そう、世間的にはすっかり夏だ。今年の夏はなんだかやたら暑いので、ついついエアコンのスイッチを入れてしまっている。去年まではほとんど使わずに乗り切っていたのだから、ひょっとして例年より十度くらい気温が上がっているんじゃないだろうか。何を馬鹿なことを言っているんだ、こいついよいよ脳が限界を迎えたんじゃないか、だったら早く病院に行くか首括るかしろよ、まあでもめでたい事だよね社会不適合者が一人減るんだし、ともしかしたら思われるかもしれない。しかしこういうふうに自らに与えられる条件をより悪く見積もることで、エアコンのスイッチを付けることの罪悪感を軽減できるのである。いわば、ネガティブおばあちゃんの知恵袋だ。ほら、老人はよく言うではないか、「私も老い先短いのだし、お願いだよ」みたいなことを。あれと、たぶん大体一緒だ。
あ、あとさっき僕に死ね的なことを考えた人は申し訳ないですけど訴訟しますんでご一報ください。
そういえば最近は、友人に勧められて百鬼夜行抄という漫画ばかり読んでいる。主人公の律という青年が霊的なトラブルに巻き込まれつつなんとかそれを解決する、という感じの一話完結の物語であるが、なぜ自分がこんなにもこの世界に惹かれるのか考えてみる。
妖怪というのは人間の主観が生み出すものであり、理解出来ないもの、受け入れがたいものに形を与えた結果のものである。あるいは現象から自らの主観を切り離し、それ自体に主体性を付与させたものである。そこにはあらゆる勝手な解釈が許され、そして人間の責任の投棄が許される。人間が負うべき責任があるとしても、それは例えば物の怪との約束であったりして、それを守らなかったことは非難されうることだが結局大元には物の怪という理不尽があるので、どう考えても軽微である。この、現実の社会に比べれば。
妖怪も神様もフィクションで平等と自由が前提であるこの社会においては、自らのありとあらゆる責任が自分のものとなっている。それを受け取らないこと自体が批判の対象となる。ここに生きる殆どの人間が、そもそも自ら望んでここに生まれてきてはいないという前提をなかったことにしている。それはそうだ。そんなもの、嫌なら死ねという一言で片が付くものだから。でも、それって自分だけで背負えるような軽いものか、と思う。あるいは、自分ひとりで背負いたいのに、それは出来ないように設計されていないか、と。
まあ、とどのつまり、自らの責任を放棄したい甘えが、この妖怪のいる世界への憧れに繋がっているのだろうと分析される。就職しても相変わらず、というか就職してますます露見される自らのヘタレっぷりにぷりぷりぷうぷうですよ、もう。