2016年3月29日火曜日

もなかの話

 2016年3月26日、母から電話があった。もなかが亡くなったという。スピーカ越しに嗚咽を漏らす母の声は、それがもうどうしようもなく事実なんだということを突きつけた。
 もなかが我が家にやってきたのは、14年前の9月だった。でも、もなかとの繋がりをちゃんと記すために、話はもう少し遡る。2000年2月、僕の父は亡くなった。大腸がんだった。僕はまだ中学2年生で、その一連の出来事を上手く処理できないまま、普通に友人らと会話したり、勉強したり、教室の隅っこに座ってぼんやりしたり、要するに不安定な毎日を過ごしていたように思う。幸い、性格的なものもあって、外部に対して発散したりということもなく、ときどき無気力にはなっても、学校を休んだりするほどではなかった。
 そんな感じで日々は過ぎて、仲の良い長男は大学進学のため家を出て、仲の悪い次男は大学受験を控えストレスを募らせたりしていた。母は建設会社の事務として働くようになり、僕は、高校1年になった。高校は自宅から13kmくらいの距離で、自転車でだいたい30分程度。家に帰ると誰もいないことがほとんどだったけれど、それまでの数年で色々あったので、徘徊し出す祖母を食い止めたり、看病に疲れた母と次男がケンカし出したりみたいなことが無い平和な孤独が、僕にとっては居心地が良かった。
 しかし、ある日、その状況にも変化が訪れた。1頭の犬が我が家にやってきた。名前はナナコ。母の勤務先に居着いた犬で、事務所が休みの間、職場の人で順番に世話をすることになったらしい。ちなみに名前の由来は松嶋菜々子で、僕はその発想に少し引いていた。いや、ナナコに悪いところなんて何にもないんだけど。
 ナナコが家に来るようになって、僕は家にいるのが少し好きになった。昔からずっと犬を飼いたいと願っていた。けれど祖父母が犬を飼うことに反対していたから、それは実現できなかった。いろいろ考えると、まあ複雑な気持ちにはなるし、僕という人間は暇を見つけては無駄なことばかりいろいろ考えるから、総じて面倒くさいんだけど、ともあれナナコはかわいかったし、お座りとかお手とかいわゆる芸の類をほぼできるくらいに賢かったし、楽しい日々は続いた。
 そして9月になって、ナナコは子供を産んだ。お相手はどこぞの野良犬だろうけれど、そんなことはどうでもいいことだ。大事なことは、このとき、もなかが産まれたということ。2002年9月15日。白と茶色の混じった、僕のもなかが産まれた。
 母の勤務先の取り決めによって、従業員がそれぞれ子犬を引き取ることになって、うちにも1頭犬が来ることになった。どの子を引き取るか選んで良いということで、土曜日に母の勤務先へ着いて行った。ネットで調べたら、声をかけてみてすぐ近寄ってくる子が良いということだったので、僕はそれを実践しようと思っていた。でも、そんなの、全然意味がなかった。僕は、数頭いた子犬を見て、すぐに、もなかが好きになったし、もなかを呼ぶためのテストはしたけど、そんなのもうただの遊びだった。そういうわけで、もなかが我が家にやって来ることになった。ちなみにもなかという名前は、次男が考えた。理由はよく分からない。でも、よく似合う名前だったので、そう呼ぶことになった。
 もなかが我が家に来て数日、夜になるとナナコが家に来るようになった。どういうことかというと、子供に会いたいナナコが事務所を脱走して、20分くらいの道のりを走り、僕んちにゴール、みたいな。そして翌朝母と一緒に出勤、夜には再度脱走、その繰り返しだった。個人的には、ナナコも大好きだったので、至れり尽くせりというか、子を思うナナコの気持ちも汲んでやりたいし、いっそ2頭とも家で飼えばいいのにと思っていたけれど、結局ナナコは別の従業員の方が引き取ることになり、それ以来、ナナコは家に来なくなった。子を全てちゃんとした家に引き取られて、自身も立派な家で飼われることになって、けれど人間の事情なんか知らないナナコにとって、それはあまり幸せなことではなかったかもしれない。その後、ナナコが夜脱走を試みていたかどうか、知らないけれど、きっと、ナナコもそれから幸せに生きていったと、僕は信じている。
 ともあれ、ナナコが家に来なくなってどうなったかと言えば、毎夜、もなかが、寂しげに鳴くようになった。あんまり寂しげなので、僕も毎夜、もなかに付き添って眠ることになった。大丈夫、大丈夫と撫でながら、数日間玄関で過ごした。そうして夜を過ごし、朝を迎えていくうちに、僕らは本当に家族になったんだと思う。いつの間にか、もなかの夜鳴きは治まって、もなかは「もなか」という名前に慣れていった。

 もなかは、とても臆病で、雷と、花火と、郵便配達員と、隣の家の犬と、グレーチングと、母の怒鳴り声をとても恐れていた。特に雷と花火は、半狂乱になって、何度か脱走してしまったほどだ。一度、もなかが脱走したまま戻らなくなって、夜中に探し回ったことがある。隣人も手伝ってくれて、1時間くらい探してから、結局、自宅の裏で縮こまっているのが発見された。あのとき、どんなに不安な気持ちで名前を呼んで歩き回ったか、見付かってどんなに嬉しかったか、きっと、もなかには全然わからないだろう。「お前は馬鹿だな」と言いながら撫でたことを思い出す。もなかは、ただ、撫でられて喜んでいるようだった。本当に馬鹿で、最高なやつだった。
 もなかと一緒にいると、大抵「もっと撫でて!」「もっと遊んで!」と精一杯絡んでくるので、僕は概ね幸福だったけれども、反面、無駄にいろいろ考えるため、不安がいつもあった。もなかは、いつも呼吸が速かった。鼓動も僕よりずっと早くて、それは犬にしたら当たり前のことなんだろうけれど、その犬の当たり前が僕にはたまらなく嫌だった。「もっと落ち着いて、ゆっくり過ごそう」と何度も提案した。もちろん、それは伝わるはずもなく、最終的にいつも僕らは馬鹿みたいに遊んだ。
 もなかは、手を振りかざして物を投げる振りをすると、何度でも騙されて見えない軌跡を目で追った。それが面白くて、僕は何度からかったことだろう。もしかして逆にからかわれていたんじゃないかって疑うほどだ。

 僕はその後、高校を卒業して上京した。東京に来て一番寂しかったことは、実際、もなかがいなかったことだと思う。4月を終えてゴールデンウイークには、だからすぐに実家に帰って、もなかを抱きしめた。もなかは、相変わらず全力で撫でたり遊んだりすることを強要してきて、ただただ可愛らしかった。
 実家に帰れば、面倒くさい人間関係のあれこれも、将来のなにがしかも、一切関係なく、何も言わずにさあ撫でろ!とはち切れんばかりに尾を振るもなかの存在に、僕は今までどれだけ救われてきただろう。このクソ面倒くさくて、ダメダメな自分を、ただそのまま受け入れて愛してくれたもなかに、僕は、ただ、感謝している。
 僕が今まで生きてこられたのも、このほとんど価値が無い人生が多少なりとも楽しかったのも、その多くは、もなか、お前のお陰だ。本当にありがとう。

 先週、最後にあったとき、お前はほとんど弱り切っていて、それでも僕の姿を見て、体を起こし、撫でることを要求してきてくれた。しばらく撫でて、それから一旦別のところへ行き、もう一度もなかの元に戻ると、お前は、いったいどうやったのか、首輪を外して近寄ってきた。だから僕らは、もうゆっくりとしか歩けないお前の速度に合わせて、ゆっくり、ゆっくり、庭を歩いた。日差しが暖かくて、僕は、去年一緒に見たグラウンドの桜を思い出していた。狭い庭を歩いて、疲れた様子だったので、僕は家に戻らせようとしたけれど、お前はそれを嫌がった。でも、僕がかがんで手招きすると、お前はいつものように、近寄ってきた。だから僕もいつものように撫でてやった。
 それが、僕らの最後の散歩だった。

 もなか。お前がもういないということが、僕は本当に辛い。でも、お前に言えることは、14年間、こんな自分と一緒にいてくれてありがとうということだけだ。お前が、自分の生涯をどう評価したのかはわからない。不満はあったかもしれない。別の家で過ごしていたら、もっと幸せだったかもしれない。だけど、もなか。そんなことはきっとお前にも、僕にもどうでもいいことで、お前は撫でられれば幸せそうだったし、僕はお前と過ごせて幸せだった。僕らの、あの日々は、幸せだった。それでもう、十分だろう?
 もなか、今までありがとう。
 もなか、さようなら。

2015年2月2日月曜日

理屈は道具

 理屈などというものは道具に過ぎない。何かが間違っていると感じるならば、理屈によって間違っているのではない。ある状態を指して間違っている、あるいは変えなければならないと衝動を直感しているだけなのだ。それに対して正しい理屈など追求したところで、状態がそのままならばなんの解決にもならない。しかし人は、苦しいときほど理屈に縋ろうとするように見受けられる。それを理屈によって解析するならば、状態を変えるほどの余力がないから対処療法的に理屈をあてがっているということだろう。状態を肯定できる理屈を構築することは、状態を変更することに比べて容易だ。しかし、状態が変わらなければ、苦しさもまた変わらないだろうし、いずれ破綻するだろう。
 理屈というのはありきたりの表現をすれば麻薬であって、つらい状況に対して一見解決のような爽快感を与える。しかし状態が持続すれば常に理屈が必要になり、最終的には自己否定の理屈へたどり着く。バッドトリップのような自己否定と、幻覚のような明るい理屈を繰り返すのは全く健全とは言えない。むろん、その循環を“生きているだけで素晴らしい”と絶望的に明るい理屈で肯定することは可能だが、いったい、それがなんになるというのか。
 有用な理屈とは、状態の変化を促すものだけであって、正しい理屈という言葉が意義を持つのは状態が改善されたという結果に飾られているときだけだ。そのときにおいてさえ、理屈によって状態が変えられたとするのは言いすぎだ。その都度その都度、条件によって理屈は変わって良い。逆に、どんなに言い返せないような理屈であっても、それが状態に何ら影響を及ぼさないのであれば、そんなものは捨て去るべきだ。
 現状がつらいのなら、理屈によって苦しいのではなく、理屈を求めても解決はないということを自覚すべきだ。また、現状に対して実行可能性のない理屈を主張されたとしても、どんなにそれが理に適った言葉であっても、馬鹿かお前はと捨て置いて良い。
 重要なのは、「すべき」という理屈ではなく、「したい」という意思だ。それを常に忘れずにいたい。

2014年6月28日土曜日

dp2qをてにいれた!

カメラによる最大のメリットは、得られる画像なんかではなくて、画を探す意思を持つことだと思う。
とは言うものの、dp2 quattroはどうしようもなく最高で、最高だと思える道具を使えることは大変恵まれた状態だと思う。
・・・たとえ20ヶ月に及ぶ支払いがこの後に待ち構えていようとも。

そんなわけで、愛しの犬猫をカメラで撮るために、週末は実家に帰った。


猫の寝姿がいつもの2倍愛らしく見える。quattroならね!
それはともかく、そろそろ夏なのだから人の上で眠るのはやめて下さい。
いや、嬉しいけど。嬉しくはあるけど。


犬と散歩中、撮影。



この季節と言ったら、この花というイメージがある。
蜜が甘いし、友達が蟻を誤飲したときの表情が忘れられない。


グラウンドでは大抵リードを外してあげる。
誰もいない僻地だからこそできる贅沢だ。


飛行機が飛んでいたので、慌てて撮影。
とっさのことだったから、モノクロモードのまま。
まあ曇り空だったから、いいけど。


とりあえず、本日は以上。

2014年6月27日金曜日

夜中の文章

目を閉じれば自由
現在は、常に頭のなかで構築されて、遅れて顕れる
それを少しずつ遅くする
現在は延長される
あるいは離れていく
更に遅くする
もはや外界との関係を思い出せないほど
遠くする
そうすればきっと思い出す
自分の自分に対する責任を思い出す
そして自由を思い出す
さて、目を開ける
一体条件がどれだけ変化したというのか
結局現在を構築する責任は変わらず
自由は離れがたくそこにある

2014年6月17日火曜日

超光熱視線

 方々で言っているので、ここでも以前書いたことがあるかもしれないが、僕は「皆様の応援のおかげで」みたいなリップサービスは馬鹿らしいと思っている。何が気に喰わないのか分析してみるに、まずファンの応援と結果は当たり前だけど相関関係がない。士気の高まりというのはあるかもしれないが、個人の能力に比べてあまりにも瑣末な要素だ。もちろん、そういったことは言わずもがな、言わぬが花という暗黙のうちに乗り越えるべき不合理なのだろう。しかし、それを置いておいたところで、依然として不愉快である。なぜならそのリップサービスを理由として、ファンはより一層の応援を頑張るからだ。別に、誰が何を応援しようと構わないが、その勢力が大きくなればなるほど、騒音が増し、鬱陶しくなる。従って、鬱陶しさを助長するような発言をやめていただきたい、ということだ。

 しかし考えてみると、世の中の商業的なスポーツの類はファンがいなければ、たとえバックに親会社があろうとも成立しないものである。つまり、「(今日のプレーは日々の練習と、自らに備わった才能の賜だが、それを成立、持続させるためには諸経費がかかり、それを負担する親会社は最終的にお前らから金を貪るために我々を必要としているので、結果的に)皆様の応援のおかげで」ということか。ずいぶん長いな。
 まあ、長くはあるが、そうまで言うならファンのおかげでということでも良い。しかしそれは、今日自分が生きているのは太陽のおかげだ、というのと同じことだろう。それ自体間違っていないが、そこをありがたがりすぎるとちょっと危ない人だ。
 そんなことを考えて、さらに、じゃあもし太陽を自分のファンと思い込んだらどうかというところまで妄想してみた。太陽が僕のサポーター・・・?毎日、日の出ているうちはずっと観戦されているのである。それで、「おいおい、その文章はないだろー」「うわ、今、同僚(女子)にドン引きされたぞ」「もういいよ!俺にやらせろ!」みたいなことを絶えず言われている。太陽に。すごい鬱陶しい。
 ああ、そうか、この鬱陶しさを与えられながら、それでも尚、「皆様のおかげで」と言えるのは、それ自体とんでもなくすごいな。とっても立派だ。僕なんか、太陽死ね!って思ったもの。勝手に妄想したくせに。

 そんなわけで、スポーツ選手たちはすごいなあと思いました。

2014年6月9日月曜日

正しすぎる人たち

 良いか悪いかは状況によって異なる。だからある人間が、良い人か悪い人かも状況によってことなる。状況は時間によって変化する。従って、ある人間が良い人かどうかは時間によって変化する。
 そして日本における一日の大半の時間は、良い人のほうが多い割合で存在すると思う。それだけ豊かだと思うし。でも、実際のところ、どうなんでしょう。
 そもそも人間が良い人であるためには何が必要だろう。法律が順守されていて、もっと小規模なコミュニティのルールも守られていることは必要そうだ。厳密に言うと、前述の2つが守られているとき、そのコミュニティにおいてその人は良い人と見なされる、という感じだろうか。
 そうすると、良い人が多いとは、成立し持続しているコミュニティが多いことを意味するんだろう。また、一人の人が多くのコミュニティに同時に属していることも重要だと思う。なぜなら人にはそれぞれ適正があるので、参加できるコミュニティが多いほど、適正に叶う可能性も増えるからだ。

 さて、こんな事を延々と書き続けるのも何なので、入るべき本題を探そう。いや、今回はタイトルを先に決めたので、入るべき本題は既に決まっていて、あとはどうやって侵入するかというだけの問題なんだけど。
 ネット上でよく見かける炎上マーケティングについて。あれに対し、スルースキルを身に付けることで、くだらないものを駆逐すべきだ、話題にするだけ餌を与えることになるから、と思っていたけれど、たぶんそれってムリだろうなと感じた。
 くだらないもの、わざと話題に上るように意図された誤謬は、意図されたとおり沢山の人の正義感に火をつける。しかし冷静に見てみると、そういうとき一番得をしているのって、一番正しそうに正義を振りかざした人のように思う。得って言っても、みんなの注目を集めるとか、賛同を得るとか、そういうものだけど。
 そうやって得をし続け、そのコミュニティで有名になっている人も多い。それが自覚的であれ無自覚的、あるいは結果的にそうなってしまっただけであっても、周囲からみたときそれがあこがれの対象となってしまっている場合が多い。
 普通、人は憧れたものを真似してみたり、応援しようとしたりする。
 そんなわけで、炎上マーケティング関連というか、ああいうのってむしろ正義グランプリみたいなものになっていて、彼らは炎上マーケティングを行っているんではなく正義グランプリを開催して、そのおこぼれを日々の生活の足しにしているように見える。

 そういった商売の手法が小規模では成立するので、正義グランプリは日々開催され続ける。考えるべきなのは、バカをどうやって出さないかではなく、正義をどうやって鎮めるかということではないだろうか。
 どうしたら、正義は鎮められるのか。一つには、フィルターを掛けること。この先生体情報の管理を端末から行うようになれば、システムの側で「この情報の閲覧はあなたにとって不快な思いをさせる可能性が高いが」というような警告を出すようにするとか。
 しかしこれに関しては、人が任意で選択可能なものにすると、うまくいかないようにも思う。なぜなら人は正義を示すの大好きだし、何かを非難してそれを共有したいし。
 どうしたらいいんだろう。もう少し考えてみようと思う。とりあえず、今日はここで。

2014年6月6日金曜日

気持ちは伝わってしまうが、言いたいことは伝わらない

 タイトルで終わりにして良いくらい、それだけのことだけど一応このテーマで書いてみたい。たまに、気持ちは伝わらない、なんて言葉を目にする。でも、面と向かって話をすると気持ちだけが伝わってしまい、話は伝わらないということの方が圧倒的に多い。気持ちに関する情報は、人間が対面して話をする時、もの凄く多い。表情も目も言葉の調子も、タイミングも仕草も、そのほとんどが気持ちを表してしまう。逆に、これを隠すのは非常に難しい。よく知った相手ならなおさらだ。気持ちなんて、本来的に伝わってしまうものであり、コミュニケーションの殆どの部分は気持ちのやりとりである。言いたいことなんて相手にとってみればウォーリーを探すより遥かにハードなことである。
 では、こうして文章を書けば言いたいことが伝わるかというと、それもまた困難である。なぜなら普通、日常において気持ちのやりとりでのコミュニケーションが強く強化され、それに合わせた言葉の装飾が訓練されているからである。つまり、いつもは気持ちによって補完された言葉の応酬をしているのに、いきなり文章だけで言いたいことを伝えろと言われても難度が高過ぎる。読む側も言葉しかない中から気持ちなんてものを探すので、コミュニケーションはベリーハードである。

 翻って自分の場合、気持ちはなるべく伝えたくない。むしろ隠したい。言いたいことだけ伝えたい。そう願っているが、どうしたって気持ちは伝わるし、言いたいことは歪んで送られる。相手の気持ちを理解しろ、と世の中ではよく言われる。気持ちを理解することが優しさであるとされている。しかし僕にとっては、気持ちを無視してくれるのが優しさだ。どうか僕の気持ちを考えないでくれと思う。

 とまあ、こんなことを書いていて気付いたけれど、ここに書かれていることは、ここで書こうとしていることは、ひょっとして僕の気持ちじゃなかろうか。つまるところ、僕は、受け取って欲しい気持ちだけを受け取れ、と望んでいるにすぎないのではないだろうか。
 じゃあもう、気持ちは汲んでくれなくていいし、この文も読んでほしくないし、こんな文は書かなければよかったな。それがわかっただけでも、これを書いた価値があるな。