目茶苦茶久しぶりにブログを更新してみる。発狂寸前卒論地獄を終えてからというもの、長文を書くという行為に一種の心的外傷を負ってしまったらしく、また就職だとかそういう現実からの逃避のためとにかくぼんやりしまくった。でもまあ、そろそろいいかなと。というかそろそろ、そうも言っていられないというか。いや、客観的に考えれば既にどうしようもないのですが。
そういえば日本はもうすっかり2010年らしい。どうやら外国の方でもそうだという噂も聞く。たしかに僕自身も、2010年かもしれないぞと認めざるを得ない機会を何度か経験した。半分くらいなら2010年と言っても良いと思っている。
しかし考えてもみてもらいたい。本当に今ここが2010年と全面的に受け入れてしまって良いのだろうか。それはもしかしたら負けではないかね?それは見知らぬ訪問販売員の言うがままにキミのスリッパの片方が健康サンダルになってしまっても構わない、と言っているのとどれだけ違うというのか。うん、だいぶ違いますね、わかってる、わかってる。
だが2010年。21世紀があとたったの一年で十周年を迎えてしまうということだ。今、少しでいい、2000年のことを思い出して欲しい。2010年を認めるということは、あの日々から十年が経過したことをも認めることになるのだ。10年なんてあっという間だね、アハハウフフ、などとモニタの前で薄ら笑いを浮かべられる充足者は、もういい。もう僕から貴方に言える事なんて怨恨の罵詈雑言を除けば何も無い。しかしそうでない方が一人でもいらっしゃるのなら、今ここで共に2010年を抗ってみようではないか。
2010年と言えばもうずいぶん遠い未来のことだった。ほとんどフィクションと言っても良い。当然アンドロイドは実用化しているはずだし、第三次大戦も懐かしむレベルで既にあったはずだ。人類は錠剤を主食とし、ナイフとフォークを持つ人々に対し古い世代の人種、と侮蔑の視線を送っているであろう。朝と昼と夜を個人個人が設定し、可視的な太陽はリモコンさえ使わずに操れていて、季節さえもその日の気分で思いのまま。言葉は全て適切に翻訳され、バベルの塔を登れば火星まで半日もいらない。週末は月の観覧車に乗るはずだったのに、父は仕事で予定がくるって、子どもたちはそれでも今朝の不機嫌を忘れたように近所の万里の長城を走る。
それが2010年ではなかったか。
今はどうだろう。どれほど遠くまで来れた?依然としてくだらないものが価値を保有し、あるいはそんな幻想をチケットの半券みたいにいつまでも捨てられず、ゴミみたいにこんがらがった旧態然とした世界じゃないか。
とどのつまり、何が言いたいのかというと、こんな状態において2010年を名乗るのはちゃんちゃらおかしいと、そういうことだ。2010年を認めるのなら、技術的な面は仕方ないにしても、せめて2010年らしい態度をもって日常を歩むべきである。僕には残念ながら、しがらみだとか固定観念だとかが容易に動かせない程度あるので、2010年的態度をとることは出来ない。だから、仕方なくまだ2009年に留まっていようと、それが可能的な最大限の誠意であろうと、そう思うのである。
決して、そういえば今年あけましておめでとうって誰にも言ってねえけど、今更って感じだなー、とか思ってこんなことをうだうだ述べたのではない。断じて、ない。
そんなわけで当ブログでは2009年を続行することをここに宣言します。
さてここにおいて生じたパラドクス的記事をどうしましょうかね、ま、どうもしないんですけど。