も、慣れない飛行を邪魔する風も、睨みつける鳥の目も無視して、僕は飛び続けた。


 上にきて二日目。その死骸を見た瞬間に、それが彼女だと僕にはわかった。彼女は、知らない個体と繋がったまま、干からびていた。
 幸せだったろうか。僕にはわからない。干からびた彼女の身体も、何も答えてくれない。
 僕は何かを失ったのだとようやく思い知らされた。彼女がすでに生きていないことなんて、ここに上がる前からわかっていたのだから、失うものなんて何も無いはずなのに。


 僕はそれからわがままを言うのを辞めて、全部身体の好きなようにさせた。自分が喧しく鳴くのを聞きながら、もう鳴く必要なんてないのにと思った。だって彼女はもういないのだから。
 それでも身体は、朽ちるまでぼくを鳴かせ続けるのだった。

2011年10月6日木曜日

林檎が落ちた

 僕がスティーブ・ジョブズに感謝しなければならないことは3つある。

 1つめは、優れた才能を持つ沢山の人々に、その才能を遺憾なく発揮できる道具を与えてくれたことだ。おかげで本当に多くの素晴らしい作品を今まで堪能することができた。特に森博嗣先生の小説に出会えたことは感謝してもしきれない。
 もしジョブズがAppleを設立していなくても、他のユニークな才能が同じようなものを創り普及させたかもしれない。でもそれにはきっと、もっとずっと長い時間が必要になっただろう。逆に言うと、ジョブズのおかげで僕達はずいぶん遠くの未来まで見せてもらえたと考えることもできる。人生は短い。だからタイミングは非常に重要だ。僕に影響を与えてくれた数々の作品に最良のタイミングで出会えたのは、本をたどればジョブズのおかげである、ということが多々あった。おそらくこれからもそんな経験をいくつもするだろう。だから、ありがとう。

 2つめは、道具に憧れを抱かせ、そしてその期待を裏切らないでくれるというプロセスを経験させてくれたことだ。僕の尊敬する多くの人がMacの素晴らしさを語っていた。幼かった僕はMacさえ手に入れれば自分も彼らと同じように素晴らしい物を創り出せると単純に信じ、いつか手に入れようと心に誓っていた。そして漠然と創りあげたいものを思い描いて楽しんでいた。大学に入り、アルバイトをして、ようやく手に入れたMacはたしかに素晴らしかった。けれど思い描いていたものなんてちっとも創れなかった。それは自分に技量も発想も根気も何もかも欠けていたからだ。
 Macがあれば魔法のように何でも生み出せると僕は思っていた。Macを手に入れてわかったことは、魔法を使うには色々と必要なものがあるということだ。Macがもし素晴らしい道具でなければ、僕は自分がダメな理由をMacに押し付けて逃避することもできただろう。でもそんなことはけして許されない。だから僕は現実を渋々直視する。Macを手に入れる前思い描いていた素晴らしい物を自ら創り出せるようになるまで。

 3つめは、人間はこんなふうにも生きられるという見本を見せてくれたことだ。僕はまだジョブズの半分も生きていないけれど、同じ時代に生き、その強い思想、強い意志をリアルタイムに感じることができたことに感謝する。それを感じることができたのもジョブズが創ったMacを通してなのだから面白い。本当にありがとうございました。


 ワンモアシング!
 iPhone4Sがfor Steveではないか、という意見を見たとき、背筋が寒くなった。もしそれを発案したのがジョブズ自身だったら凄まじすぎる。さすがにそれはないとしても、少なくともそれにゴーサインを出した彼の意思を継ぐ人たちがいるということだ。そう考えると、まだ当分未来は明るいんじゃないかと思うのだ。

2011年10月2日日曜日

誤謬

 シャッター街の中を急ぎ足で歩く。バスの発車時刻まであと20分。乗り遅れたら次はない。それほど大した距離でもないし、速度も言うほどではないのに、少し息が切れる。学生時代に比べてずいぶん体力が衰えたものだ。ここまで自転車で毎日通っていたなんて信じられない。記憶が一瞬風の様に心をくすぐって、かすかに笑ってしまう。
 バス停を一つ二つと通り過ぎて、記録に挑戦しているつもりはないけれど、歩けるところまで歩く。ついに発車時刻との差が5分を切って、コンビニ前のバス停に立ち止まった。もうひとつ歩けば運賃が60円安くなるけれど、そうやって何度も泣きを見た経験がこれ以上を許さなかった。
 西を見ると太陽の最後の抵抗が雲をかすかに染めていた。いつの間にかずいぶん日が短くなった。ついこの間まで夏だったのに。まあ、そのちょっと前は冬で、その先なんて色が見えないほどぼやけている。ずいぶん遠くへ来たのだな、と感じる。自分はあとどれくらい行けるのだろう。
 車の音に振り返ると、バスの扉が開いた。


 車内はいつも通り運転手と自分だけだった。いつもと同じように最後尾のシートに座る。目の前の背もたれには真新しい相合傘が彫られていた。きっと容易に消すことはできないだろう。よく見ると背もたれはところどころ塗料を塗りつけた形跡がある。これも同じように、上から塗料を被せられることになるだろう。しかし、考えてみるとそれはこの落書きの保護としても捉えられる。すると稚拙でどうしようもない子供らの感情が、ここに地層を形成しているわけだ。報われるといいな、と素直に思う。
 「お客さん」急に運転手がマイクで話しかけてきた。「どこまで乗っていかれますか」
 客が一人だから必要以外の降車場所のアナウンスを省きたいのだろう。いつもはこんなことを聞かれることもなく、勝手に目的地で停車してくれるのだが。どうやらいつもとは担当者が違うらしい。今日だけなのか、今後ずっとなのか。いつもの人は、そういえばもう引退してもおかしくない歳のように思えるが。
 そんなことを考えながら、しかし簡潔に行き先だけを答えた。運転手もそれ以外何も言わなかった。


 バスから降りると、風が少し寒いくらいだった。ポケットに手を入れて、すっかり暗くなった道を歩く。外灯以外、家の明かりさえない。昔はこの暗闇がとても怖かった。木々の擦れる音も、小川のせせらぎも恐ろしい物を潜ませているような気がして。けれど今はこの音がとても落ち着く。この暗闇にとても安らぐ。今日の晩御飯は何だろう。秋刀魚なんかが食べたいところだが。
 コンクリートの小さな橋を渡り、少しだけ坂を登って、T字路を左に曲ってーー、けれど我が家の明かりは見えなかった。出かけているのだろうか。けれど心臓の激しい音がそんな安易な解答を打ち消す。しかしあくまでもゆっくりと歩を進め、家の前で立ち止まった。否、家があるはずの場所の前で。


 その一角には、ただ闇が沈殿しているだけだった。家があった形跡さえない。


 そうだ。ここに家なんてない。どうしてそんな思い込みをしていたのだろう。


 歩いているうちに錯覚していたのだ。帰りさえすれば家にたどり着くのだと。


 でもそんなもの、ただ妄想。帰る家はここにない。そんなものどこにもない。


 では、どこへ行けばいいのか。家のない私は、どこへ帰ればいいのだろうか。


 しばらくした後、私は再び歩き始める。


 帰り道をゆっくりと。


 けれど辿り着かない。


 だから歩く。


 いつまでも。


 どこまでも。

終わりの季節

いつか必ず、終りが来る。いずれ言おうと思っていた言葉、そのいずれがいつか途絶える。言えなかった言葉になる。なった。なってしまった。
その日が来ることの想像はしていた。何度も何度も。でも、そうではない妄想も同じくらいたくさんしていた。もう実現することのない未来になってしまった。

けれどもし、時を戻せたとしても、きっと僕は何も言わないだろう。後悔なんてない。でも他のものも何一つない。全部なくなった。空白。

その空白に何があったっけ。

僕は大人だから、大人の理屈をたくさん持っている。大人の理屈は便利で、心にもない言葉をいくらでも吐き出してくれる。僕から切り離された理屈で僕を動かしてくれる。おめでとうと僕は言える。何もない心なのに。

これはひとつの終わり。今までのすべての終わり。
どうしてこんなに儚いものを、なくなったら他の全部が壊れてしまうような場所に置いていたんだろう。
いや、そうじゃない。他になかったんだ。それ以外になかったんだ。あるいは、それがあったから組み上げることができていたんだ。

明日から、また生き始めよう。今はそれがどんなものか想像できないけれど、一から組み上げていこう。かなわない願いが今日のうちにすっかり綺麗に消えてしまいますように。祈りながら眠ろう。

2011年9月5日月曜日

それは言わないお約束

 「いつも遅刻してくる人がいる」という愚痴をこの間、他部署の人から聞いた。その部署は二人体制のため常にその人のみに負担がいってしまう。上司に直訴してはどうか、と僕が言うと、それは以前試みたものの解決に至らなかったらしい。
 問題の人の主張によると「タイムカードはいつも時間内で切っているから問題ない」ということだそうだ。つまり業務時間前に準備を万全にするという常識には背くが、業務の規定には反していない。
 面倒なことにその問題の人は色々とバックボーンが付いているので、その主張が認められ事実上お咎めなしということになったそうだ。

 現在日本の社会を支えているのは法律・規則などの公的なお約束と、慣習・道徳などの私的なお約束だとしてみる。上の問題の人は私的なお約束は破っているが、公的なお約束は破っておらず、そのため不問となった。このような態度は現在あらゆるところで散見される。そしておそらく今後もある時点まで増え続けると予想される。
 彼らの主張自体は間違っているものではない。しかし、私的なお約束を全て撤廃してしまえばこの社会が成り立たないというのも事実である。もし後者が廃れ続ければ社会は自己を保存するため、公的なお約束を強固なものにせざるを得ないだろう。件の漫画の都条例なんかもその一例だと思う。

 ではなぜ私的なお約束が廃れていくのか。おそらく、貧しさ・余裕のなさが最も大きな原因だろう。 それを守ることにより得られる利益が、そうでない場合を上回るからである。しかし、実際それを破ることで利益が得られるのは、現在の二重のお約束構造が保たれている限りにおいてであり、殆どの場合私的なお約束を守る人間が不利益を被ることによって生じているのである。この状況下において、多くの人が私的なお約束を守り続けるというのは難しいだろう。このとき私的なお約束が加速度的に崩壊していく仕組みが出来上がる。

 このような段階に至ったなら、二重のお約束構造は不利益のなすりつけ合いを生むだけであり、むしろそんなものは無いほうが良いとするのも妥当だろう。しかしそもそもなぜ二重のお約束構造などというものが出来上がったのか、そうでなくなった場合なにが失われるのかについては考えておくべきである。

 公的なお約束に一本化した場合、不利益を被る人が多く出る。なぜなら、公的なお約束のみで全てのケースに対応することなど不可能だからだ。その場合、不利益を被った人は裁判なりなんなりで戦わなければならない、というのがおそらくアメリカなどのあり方だろう。では日本でそうなった場合どうなるかといえば、おそらく、かなりのケースが泣き寝入りになるのではないかと思う。文化的土壌を考えて、また、日常における法律(あるいは法律家)との距離感を考えてそんなもんではないだろうか。
 二重のお約束構造は、おそらく、そういう個々のケースに対応できるように出来上がったものであり、俗にいう義理と人情のようなものだったのではないかと思う。しかし、義理と人情の構造によって人が救われるためには、現在の社会のネットワークは拡散し密度が薄くなりすぎたのだと思う。おそらく、狭く濃いネットワークにおいてでしかその仕組みは有効ではないのだ。

 とはいえ、以前ほどではないにせよ、現在でもその仕組みによって救われている部分は少なからずあるものと思われる。これをできるだけ取りこぼさず、社会が最適に変遷していくのがベストだろう。ただ、もしも、声の大きな個々人が利益を主張することを受けて変わる、ということになった場合、主張はしないが不利益を抱える人間が多数現れることになるような気がする。

 あっれー、なんかこの文、おもしろ要素が一つもない気がするー。

2011年8月20日土曜日

正直者A

 ある集団に利益をもたらすシステムが存在すると仮定する。このシステムによって利益を得るためにはルールを守らなければならない。
 さてここに善良なる市民Aがいる。Aは正直に生きることが正しいと考えている。
 Aはそれまで全うに生き、当然のこととしてルールを厳守しシステムによる利益を得てきた。
 しかしあるとき、Aはルールを破った。
 Aに、なぜルールを破るのかと問うと、Aは「その時の状況下で、正直な行いを通すのであればルールを破らざるを得なかったからだ」と答えた。
 Aの置かれた状況とルールを精査してみるとなるほどAの言うとおり、正直であるためにはルールを破らざるをえなかったようである。そのような状況であれば、たとえ誰であっても、正直者はルールを破らざるをえないに違いない。
 規則に従うのであれば、ルールを破ったAはシステムからの利益を得られないことになる。しかし、それでは正直に生きようとするAが不憫である。そこでシステムの管理者はAにこう言った。
 「見逃してあげるから、嘘をついてルールを守りなさい」
 Aがシステムから利益を得るためには、信念を曲げて嘘をつき、ルールを守らねばならない。このときシステムはAに対して自らが生む利益を与えるのと引換に、嘘をつかせるという不利益をもたらしている。Aはいずれの選択をしても不利益を被ることになる。
 これを解決するためには、ルールか、Aの信念を変える必要がある。

 Aのような信念を否定するのはおかしい、と考えるAの信念の支持者がいたとする。彼はシステムの管理者にルールを変えるように求めた。しかし彼の意見は却下された。なぜか、と問うとシステム管理者はこう答えた。
 「Aが正直であるままシステムから利益が得られるようにルールを変更すると、そのルールのもとでは『不正を犯してでも利益を得ようとする者』が最も大きな利益が得るようになる。そうすると、人は自らの利益を最大限にしようとする生き物であるため、みなが不正をすることになる。誰も正直に生きなくなる。そのためである」
 では不正を取り締まれるようなルールにすれば良いのではないか、と進言すると管理者は「それではシステムが破綻する」と答えた。

 すなわち、Aの信念を守ろうとすると、そんな信念が存在しなくなる、と管理者は言うのである。仮に管理者の言うとおり、ルールを変更した場合誰も、Aでさえその信念を捨てることになるとしたら、どうすべきだろう。
 信念だの何だのがわかりづらかったら、以下のように変えてみる。
 Aという生物種がいる。Aは現在の環境下では苦痛に満ちた一生を送らざるをえない。しかしAに最適な環境を与えると、Aは死滅する。どうすべきか。

 こういう話は極論過ぎる、物事において重要なのはバランスである、というのならば、生物種Aあるいは正直者Aの苦痛はどう見るのだろう。バランスよく、死なない程度に傷つけというのか。
 ルールを、より良いものに変えていこう、みたいなのがよくあるパターン。でもすべて問題を先送りにしているだけだ。そうして解決することはない。解決しない。それが前提だ。

 なんという中2的問いだろう。そもそもそんなこと書くつもりではなくて、単に「aに最適な環境を与えると、aはいなくなる」というケースって面白いねってことを言いたかっただけなんだけどね。でもそこまで抽象化するとありきたりだな。ウイルスとかって、そんなだよね。どうしたらいいんだろうね。

2011年8月8日月曜日

ハートに火をつけたら死にます

 外出するときにライターを忘れてしまうことが割とよくある。そういうときは涙を飲んで100円ライターを購入するわけだけど、最近買ったライターが妙だった。着火スイッチがやけに重かったのである。不良品か、もしくはこれで親指の筋肉を鍛えてムキムキに、みたいないかがわしい商品を掴まされたりしたのかと思ってよくよくライターを見てみると、「CR対応」と書かれたシールが貼ってある。
 CRとはなんだ。確かパチンコの機種の頭にそんな文字があった気がする。「CRフランダースの犬」みたいな。するとなにか。パチンコ業界に進出したライターである、ということか。ライターの火をつけるたび、目の前にはぎらつく電飾の中回るスロットが!リーチリーチ!確変でドル箱が目押し!みたいな。よくわからんけど。
 しかし着火スイッチをいくら押してみても、そんな幻覚は現れない。きっとマッチ売りの少女の呪いだろう。そりゃ、彼女が長年守ってきた領地が簡単に踏み荒らされたら黙っているはずもない。「アタイのマッチ、ナメるんじゃないわよ!」って吐き捨てもするだろう。

 さておき、自宅に帰って調べてみたら、どうもCRとはチャイルドレジスタンスの略で、子供が勝手に火を付けられないようにしようキャンペーン、みたいなものだということがわかった。
 しかしだ。この僕が購入した100円ライター、どう考えてもその目的は果たせないように思う。なぜなら子供というのは、自分たちではできないと想定されたことを率先してやりたがる存在である。むしろ「オレ簡単に火を着けられるよ!」と自慢の種になるような対象にしてどうする。絶対それで馬鹿にされて、「オレだって」と火を着けようとしてみるものの親指ではうまくいかず、手のひらで押そうとして誤って火が着きモンスターペアレンツ発動!ということになる。
 ここは一つ、完全なCR対応のライターを考えてみようじゃないか。

 思うに、着火を困難にする方向は無理がある。ユーザの利便と困難の度合いを調整して、結果子供にだけは火を着けられない、なんてことができる道理はない。では、子供に「絶対押したくない」と思わせるようにするのはどうだろう。
 例えば、新しい仮面ライダーの設定に「着火スイッチを押されると四肢に激痛が走る」というものを付け加える。そして毎週、怪人が着火スイッチを押すことでライダーがのたうち回り、ついでに背景にライダーの両親がめちゃくちゃ悲しそうな顔をしている映像を写す。もうシナリオの流れとか一切無視で毎週繰り返せば、子供はトラウマを植え付けられ、怪人と着火スイッチを憎むようになるのではないか。ライダーの人気は下がるだろうが、大事の前の小事だと思う。

 あるいは、もっと簡単に噂をでっち上げるのである。中学生以下の子供がライターの火を着けると、タバコ屋のババアの呪いで一週間以内に死ぬ、とか。30年前、タバコ屋のババアは子供がいたずらに着けた火で家ごと焼かれて死んで、今もまだその怨念がとかなんとかまことしやかに流せば良い。でもあんまり怖がらせてばかりでも可哀想なので、タバコ屋のババアの弱点を設定してあげるといいかもしれない。ポマードとか。そう、タバコ屋のババアは元口裂け女だったのである!はいはい。

 しかしこれらの策は即効性がないかもしれない。では、着火スイッチを押すとものすごいでかいモスキート音が出るようにするのはどうだろう。しかも、押すたびに5分くらい鳴り続ける。問題は喫煙者の親をこれまで以上に避けるようになることと、モスキート音フェチが現れかねないという点である。特に後者は恐ろしい。我々大人は、モスキート音=嫌な音と思い込み子供らに対する武器として最近持ち上げているが、どのような音にもそれが異様に好きという輩はいるはずである。彼がそのフェチズムに目覚めてしまって四六時中ライターのスイッチをカチカチするようになってしまってからでは遅い。

 いっそ着火スイッチを押したら10回に1回爆発するようにしたらどうだろう。指とか簡単に吹っ飛ぶ程度。これは凄く怖くて良いと思う。子供のみならず大人もけして触ろうとしないだろう。嫌煙優位の社会なんだし、これくらいやってみてはどうかね。そしていつか100円ライターがヤクザの脅し道具となるわけです。「それは・・・、ひゃ、100円ライター!兄貴それだけは勘弁してくだせぇ」「うるせえ、落とし前は自分でつけな・・・!」そんな任侠映画があってもいいんじゃない。

2011年7月31日日曜日

解決しない

 アレが我が家のトイレに出た。あの黒い艶やかなアレが。ここ数年味わったことのない絶望をダースで配達された気分。僕はすぐさま戦闘態勢に入り、とりあえず近所の公園に戦略的撤退をした。猛ダッシュだ。
 もういっそ建物ごと燃やすしかないだろうか、とベンチに腰掛けながら思う。しかし、なぜこんなにも僕はアレを恐れなければならないのだろう。
 アレの恐ろしいところは何か。それは、一つでも存在が確認されれば周囲にかなりの数が存在するという推測がされるところである。
 考えてみるまでもなく、僕の部屋はアレが繁殖するのに適している。いわゆる3Kの条件が揃っているのだ。3Kとは【キモイ(家主が)・キチガイ(家主が)・汚い(家主も)】である。この条件を満たしながら今までアレを見なかったことが奇跡なのであって、しかしそのことによってむしろ病症は取り返しの付かないレベルに至っているようにも思われる。絶望。


 しかしだ。アレの存在が確認されたことによって今後3Kが改善されるとは考えにくい。ここは一つ、共存の道を探ってみるのはどうだろう。そもそもアレが恐ろしいというのはアレを駆除する製品を売り出している企業の印象操作である。あれは確かに、普段姿を見せないがいつどこにでも現れうる、という幽霊と同質の恐れられる条件を備えている。それ故あれは恐ろしい存在なのですよ、と宣伝されれば「その通り!」と一気にそんな対象に傾くことが可能だったのだ。だが、もともとアレが忌み嫌われる存在だったのではなく、たしか昔は縁起物として見られていたらしい。それが今では見つかれば殺される存在なのだから、アレとしてもかなり困惑だろう。


 アレを一種の神様として捉えると、面白いかもしれない。昔はみんな貧しかったから、アレもお金持ちの家でしか生存できなかった。だから縁起物として見られた。現代ではアレはほとんどどの家庭でも生存できる。みんな裕福になったからだ。みんなが持っていないときは持っていることが価値のあることとされ、みんなが持っているときは持っていないことが価値のあることとされる。座敷童子が貧乏神になったというわけ。しかし一種の貧富の象徴であることは変わらない。プラスがマイナスに反転しただけ。


 これがもう一度反転するためには、アレが絶滅危惧になるくらいでないと難しいだろう。というかアレが神としての自覚を持ち、自らの生態やら何やらを変化させればいいのにと思う。
 たとえば、アレがメールを送る機能を持ち始めたらどうだろう。ある日メールボックスに見知らぬアドレスからメールが届くわけだ。


 『はじめまして。私はあなたの部屋に住んでいるアレです。いつもたくさんの食料と心地良い住処をありがとう。
  突然のメールにあなたは戸惑っているかもしれませんね。しかし私たちはずっとあなたにお礼を言いたかったのです。ときどきあなたの目の前に現れていたのもそのためです。でも結局あなたを驚かせてしまっていただけでしたけどね。そのことはごめんなさい。
  あ、そのとき私たちを殺したことは気に病まないでください。人間が私たちをどう見ているのかは存じています。それは仕方のないことで、あなたには何の責任もありません。ただ、少し寂しいですけど。
  そういえばこの間子供が産まれました。元気な男の子と、女の子と、とにかくたくさん。私たち一家の数もようやく3桁の大台に乗ることができました。すべてあなたのおかげです。
  とは言え、あなたは私たちのことを見たくないとお考えでしょうから、これだけはお約束ください。決して冷蔵庫の裏を覗かないこと。それがお互いの為です。
  それでは長々と失礼致しました。また、機会があればメールを送りたいと思います。あなたさえよろしければ、ですけれど。


  追伸。食器類は1週間程度そのままにしておいてくださると大変助かります。また食器は陶器に限ります。紙やプラスチックのお皿はあまりエコではないかと存じます。もちろん、捨てずに机の上に放置してくださるのなら私たちとしては構いませんが』


 うん。多分僕だったら殺虫剤をキッチンにぶちまけて三日くらい家出すると思う。探さないでください、ってアレに返信して。


 そんなこんなで公園から帰る足で薬局に寄り、殺虫剤でとりあえずトイレに出た奴は殺しましたとさ。
 お後がよろしいかどうかは、結局奴らの数による。アレの一番面倒な点は、解決というのがありえない点だ。いつでもどこからでも現れる。お祓いすると、他の家に移動するタタリ。始末に終えないのだから、こんな相手、敵視しなければよかったのになーと思う。もっとも、だからこそ商売になるのだろうけどさ。

2011年7月28日木曜日

言ってくれない

 憧れというものがある。生きているうちに一度は言ってみたいセリフ。ずっとポケットに入っているのに、いつも取り出すのは今ではないとためらわれる。ときどき指先で弄んではつい微笑んでしまう、そんなセリフがある。
 例えば私は「クックック」と笑ってみたい。
 勝手に笑っていればいい、と思われるかもしれないが、今の私では全然ダメなのだ。その言葉を発することが重要なのではない。その言葉を発するべき私が、然るべき条件下で発してこそ意味がある。つまり、まず私自身がその言葉を発するに足る人格を形成しなければならぬのである。これはとても難しいことだ。一生のうち、その人に最適な言葉を発することの出来る機会というのはどれほどあるのだろう。それが難しいからこそ、ついに発せられた最適な言葉は多くの人の胸をうつのだと思う。

 ところでいつの世にも天才というものがいる。この場合の天才は、いつでも最適な言葉を出すことが可能な人間である。私の職場にも一人天才がいる。しかし彼女は、けして自らの才を活かそうとしない。それはとても残念なことである。彼女ならいつでも最適な「グハハ」という笑い声を出せるというのに。
 もしかしたら、彼女自身その才能に気づいていないのかもしれない。それならば私がそれに気づかせるべきである。しかしどうやって。

 「Fさん、ちょっとグハハって言ってみてもらえませんか」

 おそらく直後に私の体は壁に叩きつけられるだろう。蹴りかタックルか咆哮いずれかによって。しかしだからといって諦めるには惜しい。彼女ほど「グハハ」という笑いが似合う人間は他にいないのだから。
 そもそも「グハハ」という笑いは非人間的である。超獣軍団を束ねる魔獣にこそ相応しい、とても格好良い笑いなのである。ではまず、その辺を自覚してもらうのはどうだろう。

 「Fさんて、格好良いですよね。その、なんていうか魔獣みたいで」

 これもやはりタックルは免れないだろう。私の見たところ、日本人女性の99%は魔獣みたいと言われたら怒る。もしFさんが残りの1%に属しているならば、とっくに「グハハ」を聞けているのが道理だ。
 では魔獣的キャラの素晴らしさを説くのはどうだろう。「グハハ」の似あう魔獣の特徴を考えてみたい。
 ・役に立たない部下を叱るのが得意
 ・四天王で言うと2番目のポジション
 ・1番目のポジションの奴が主人公に手こずるのを馬鹿にするのが上手
 ・実際主人公と戦う時になると、力に覚醒した主人公の友人的ポジションのやつにやられたりする
 ・命からがら魔王のもとに逃げ帰ると、魔王に殺される
 ・後に魔獣の元部下的な奴が出てきて、意外と部下に慕われていたことが判明
 ・その元部下的な奴が主人公を意外と苦しめる
 ・話のとっかかりは魔獣をやられた復讐劇だったはずが、いつのまにか元部下は意外といい奴的な話になって、最終的に元部下は主人公パーティへ。魔獣のことは有耶無耶に。
 ・いざ最終決戦へ、という段になってなんと魔獣復活
 ・しかしゾンビとしての復活。「イタイ」とか「ニクイ」とかカタカナ語しか喋れない不憫
 ・しかも最終決戦前にパワーアップした主人公に瞬殺される
 ・結局、魔王はひどいやつだ、と思わせるためだけのキャラに
 ・さらに主人公が「あいつは敵だけど悪い奴じゃなかった」みたいなキャラ付けを勝手にし始め哀れ
 ・最終的にファン投票では12票を獲得

 うーん。素晴らしいな。Fさんがこのわけわからんストーリーに実写で参加してくれるなら、ブルーレイで10本くらい買いたい。ブルーレイ再生機器持ってないけど。
 では以上の点を踏まえ説得するにはどうすれば良いか。

 「Fさんって意外と部下に慕われていますよね。百獣の王も真っ青ですよ」
 タックル。
 「Fさんていつから四天王に入ったんですか」
 タックル。
 「Fさん、12票おめでとうございます」
 タックル。

 ダメだ。これじゃ埒があかない。そもそも人語が通じていることさえ奇跡なのだから、これ以上は何も望むなということでしょうか神様。
 いや、ここは発想を変えよう。Fさんは女性だ。今まではそこをないがしろにしすぎていたのだ。女性の喜ぶ言葉。可愛い。そう、可愛い。巷では、可愛いは正義とか言うし、これで押し切るしかないだろう。

 「Fさんって、ゾンビになってもわりと可愛いですよね。よく言われません?魔獣の中で一番可愛いって。ほら、ガハハって笑ってみてくださいy
 多分私はこの世から消されると思う。

2011年7月25日月曜日

パルプンテを唱えない

 もし100万円拾ったら、もしアメリカ大統領に指名されたら、もしサイボーグ手術を受けるとしたら。昔はこういう想像をよくしていたが、いつからかそれをしなくなったことにふと気づく。どうせそんなことは起こりそうもない、などといつの間にか思っていた。しかし実際そんなことが起きた時、想定してませんでした、で良いのだろうか。むしろ昔より今のほうが、そんな言い訳が通用しないだろう。大人だったら明日何が起こっても冷静に対処できるべきであり、だからこそ日々想像を広げておくべきである。環境条件は常に変化する。過去に想像したことがあったとしても、再度想像することは必要である。それが自己のメンテナンスにもなりうるのだ。

 そんなわけで、もしドラクエの呪文がなにか一つ使えるようになったらどうするか、考えてみたい。
 果たして何を選択するのが良いのだろう。


 ・ルーラ
 これは多くの人がまず考える呪文ではないだろうか。ルーラが使えれば通学通勤がめちゃくちゃ楽になるし、どこへ遊びに行くにも便利だ、なんて考える。しかし待って欲しい。本当にあの呪文は日常において便利だろうか。まずは冷静に細かい仕様をみてみよう。
 ルーラは一度行ったことのある場所へ瞬間移動できる呪文だ。だが落とし穴がある。ルーラで指定できるのは町や城単位であって、例えば宿屋に直接飛ぶことなどできないのである。これを現実に翻訳すると、市区町村単位では行き先を指定できるが◯◯ビルの前とかは無理ということだ。そして飛ばされる先は街の入口、すなわち足立区だったら足立区の入り口に飛ばされるということである。僕自身は街の入口は駅の出口、みたいな感覚でいるが、実際ルーラで帰宅しようとしたら足立区と葛飾区の境界にポツンだ。駅まで結構歩くことになるだろう。
 あるかないかで言ったらあったほうが便利に決まっているが、別になくても事足りる。折角の呪文をこれにするのは考えものである。


 ・メラ
 冬場とか暖房に使うとかはありえない。言っとくけど、火って、めちゃくちゃ危険だから。おとなしく毛布にくるまるかエアコン使え。
 実用的な用途としてはライターを忘れたとき助かる、くらいだが、だったらコンビニで100円ライター買え。

 ・ヒャド
 夏場とか冷房に使うとかはありえない。あれ、対象を冷やすわけじゃなくて、氷の塊が出る呪文だから。もし職場でヒャドを使ったら、しばらくは冷えるだろうけど、小一時間もしないうちに机の上びちゃびちゃだから。周りの人ドン引きだから。おとなしく扇風機かエアコン使え。

 ・ピオリム
 素早さをあげる呪文なんだけど、わりといいかもしれない。素早く動けたら、朝駅までダッシュするのも楽になるかもしれんし。けど現実においては朝の歩道って混んでるし、周囲のペースに合わせざるを得ないことのほうが多い。だからピオリムを使った分ストレスを貯める結果になるだろう。オレ素早さ高まったるのに!って。で結局ストレスで寿命が減って素早く死ぬことになるから、あんまり使えないかも。

 ・ホイミ
 これも一見便利そうだけど、大人になってから怪我することなんてほとんどないし。せいぜい足の小指をどっかにぶつけた、とかが年一である程度だけど別にホイミかけたってあの痛みが記憶ごと消えるわけじゃないだろうし。小さい子供のいる家庭では重宝するだろうけど、自分の身近にはそんなもの皆無だし。イラネ。

 ・ニフラム
 自分より弱い相手を光の彼方に消し去る呪文なんだけど、これは殺虫剤としてなかなか良いかもしれない。でも、もし虫を殺せなかったら、これめちゃくちゃショックだと思う。あ、自分、蚊よりも弱いんだ、って。凄い落ち込むと思う。大体強いとか弱いとか、何において言ってるのかわからんじゃないか。でも蚊をニフラムで消せなかったら、自分の何かが蚊に劣っていることが判明してしまうわけですよ。ああ、強さってなんだろうな。

 ・ラリホー
 対象を眠らせる呪文なんだけど、これを覚えれば不眠症の人を寝かせる仕事を立ち上げて一財産得られるかもしれない。でも残念ながらこの呪文、効かないときもあるから。全然寝られなくてイライラしてる人に真顔で「しかしこうかはないようだ」とか言ったら多分ぶん殴られると思う。だからやめておこう。痛いのやだし。

 ・ラナルータ
 昼夜を逆転させる呪文。これさえあれば、出勤してタイムカード押してラナルータ唱える、タイムカード押して帰宅、という超絶に楽な日常をこなせるわけだ。夢のようじゃないか。
 だけどラナルータには二通りの解釈ができるわけで、一つは全世界が呪文によって瞬時に昼夜逆転する解釈。これが正しいとすると、例えば日本でずっとその楽な状況を作り上げ続けたら一週間もしないうちに経済破綻するだろう。それにブラジルあたりの人は全員過労死する。
 もう一つは、僕の意識だけが昼から夜にぶっ飛ぶ解釈。こうなると、三日と経たずに職を失うだろう。うまい話は穴だらけってことですよ。

 ・バシルーラ
 実は大本命。バシルーラをかけられると、対象は異次元に吹っ飛ぶ。素晴らしいね。これさえあればゴミ問題とかだいたい片付くわけですよ。全部異次元に送っちゃう。廃車も大型家電も産業廃棄物もまとめてポイ。
 でも問題はないわけじゃない。もし、異次元に知的生命体が住んでいたら、ということだ。きっと怒るだろう。怒りのあまり次元を超えて戦争を仕掛けてくるのも時間の問題になってしまうかもしれない。それはいかん。
 ここは一つ、まずはバシルーラで手紙を送ってみるのがいいだろう。ハロー異次元人。駄目だ相手にされるはずない。

 ・マホトーン
 相手の呪文を封じる呪文。価値はない。だって誰も呪文なんて使えないし。

2011年7月15日金曜日

繋がらない

 Aは苛立っていた。何に対してなのかわからない。でも、何かに対してぶつけなければならない衝動がずっとあった。このままでは壊れてしまうというとき、自分によく似たBに出会った。だからAは、喜んでBに苛立ちをぶつけた。Bの欠点を見つけるのは簡単だった。欠点を見つけるたびにAはますます苛立ってBにそれをぶつけた。繰り返し繰り返し。でも、いくらぶつけても、Aの苛立ちが消えることはなかった。

 Bは嘆いていた。意味も理由もわからぬまま他人の悪意にさらされて、心も体もぼろぼろだった。このままでは壊れてしまうというとき、自分によく似たCに出会った。だからBは、喜んでCを蔑んだ。Cは自分によく似ているけれど誰にも必要とされていない。苛められてさえいない。何の役にも立っていないCを蔑むのは簡単だった。Cを見るたびに自分の方がましだとBは思った。繰り返し繰り返し。でも、いくら蔑んでも、Bの痛みが消えることはなかった。

 Cは寂しかった。誰も傷つけず誰からも傷つけられない日常の静けさに恐ろしさを感じた。幻覚や妄想がこの空白を埋めてくれるならいっそ狂ってしまいたいと思っていた。このままでは壊れてしまうというとき、自分によく似たXに出会った。だからCは、喜んでXに恋をした。Xのことを愛しく想うのは簡単だった。平穏を崩さず、視線だけがXの姿を追っていた。くり返しくり返し。でも、いくらXを想っても、Cの寂しさが消えることはなかった。

 Xは苛立っていなかった。嘆きもせず、寂しくもなかった。自分が壊れているのか壊れていないのかわからなかった。なぜならそれは元の形と比較した評価であり、元の形なんて幻想だということをXは知っていたから。Xは誰かと出会っても、誰にも興味を抱くことはなかった。淡々と簡単な生活を過ごしていった。繰り返し繰り返し。そしてときどきため息を吐く。これはいつまで続くのだろうと。細く、長く、ため息を吐く。

2011年7月6日水曜日

妄想劇場版

「僕は、大きくなったら、気象予報士になりたいです。明日の天気がわかれば、お母さんも洗濯物で困らないし、遠足のときも安心だからです。そしてみんなの役に立てれば、僕も嬉しいと思うからです」
「はい、良く出来ました。じゃあ次は――」


そうして俺は気象予報士になった。
あの頃の自分がもし目の前にいたら喜んでくれるかもしれない。
けれど俺は笑うそいつの顔面をきっと全力でぶん殴るだろう。
そして教えてやらなくちゃいけない。
「気象予報士にだけはなるな」と――。




【天気予報戦争‐Weather report Wars‐




それは世界の命運をかけて闘った
 予報士たちの三日間の物語――


「そんなっ!このデータからどうして降水確率0%なんて言えるんだ」
「データにばかり頼るな若造!お前の身体はなんのためにある!」


――対立


「春ちゃんが一番可愛いよな」
「小夏ちゃんの足元にも及ばねえよ」
「ロリコン乙」


――友情


「プロジェクトは最終フェーズ、天気告知に移行する」
「待ってください!山田がまだ出張から戻ってません!」
「だからどうした」
「どうしたって・・・、見捨てろって言うんですか!?」


――裏切り


「私は、今から50年後の未来から着たの。・・・この意味がわかる?」
「まさか・・・」


――謎


「報告します!17時時点で、日本中、いえ・・・、我が局を除く世界中全ての機関が曇りのち晴れを発表しています!」
「だが我々の降水確率は覆らん!」
「しかし!」
「責任は私が持つ!・・・世界中に目にもの見せてやろうじゃないか」
「局長・・・」


――そして闘いは


「わかりました」


予測不能の終局を迎える――










「なあ・・・、気象予報士になってよかったって、みんなの役に立ててよかったって、いつかそう思える日が来るのかな」


「そんな日は
    来ないわ」


――Coming Soon

2011年6月23日木曜日

能とゼルダ

 この間、ゼルダの伝説-時のオカリナ3D-をクリアした。このゲームは98年にNINTENDO64用ソフトとして発売されたもののリメイクだ。映像が綺麗になったり操作方法が3DSに最適化されてはいるものの、内容的に変化はないしキャラクタの造形もほぼ一緒だ。
 キャラクタの表情は最新のゲームとしては乏しい。感情の度合いによって眉や目などが微妙に異なる、といったことはなく、うれしい時はこの顔、驚いたときはこの顔、と感情によって決められた少ないパターンで演出されている。ほとんど無表情のサブキャラも少なくない。
 ゲームを始めたときはそこに古さや懐かしさを感じるだけだったが、今日、それだけではない可能性にようやく思い至った。


 サントラを聴きながら、ぼんやりとゲームのシーンを思い返していたところ、やたらと感情を揺さぶられるのを感じた。あるシーンの物悲しさが、チープな無表情にもかかわらずもの凄く物悲しいのである。音楽との相乗効果もあるだろうが、僕はそのとき能を思い出した。
 能における能面は、決まったパターンしかない。しかしその見え方や役者の動き、そしてなによりそこから感情を汲み取ろうとする鑑賞者の能動性によって表情と感情をこれ以上ないほどにリンクさせる。その深さは、生身の人間の表情を上回る。なぜならそれは、自らの内面から組み上げたものだからである。


 思えば64時代のゼルダの伝説は能を意識したものだったように思われる。それは、64の2作目「ムジュラの仮面」というタイトルからも類推できるものだった。表情のパターンが少なくならざるを得ない当時の表現として、能ほど最適なお手本はなかっただろう。映画を参考にするよりもはるかに良い。
 して、疑問に思ったのは、なぜこんな簡単なことに自分は気づかなかったのか、ということだ。無論、当時せいぜい中学生だったため、能なんて大して知らなかった、ということもある。しかし、大学で一応「能と狂言」とかいう一般教養の講義も受けたわけだし、そのときに気づかなかったのは変だ。


 そう考えてわかったのは、ゲームは最初から能的な部分、すなわち限定されたパターンを用いた表現をもっていたこと、そして64ゼルダは当時としては豊かな表情での表現であったということである。
 すなわち、ドット絵時代は64ゼルダよりもプレイヤーの能動的解釈が必要とされていた。64ゼルダはむしろ同時代的には能動的解釈を必要としない表現をしていたのである。
 表情が豊かになった現代からみると乏しい表情パターンが、当時からすると豊かであった。この印象によって、発想が妨げられていたものと思われる。


 しかし思うに能というものに最も近づいたのは64ゼルダを置いて他にない。能には確かに鑑賞者側の能動的なくみ取りが必要となるが、それ以外にも役者の一挙手一投足、そして音楽が重要である。この中の2番目の要素、つまり役者の一挙手一投足という要素は2Dのゲームには限界がある。役者の動きの豊かさとその表情の乏しさというバランスにおいて、64ゼルダより能的なゲームを僕は知らない。


 現在の最新ゲームの表現は主に実写的であるかアニメ的であるかいずれかである。アニメには能に近い部分があるとは言えるが、どちらかと言えばよりわかりやすい、鑑賞者の能動性を求めない表現に行きがちである。多くのユーザーを想定すれば間口を広げるためにそうならざるをえないのは仕方ない。
 しかし僕は、実写的でかつ能的で、安っぽくなく、思わずぞっとするようなゲームをやってみたいと思うのである。実写が限界に近づいていけばそのような表現を模索する潮流が現れるのではないか、なんてことを静かに期待する。

2011年6月20日月曜日

ウナギと儀式

 20年近く前、僕の実家ではウナギがなりよりもご馳走だった。年に一度、運動会の前の日だけ食べられる。ウナギ専用の漆塗りのお重をわざわざ出して家族みんなで食べるうな重は本当に美味しかった。
 しかし、次第にウナギの価値は落ちていった。最初のきっかけは、祖父がウナギを好き過ぎたせいだと思う。夕飯の食材は祖父が毎日買いに行っていたのだが、僕が小5くらいの時から特別だったはずのウナギの頻度が上がっていった。理由は、今にして思うと、祖父なりの気遣いという部分もあるのだろう。その頃中学1年と3年の兄たちは反抗期真っ盛りで、わりと家庭の順列が崩れかけていたように思う。おそらくこれを何とかしようと考えた祖父が、皆の好物であるウナギを食卓に出すことで円満な雰囲気を作り出そうとしていたのではないか。実際それが効果的であったとは思えないが、しかしそれによって祖父のリミットが壊れてしまったのだろう。当時は月に1度くらいの頻度でウナギだったような気がする。それでも月一のウナギは結構嬉しかったし、運動会前以外はお重を使った豪華なものではなかったので、それとこれとを差別化できていた。
 
 次にウナギの価値が下がったのは僕が中二くらいのときだ。そのときは既に祖父は亡くなっていたのだが、我が家の好物=ウナギという公式は少なくとも母にとって壊れていなかった。そして当時父の看護やら祖母の介護やらで多忙を極めていた母は、手がかからなくかつ不平の心配がないウナギを、祖父をも上回る頻度で食卓に上らせた。大体月に2,3度くらい。ちなみにその頃には運動会前のうな重という特別儀式も廃れていたので、僕達子供は「ま た う な ぎ か」くらいの印象しか受けていなかった。さすがに疲弊しきって若干様子のおかしい母にそんなことを言ったりはしなかったけれど。

 そして僕が高2になった頃、7人家族だった我が家には僕と母の二人きりになった。ウナギの頻度は緩やかに高まったままだった。ひどいときは週一くらいでウナギを食っていたと思う。母にしてみれば、仕事で一人夕食を食わせていることへのわびだったのかもしれない。僕にとっては、もうとっくにご馳走でも何でもなかったし、なんというか、かえってわびしい感じがしていた。もちろん言わなかったけどね、そんなこと。


 我々が何かを楽しむには、なんらかの儀式的な部分が有効だと思うのだ。Aだから楽しいと決めてしまい、Aに付随していた要素を取り払い、Aのみを繰り返したら、人間は対象がなんであれすぐに消耗してしまう。
 ウナギは一年に一度だから特別で、美味しかった。わざわざお重に装うのも、運動会の前だけというのもとても大事で、その約束をずっと守ることでウナギのたびに鮮明で重厚な記憶の地層を味わい共有し楽しむことができたのだと思う。

 他にも例えばヘッドフォン。高価なものを買えば当然音が良い。しかしその音に慣れてしまい感動を忘れれば、それを基準に他を排除するくらいの機能しかない。はっきり言ってそんなものに価値はない。
 1万円を超えるヘッドフォンであれば、少なくとも僕にとっては多かれ少なかれ「おっ」と思うような音を聴かせてくれる。何よりも大事で価値があるのは、神経を研ぎ澄まして音楽を聴く姿勢である。より高価なヘッドフォンは「おっ」と思わせる部分が大きい。この部分を意識しそれに真摯に向かう姿勢のなかに価値がある。
 あるいは好きなアーティストの新曲も最初に「おっ」と思わせられる。それを味わうために色々環境を整えることは、自分を儀式の中に組み込み、自らの神経を研ぎ澄ますのには役に立つ。しかし必ずしも必要な要素ではない。その準備さえ自分の側にあれば、雑音混じりのラジオの中からだって十分良い音を聴き取り「おおっ」と感動することはできるのだ。

 大人になって余裕を無くして、便利な方や楽な方、簡単な方に流れるのは容易い。現代の世にはお手軽に楽しめる要素がそこらじゅうにばらまかれているから、次々と消費し続けるのもありだろう。
 けれど僕は、自分がより楽しむために最適な儀式を模索したり、仰々しく回りくどい手順を作り出していくのがどちらかと言えば理想的な大人になり方だと思う。大事なのは、誰かにとっての儀式が自分にとって最適解ではないということ。自分のための儀式は、自分で見つけなければならない、と思うわけです。

2011年6月17日金曜日

ハリガネムシ


 ハリガネムシという寄生虫がいる。僕なんかは最近までカマキリの中に入っているキモイ奴、くらいにしか認識していなかった。しかし実はこいつ、結構恐ろしいヤツらしい。
 バッタやコオロギが落ち葉などについたハリガネムシの卵を食べたとする。体内で孵化したハリガネムシはそこで成長した後、繁殖期に入る。ハリガネムシの繁殖は、水中で行われる。従ってハリガネムシはぜひ川などに近づきたい。しかしバッタやコオロギは普通水になんか入らないし、そんなものは彼らの生活圏内にはない。


 それなのに、彼らは進んで水を探し、見つけると飛び込む。飛び込むと、ハリガネムシが感謝の言葉もなく、彼らの身体を突き破って水中を泳ぎ出す。ああ、気持ち悪い。


 何かに操られ、何かに支配されて自分の行動を選択している状態、しかもそのことに全く無自覚である状態というのはとても恐ろしい。しかしこれってなんかおかしくないだろうか。一体何が恐ろしいのだろう。なぜ恐ろしいのだろう。
 バッタやコオロギはハリガネムシと対話を行い、結果的に奴の要求をのんだ、ということはありそうにない。では全くそうするつもりはないのに、彼らに意思に反して、体が勝手に動いたのか。大した根拠はないが、それはないように思う。おそらく彼らは、彼らの内的に生じた欲求に従って行動をし、結果水に飛び込んだ。
 彼らは腹が減れば食料を探す。繁殖期が来れば求愛行動を行う。それと同じように、水に入りたくなって水を探し、死に至った。
 彼らの意識が――仮にあるとして――なんらかの役目を持つとしたら、それは自らの欲求を満たすための方法を探ることだとする。もしそうなら、彼らの意識は十分その役を全うした。すなわち彼らの意識だけを問題にするのであれば、なんの間違いもなかったと言えるだろう。
 では彼らが自らの身体のことを想って行動した結果が、身体を永久に損なうことになったということが問題だろうか。しかし例えばカマキリなんかは交尾によってオスが食われたりする。これも同様ではないか。
 しかしそれは結果として種の保存に役立っている。それに引き換えハリガネムシに従って死ぬのは何の役にも立たない、ということが言えるかもしれない。だが、例えばハリガネムシが仮に体内で繁殖を行うタイプだったらどうか。自らの種の生活圏内で糞と一緒に卵をまき散らしたほうが種にとっては害となるだろう。そう考えると、わざわざ水の中に行ってくれるのは種にとってありがたい事と言えるのではないか。


 思うに意識とは自発的に何かを行うものではない。ただ自分というものの一貫性を保つためにあらゆるものに理由のカバーを掛けて、さも自分がここを歩いてきたと思わせているだけである。そして思わせられているのは自分、すなわち意識だ。
 ハリガネムシが恐ろしいのは、行為が自分の意志によって行われたという確証の脆さ故である。本当に恐ろしいものは、対話ができない、認識できない、しかし存在する何かである。そして人間の意識にとって、その最たるものは自分の無意識だ。


 小学生のとき、僕は算数の問題が一瞬で解けることがあった。テスト中、式を見た瞬間に頭の中で数字が叫ばれる。とりあえず確認の計算をしてみるとそれは正しい。しかしそれが僕はすごく嫌だった。そんなものがいきなり出てくる理由がわからなかったからだ。だから次第にそれを無視するようになり、いつしかそんな叫びは聞こえなくなった。
 けれど今でも思う。結局のところ、自分は理屈をわかると思い込まされているだけではないか。あるいは、わかるという仕組みにどれほどの価値がるというのだろう。
 ハリガネムシは意識の存在がいかに無力かを思い出させる。そういえば、ずっと昔、自分という存在が寄生虫なのではないかと想像していたことを思い出す。


 上手に騙されて、モチベーションを上げるように仕向けられないのは、つまるところ無意識が無能なせいだと思います。

2011年6月10日金曜日

Jack and say, ケン坊 show

 君は意外と抜けてるよね、という指摘を受けたことは少なくない。自分ではそんなこと意外でもなんでもないと思っているので、むしろなぜ意外というのだろうと不思議に感じる。理屈を捏ねれば、その自分の短所をカバーするために、まるでそんなことをしない感じを装っているのだろう。攻撃されるのを、意外性のバリアで防御しているというわけだ。しかしそんなものが一時的にしか機能しないことは目に見えている。たぶん人との付き合いを短期にしか想定していない現れなのだろう。もしくはその場しのぎ的な。

 まあそんな抜けている人間なので、ついうっかり何かを忘れたりすることが多い。で、自発的にか指摘されるかして思い出すとき世界が終わったみたいな絶叫を上げるのが常なんだけど、指摘されたことについて全く思い出せないというのはほとんどない。自分という人間を客観的に見ると、これもひとつの防御的特性なのだと思う。つまり、何かを言われたり頼まれたりするとき、そのことを無意識に、一時的に忘れても構わないがあとで必ず思い出す条件のついたフォルダにしまうのだ。そうすれば「あ、一応覚えていたんだ」という皮肉な笑顔で大抵のことはスルーできる。自分としても「覚えてはいたんですよ!一応・・・」というポーズを取れることで安心出来るわけだ。
 しかしこの安心と安全のうっかりシステムにエラーが生じると僕はどうしようもなく狼狽えるらしいということが今日わかった。

 「先日お貸しした〇〇を、返却していただけますか?」
 仕事中、そんなことを言われたわけだが僕は首を傾げるばかり。あんまりにも記憶にないので、勘違いなんじゃないのぉぉぉぉおおおお?とやんわり伝えたところ「そんなハズはない、たしかにその時のことを覚えている」と全否定された。仕方ないので納得いかないまま身の回りを探してみるも見当たらず、もう一度お前の頭は正常でございますかとお伺いをたてることに。しかしやっぱり全否定。鼻で笑って全否定。シャフト角度で全否定。

 こうなると自分自身が疑わしくなってくる。自分はダメなやつと理解しているので、自分を疑い記憶を探ることはなんの抵抗もない。けれど、ダメな自分の生活を保証している安心と安全のうっかりシステムが通常通り動いているならすぐに思い出せるはずなのだ。もちろん保管した場所までは保証できないエコな記憶圧縮を心がけるシステムだから思い出したとしてもたかが知れているんだけど、普通なら覚えているはずの『〇〇を渡された記憶』もあるいはそれに該当しそうな『☓☓さんとのなんらかのやりとり』の記憶も一切無い。
 自分のうっかりシステムは破綻したのだろうか。もしそうであれば保っていたギリギリのポジションは崩壊し、回転灯が赤く回り警報機が喧しく鳴り響く中、娘の写真が入ったロケットを握りしめたあと緊急用のボタンをぶっ叩いて、空に散るしかない。要するに発狂したも同然だよねという話。きゃー。

 しかしシステムの破綻どうこうは別として、自分の記憶にない 自分の行いというのは本当に恐ろしい。なぜならそれは自分というものの非連続性、一貫した唯一の自分があるという幻想の否定だからだ。そしてその恐ろしさはずっと昔におそらくほとんどの人が味わったことがある、一種のトラウマである。
 幼い頃、自分の写真を見せられたことがある。それはクリスマスの時の写真で、僕は二人の兄に挟まれ満面の笑みでもらったプレゼントを大事そうに抱えている。場所は、一番良く知っている自宅の茶の間だ。三人の顔もちゃんと知っている。ただ、そんな写真を取られた記憶も、そんなプレゼントを貰った記憶も全くない。

 まあ、そんな子供の時からの恐怖をいくつも積み重ねて、こんな日常もおぼつかないダメ人間が出来上がるのである。冗談だけど。
 しかし、こういった体験がない、という人もいるかも知れない。ではその人の最古の記憶とはどんなものだろう。ほとんどの人は、そこから少し遡った出来事の話を聞いたりすることで体験できるはずだ。母体の中にいたことさえ記憶している人なんて、僕は真賀田四季くらいしか知らない。

 さておき、僕は僕の現実に戻ると、うっかりシステムが破綻した以上、別の何かを構築しなければならない。幸い記憶に限定すればパソコンだのなんだのを外部記憶装置として今よりちゃんと扱うことでなんとかなるかもしれない。いやまあ、そんな面倒なことをするかと言われたら微妙っすけど。
 案としては、体にマイクを仕込んで24時間録音し、管理保存するとかか。カメラを使って映像でもいいけど、容量的にすぐだめになる気もする。
 人が、覚えていないと社会的に不利益を被る記憶の大半は、人とかかわったときに発生する類のものだから、人との関わりさえ自動的に記録してくれればいいのかもしれない。
 腕時計のような形状のものをすべての人が装着し、何かをやり取りする際はそれをオンにしないとやりとりの法的責任を問えない、あるいは何らかの物理的接触があれば自動的にすべて記録される。となれば、勘違いが減ったり、犯罪が減ったり、痴漢冤罪が少なくなったりするんかね。
 まあ、現実逃避もいいところか。それが あなたの いいと・こ・ろ。
 あれ、なんだっけ、そのCM。

2011年6月6日月曜日

大人になったら

 大人になると、やらなくていいことが増える。というか、大人にやらなければならないことなんて何一つないのだ。いいだろう子供たち、えっへん。
 それだから大人たちの行うことのすべてには、自分で用意した理由がある。やらないことにも、やらなくていい理由がある。理由は全部自分が生み出しているんだけど、大人たちは呼吸をするように理由を生むので、意識しないとそのことを忘れてしまう。
 それを忘れるとどうなるかというと、そうするのが当然、しないのが普通、あるいはもう全然そんなことさえ考えないようになる。
 それがいけないわけじゃない。誰だって、自分が呼吸することを意識することはできるけど、そればかり意識していたらそれ以外のことがなんにもできなくなってしまう。だから他のこともちゃんと意識するために、そのことを部分的に忘れたり、ときどきは思い出したりするのが、なんというか健全だ。
 この曖昧な健全さによって大人の日常は守られる。でも曖昧なので、ある視点からは健全だけど別の視点からは不健全、ということが当たり前になる。
 そういう仕組なのでこれ自体は別に問題ないんだけど、例えば社会というものを想定すると急にやっかいになる。社会とは、人と人のつながりによって作られるものだ。社会全体というのは大きすぎて捉えがたいから身の回りに範囲を絞って見てみると、社会は自分を作り上げる繋がりを保つために人間を配置しようとする。誰かがいなくなったら別の人間を変わりに置く。今そこにいる人間がつながりを適切に保つならそこに拘束しようとするし、つながりを壊してしまいそうなら排除しようとする。余談だけど、では誰がそうして拘束したり排除したりしようとするかというと、それはそのつながりを作っている両端にいる人間だ。両方の人間が、社会的な視点によって、そうする。これはサンタクロースを親が演じたりするのとだいたいおんなじ仕組みと言って良い。
 閑話休題。そういった社会の拘束/排除の力に常にさらされている大人は、自分の行為の範囲をどんどん狭めようとする。なぜならそのほうが安全で安定し、安泰だからだ。というより、むしろ力が働いている以上、そうなるのが自然というだけのことかもしれないけれど。
 さて狭まった自分の行為は、強固な理由によって他を排除する。そうしていくうちに、大人は、たくさんの別の可能性を切り捨てる。やる理由もやらない理由も自分が生んだということを忘れて、「べき」という呪いを自分にかける。
 呪いをかけられた大人たちは、いつも疲れてつまらなそうだ。これを打破するのは、実は案外簡単だ。
 やらなくていいことをやればいい。やらない理由を無視して、やってみればいいのだ。行きたくない場所に行き、見たくないものを見て、聞きたくない音を聴けば良い。
 そうすると、もしかしたら理由がでたらめだったと気づくかもしれないし、逆に理由をより正確に再構成し始めるかもしれない。意識すれば、そこから新たな可能性も見いだせるだろう。

 人は何かを失ったとき初めてその大切さを知る、なんて陳腐な言葉がある。そして自分の命は1つきりで、失ったら取り戻せない、と多くの人は思い込んでいる。
 確かに、生命に関してはその通り。けれど「自分」に関して言えば、そんなことはない。これほど簡単に捨てられるものはないし、これほど簡単に得られるものはない。生きている限り、自分とはそういうものだ。

 これで文章を終わってもいいけど、誤魔化したまんまは気持ち悪いので蛇足。ホントのことを言うと、子供だってすべきことは何一つない。あるのは、何がしたいか、というただそれだけだ。僕はそう思う。

2011年6月3日金曜日

しばらくは6月が続く見込み

誰かに対して「理解出来ない」と言うのは大概の場合「理解してくれない」に過ぎない。
この場合の「理解してくれる」状態とは、自分に従ってくれるか、さもなくば文句を言わないということだろう。
つまり「思い通りにならない」という嘆きが「理解出来ない」という言葉に変換されているのである。

逆に言うと「理解できる」ならば「思い通りになる」と考えているのかもしれない。
その結果、思考も行為も範囲を限定されるのではないか、不自由になるのではないか、なんて想像をする。
多分言いすぎだ。

ところでグーグルさんが「+1」ボタンを実装し始めた。むしろ「-1」ボタンのほうが欲しいと思ったので、ブログに実装してみた。
押すと僕が1機減ります。ご自由にどうぞ。

2011年5月20日金曜日

リドルな日常

今日は芥川龍之介の「藪の中」という小説を読んだ。ある殺人事件について関係者の証言で組み立てられた話なのだが、その中で容疑者・目撃者・被害者(!)の証言が一致しない。ではその真相は、というと小説は真相を明らかにしないまま終わってしまう。いわゆるリドルストーリーである。

この小説は全て証言で綴られている。したがって、誰の証言を信用してもなんらかのストーリーを補完できるし、極端な話証言のすべてが嘘ということすら可能である。小説内で一応確からしいのは、関係者がそういった証言をしたというただそれだけなのだから。

僕はこういう話が好きだ。なぜなら推理小説の推理の部分を飽きるまで楽しめるからだ。推理小説をプラモデルに例えると、推理部分は組み立てであり、解決編は完成したプラモを眺める段階といえる。
リドルストーリーの中にも理詰めで作者の用意した完成形に辿りつけるものはある。「笑わない数学者」などもその一つだろう。
しかし「藪の中」は上述のように確定しないことが確定している話である。プラモの例えを少しずらして改めて言うと、レゴブロックみたいなものだ。それぐらい自由度があると思う。


しかしこういうレゴブロックで延々と楽しめるのは判断を迷いやすい証拠と言えるかもしれない。現実に不確かな情報しか得られずに判断を迫られたとき、僕はよく延々とブロックを組み立てて、崩して、組み立てるのを繰り返してしまう。
今日の夜もそうだった。
友人であるマツダがTwitterでこんなことを呟いた。
「これが本当だったらひどい http://(以下省略)」(当該ツイートは消されているため記憶による不確かなもの。表現が違っているかも)
なんだべかとリンク先を見てみると、人権問題の新聞記事の画像が出てきた。しかしページにはいくつかコメントが付けられており、それによるとその画像はネタらしい。
脊髄反射で僕はマツダにネタ元のURLをTwitterで送った。そしてしばらくすると返信がきた。
「@mizoken なんかイラッとした」
そして連投。
「ので消す」

最初、素直に「ああ、ネタだということに気づいてイラッとしたのか」と思ったが、ふと疑問に思う。
もしかしたら、もともとネタだと理解していて、それなのにわざわざネタ元を言われたことに対してイラッとしたのではあるまいか。
十分ありうることである。では謝るべきではないかと思い、しかし再び立ち止まる。もし前者が正解だった場合、謝られたら不快に思うのではないだろうか。だが「後者だとしたらごめん」みたいな周りくどくかつ反省に半信半疑の状態で謝罪するのは果たして正しいのだろうか。
そんなことを延々と考えていたら1時間くらい過ぎていた。
本当に面倒くさい人間だと思う、自分が。

とりあえず僕はリドルストーリーは好きだが、リドルストーリーのような現実はめちゃくちゃ苦手だ。わかる人にはわかる、という表現の殆どは僕にはわからない。
しかし唯一現実が小説よりも楽なのは、証言をいくらでも増やせることである。それが証言に過ぎないというのはどこまでも一緒ではあるが。
そんなわけで、これを投稿したらマツダに聞いてみようと思う。結局、丸投げである。

2011年5月16日月曜日

信じないでみる

思うところあってTwitterのフォロワー増減を調べてみたくなった。
しかし、増加ランキングはあったけれど、減少ランキングみたいなものはなかった。
そんなわけでここを参考にトップ10の増加数の推移をグラフにしてみた。
予想したとおり、震災直後からするとだいぶ落ち着いてきた様子。もっとも、これはあくまでトップ10の数の推移であって、ここから全体が直ちに導けるわけではないので注意。

で、最初に何を思ったかというと、震災初期はどこに自分が必要な情報があるか調べるけど、その段階ってもうとっくに終わってるだろう、ということ。つまりもう人それぞれ自分が必要と思う情報源を確保しているだろうという予測。
これは4月の時点で思っていて、だから、自分のような少数のフォロワーしかいない人間が何かを拡散してももうあまり意味が無いと判断した。

でも、こうなるとすなわち沢山の集団群が出来上がっていることになって、そしてその集団群の情報交換は少なくなっているだろうと推測できる。自分が属していない集団の情報が聞こえてこない、あるいは聞こえてきたとしてもなんらかのフィルターにかけられて届くとした場合、集団同士に存在する矛盾が認識されないか、あるいはかなり歪んで認識されることになる。

震災直後、僕らは圧倒的な量と質(それも悲惨な)の情報で、もうそれだけでくたくたになってしまうほどだった。そういうとき、信頼できそうな情報源を絞って選択するというのはだいぶ有効な手立てだけれど、はたして今もそれで良いのだろうか。
むしろ今こそ、自分の情報源を疑い、検証してみるべきときなのかもしれない。
まあ、そんなことを思いましたとさ。

2011年5月10日火曜日

方法の決定は傾向の指定

 集団によって何かが選択されるとき、多数決がとられることが多い。最も得票数が多い意見を採用とする方式で行われる場合、もしなんであれ自分の意見を通したいのであれば、その集団において一部に利益が傾くように意見を設定するのが良い。その一部というのが過半数を超えていなければならないが、そうすれば最も票を得られる可能性が高い。
 利益が傾くということは、どこかに損が生じる。通常は集団の外部に損をさせて内部の利益を得るのが一般的だと思われるが、そもそもその構造を集団が持っているのだから多数決をするという段になって改めて多くの利益を外部から徴収する仕組みを作り上げる、あるいは提案するのは難しい。しかしすでにある内部の利益を偏らせるのは比較的容易であり短期間で可能である。
 集団に属する者の多くは、自らに得られる利益こそが重要であり、その利益の出所など二の次である。

 このようなあり方で行われる多数決の場合、最も多くの票を集める意見が集団内で最も多くの不利益をもたらすことがままある。100人が50円得するために10人が一万年損をする。しかし、100人の者たちの意見も10人の者たちの意見もそれぞれ1ずつしかカウントされない。そういう構造が一番分かりやすくよく見られるのは選挙のときだろう。

 では集団内でそのような不利益や偏りを出さないためにネガティブな票を入れられるようにし、投票された総数からその分を引くようにしたとする。するとどうなるか。毒にも薬にもならない意見が採用される、と思いたいところだがそれはありそうにない。なぜなら集団に属する殆どのものが自らの利益を第一に考えており、その意見は集団に属する何ものかが発したものだからである。
この場合ありえそうなのは、議論されてもいない新たな偏りが生じるであろうという予測である。そしてその偏りは10人に十万円をもたらし、100人に千円を払わせるようなものであることも十分にありうる。
それであれば、十分議論され認識されている、集団内で最も不利益をもたらすと思われる意見を採用した方が良い、ということも考えられる。もちろんそんなことはないということもあるが、十分認識されているのであればその対策もしやすいからである。それに最も不利益を被る集団内の集団が多いのであればその対策を大きくしやすいし、その集団内の集団を構成する条件が自明であるほどまとめることが容易である。

さて、こういった意思決定の構造を個人の内面に当てはめてみる。自分の中の多数派は、少数の内部を犠牲にしてはいないか。また、犠牲を恐れるあまり十分にそのメリットデメリットを考えられていない意見を採用してはいないか。
あるいはそこから少し離れて、自分の現状を作り上げた意思決定の方法はどのようなものか、他にどのようなものがありえたか、などを考えると、もしかしたら客観に近づけるのかもしれない。

そんなどうでもいい話。

2011年4月26日火曜日

仕事も家も身体ではない

昨日の件について、家の喩えがなんとなくしっくりきたのでもう少し考えてみる。
住んでいる場所に不満があるならどうすればよいか。自分だったら、第一に別の住処を探すだろう。それに結局どこに住んだって生活に大差はないと考えている。たぶん僕だったら、住む場所がどこでも室内をどうしようもなく散らかすだろう。それは誰と住んだって一緒。そうであれば散らかしても文句を言われないのが良いし、つまるところ一人がベストだ。
しかしそうもいかない境遇というのも想像できる。例えば養うべき家族がいれば、住む場所を変えるのは容易ではない。その場合環境を改善するのがとたんに困難になる。もしそんな立場に追い込まれたら、自分ならやはり別の住処を持とうとするだろう。けして出ることができない、離れることができない家というのは不自由で好ましくない。


だが多くの人にとって理想の家庭を築くことはそれだけで十分価値のあることとされているように思う。理想のために不具合が生じる。不具合を受け入れるために理想が育まれる。不具合を理想のためにあるものと仮定すると、それはまるで未来のための貯金のようだが、果たして万人がそれに見合う理想を手に入れられるのだろうか。
想像するに多くの場合、不具合と理想、現実と理想の境界がいずれ曖昧になり、まるで明日の不具合を手に入れるために今日の不具合を引き受けるというようなわけのわからないところへ陥ってしまうのではないだろうか。


どうしたら状況はよくなるだろう。みんなが複数の住処を持てばある程度は緩和されるかもしれない。一つしかないという状態、選択肢のない不自由さが人を追い詰める。複数のものを実際に持つことの利点は、それ以外のものも持ち得るという確かな想定が可能となることだ。
結局、人間同士の摩擦が一番面倒という話。あれ、そんな話だったっけ。

2011年4月25日月曜日

ここは地獄だと彼女は言った

同僚の胃がストレスでやられた。この職場のせいで、と彼女は言う。その訴えは僕にとって意外なものだった。
彼女は同僚とは言え厳密な所属と勤務時間帯が異なるため、環境が同一とは言えない。従って僕と彼女の持つ職場に対するイメージが多少ズレているのは当然なのだけど、それにしてもあまりに違いすぎる印象を受けた。

僕にとって、現在の職場は天国のようなものだ。基本的に仕事が少なく、作業を急かされることもない。また、多少ミスをしたところでリスクは殆ど無いし、だから請け負う責任も微小だ。仕事がないときは本を読んでもいいしネットを巡回してもいい。けして誰からも怒られず、誰からも責められない。こんなことで賃金を得てもいいのかと申し訳なくなるくらいに楽な仕事だと思っている。当然、ストレスなんかとは無縁だ。
彼女と僕との認識の差異は、上記の僅かな環境的要因を除けばおそらく次のニ点によって生じていると思われる。

一点目は過去の経験との比較。僕は前職の環境が真っ黒だった。朝七時に出勤し、帰りは終電。一つミスを犯せば意味のない会議が始まり、3時間は簡単に潰れる。基本的に、誰もが誰かを悪く言い、その刹那的な連帯感でチームが保たれる。10人のチームのうちどこも体を壊していない人は4人。実際過労で死んだ人もいる。まあ、そんなところ。
だから今の職場に多少の不満や改善すべき点があっても、なおユートピアのように感じられる。一方、彼女の前職がなんで会ったのかは知らないけれど、ここと同等かそれ以上に優遇された職場だったなら、ここが地獄のように感じられることもあるのだろうと想像する。

もう一点は、職場と自分との関係性の違い。僕はこの職場を一時的なものと捉えている。だから多少自分の理想や思想と異なる運営がなされていても、結局ここに残り続ける人の希望が優先されればいいと思っている。つまり僕にとってはビジネスホテルかあるいはせいぜいアパートのような借宿でしかない。しかし彼女にとってはそうではなく、ずっと勤めていくということはないだろうが、具体的な将来の展望がない状態なのではないかと思われる。理解のために極端化すれば彼女にとってここは家なのである。そうだとしたら、確かに小さな不満も許せないかもしれない。その観点に立てば、怒りや不満やストレスもある程度妥当に思える。

僕から見たら彼女は職場に期待しすぎているように見える。でも、だからといってその期待が全く排除される組織は間違っているようにも思う。彼女の期待は真っ当だ。ただ現実的ではないというだけである。望むのは構わないが、望みなど果てがないということを理解したほうが良いとも思う。つまり、その生き方はとてもつらいのではないかと思うのだ。
やるならもっと計画的に、戦略的に。不満を吐き出し、仲間を作り、改善を期待するのはやり方が好ましくない。それでは赤子と一緒ではないか。
それともその自分のあり方に自覚的ではないのだろうか。


まあ、結局のところ、彼女にあれこれ言っても仕方がないと思う。仕事というのは必ず嫌なことを引き受ける部分が出てくるものだ。他人の愚痴、不平不満に耳を傾けるのもそういう部分に当たるのかもしれない。それによって問題が解決されるかどうかなんて関係がないわけだ。

うーん、それでも、仕組みごと何とかして、解決する方法はないものかと考えてしまう。彼女の苦しみに類似した構造はそこかしこで見受けられるし。うーん。うーん。