2014年4月22日火曜日

むりくりハイパー

 また、性懲りもなく日記を書き始めることにした。たぶん三日坊主、と書いてしまうことで、書かなくなったときの精神的予防線を予め張らないと気が気でないヘタレですよ、どうも。
 4月になって、また一人暮らしが始まった。久しぶりに味わう一人っきりの開放感たるや新たに築かれつつあるゴミ王国に対する嫌悪感・罪悪感をものともしないほどだ。まあ、そんな開放感があろうとなかろうと、王国はできあがってしまうものだが。
 とは言え、3週目に入ってそろそろ飽きがくる。冷静になって見渡せば、開いた缶詰、お菓子の空袋、段ボール箱、割り箸。家を留守にしている間は、誰がどう見ても人の住めない汚部屋である。

 それはさておき、今回も隣人が歌をうたう人だった。しかも夜中に。頻度はあまり高くないが壁が大した遮音性を持っていないため、有り体に言えば不愉快である。なぜいつも、自分の部屋の隣人は歌うのか。ひょっとしたら、隣人が自らの意志で歌っているのではなく、僕が歌わせているのではないか。あるいはダンサー・イン・ザ・ダークみたいな感じで、本当は隣人は歌ってなどいないのではないか。隣人の歌などというものは僕の生み出した幻聴で、もっと言えば隣人などという存在そのものも、ああ、もういいです。
 そんな妄言はさておき、隣人の歌とはどうしてこんなに不愉快なのだろう。例えば電車の中で歌を口ずさむ不思議な人は多少いるとは思うが、僕はそれをそれほど不愉快に感じない。あるいは家の前を誰かが歌いながら歩いていても、顔を軽くしかめる程度だ。だが、これが毎日だったらどうか。あるいは、歌ではなくお経だったらどうか。
 特に文章の向かう先も決めぬまま、惰性ではあるが条件を更に変えてみる。もし、これが自宅ではなく、カラオケBOXだったらどうか。きっと隣人は、僕があからさまに不愉快な顔をし、あまつさえ壁ドンなんてやり始めたら、殴り込みにくるかもしれない。では更に、隣人が隣の部屋などという隔たりを持った場所ではなく、僕のすぐ隣で歌い始めたらどうか。僕には、壁ドンならぬ腹ドンをする勇気はない。僕に彼を止めるすべはない。であればもう、事態を受け入れ、順応するしかないのではないか。つまり、ユニットのできあがりである。伝説の始まりだ。目指せ武道館。何を書いているんだ僕は。

 しかし、思うのだが、もし隣人が僕の好みの曲を歌ったら、多少下手くそでも許容できるのではないだろうか。万が一頭がオカシイほど僕の機嫌が良かったら一緒に歌い出すことだってありえないわけではない。そのときはぜひ僕のところに救急車を寄越してもらいたいが、ともあれ、そういう入居条件があっても良いのではないか、ということを僕は言いたかったのだ!!え、そうだったのか、と僕自身戸惑って、5分くらいキーボードを打つ手が止まっていたが、つまりそういうことだ!
 遮音性の高いマンションを増やすよりも、趣味が合う人間を集めるという方向のほうが、日常が楽しくなるのではないだろうか。さらに状況を拡大させてみる。今、日本はある程度どこへ行っても大体同じような生活を送ることができる。田舎と都会はその度合を、可能なこととそうでないこととで測ることがほぼできてしまう。そしてそれはほぼ一直線だ。そうではなくて、もっといろいろな方面に特化した集合を形成していくべきではないか、というかそのほうが楽しいんじゃなかろうかと思うのだ。あらゆる公共スペースがミュージカルみたいな状態になる街とか、一切自動車を受け付けない自転車一色の街とか、あらゆる場所があらゆる落書きで埋め尽くされて常にペンキの匂いが漂う街とか、街全体がひとつの建物になってしまっている街とか、そういう極端な集合が結構な規模で存在する街があってもいいんじゃないかと思うのだ。それは経済効果云々じゃなくて、ただその方が楽しめるから、そういう人の受け皿として存在し、維持されるような、そういう街の作り方をしてもいいんじゃないかと思うのだ。
 では翻って自分はどんな街に住みたいかというと、静かな、できるだけ人のいない街がいい。たぶん生活が成り立たないけど。現状は。
 まあ結局、そういうのは今ネット上で少し形成されているけど、仮想現実が日常になったって、きっと上記のような街づくりがなされることはないようにも思う。何かを好きだという集団には、大体それに興味を持たない他人が必要なんだと思う。なんとなく、そう思う。