この間、ゼルダの伝説-時のオカリナ3D-をクリアした。このゲームは98年にNINTENDO64用ソフトとして発売されたもののリメイクだ。映像が綺麗になったり操作方法が3DSに最適化されてはいるものの、内容的に変化はないしキャラクタの造形もほぼ一緒だ。
キャラクタの表情は最新のゲームとしては乏しい。感情の度合いによって眉や目などが微妙に異なる、といったことはなく、うれしい時はこの顔、驚いたときはこの顔、と感情によって決められた少ないパターンで演出されている。ほとんど無表情のサブキャラも少なくない。
ゲームを始めたときはそこに古さや懐かしさを感じるだけだったが、今日、それだけではない可能性にようやく思い至った。
サントラを聴きながら、ぼんやりとゲームのシーンを思い返していたところ、やたらと感情を揺さぶられるのを感じた。あるシーンの物悲しさが、チープな無表情にもかかわらずもの凄く物悲しいのである。音楽との相乗効果もあるだろうが、僕はそのとき能を思い出した。
能における能面は、決まったパターンしかない。しかしその見え方や役者の動き、そしてなによりそこから感情を汲み取ろうとする鑑賞者の能動性によって表情と感情をこれ以上ないほどにリンクさせる。その深さは、生身の人間の表情を上回る。なぜならそれは、自らの内面から組み上げたものだからである。
思えば64時代のゼルダの伝説は能を意識したものだったように思われる。それは、64の2作目「ムジュラの仮面」というタイトルからも類推できるものだった。表情のパターンが少なくならざるを得ない当時の表現として、能ほど最適なお手本はなかっただろう。映画を参考にするよりもはるかに良い。
して、疑問に思ったのは、なぜこんな簡単なことに自分は気づかなかったのか、ということだ。無論、当時せいぜい中学生だったため、能なんて大して知らなかった、ということもある。しかし、大学で一応「能と狂言」とかいう一般教養の講義も受けたわけだし、そのときに気づかなかったのは変だ。
そう考えてわかったのは、ゲームは最初から能的な部分、すなわち限定されたパターンを用いた表現をもっていたこと、そして64ゼルダは当時としては豊かな表情での表現であったということである。
すなわち、ドット絵時代は64ゼルダよりもプレイヤーの能動的解釈が必要とされていた。64ゼルダはむしろ同時代的には能動的解釈を必要としない表現をしていたのである。
表情が豊かになった現代からみると乏しい表情パターンが、当時からすると豊かであった。この印象によって、発想が妨げられていたものと思われる。
しかし思うに能というものに最も近づいたのは64ゼルダを置いて他にない。能には確かに鑑賞者側の能動的なくみ取りが必要となるが、それ以外にも役者の一挙手一投足、そして音楽が重要である。この中の2番目の要素、つまり役者の一挙手一投足という要素は2Dのゲームには限界がある。役者の動きの豊かさとその表情の乏しさというバランスにおいて、64ゼルダより能的なゲームを僕は知らない。
現在の最新ゲームの表現は主に実写的であるかアニメ的であるかいずれかである。アニメには能に近い部分があるとは言えるが、どちらかと言えばよりわかりやすい、鑑賞者の能動性を求めない表現に行きがちである。多くのユーザーを想定すれば間口を広げるためにそうならざるをえないのは仕方ない。
しかし僕は、実写的でかつ能的で、安っぽくなく、思わずぞっとするようなゲームをやってみたいと思うのである。実写が限界に近づいていけばそのような表現を模索する潮流が現れるのではないか、なんてことを静かに期待する。
キャラクタの表情は最新のゲームとしては乏しい。感情の度合いによって眉や目などが微妙に異なる、といったことはなく、うれしい時はこの顔、驚いたときはこの顔、と感情によって決められた少ないパターンで演出されている。ほとんど無表情のサブキャラも少なくない。
ゲームを始めたときはそこに古さや懐かしさを感じるだけだったが、今日、それだけではない可能性にようやく思い至った。
サントラを聴きながら、ぼんやりとゲームのシーンを思い返していたところ、やたらと感情を揺さぶられるのを感じた。あるシーンの物悲しさが、チープな無表情にもかかわらずもの凄く物悲しいのである。音楽との相乗効果もあるだろうが、僕はそのとき能を思い出した。
能における能面は、決まったパターンしかない。しかしその見え方や役者の動き、そしてなによりそこから感情を汲み取ろうとする鑑賞者の能動性によって表情と感情をこれ以上ないほどにリンクさせる。その深さは、生身の人間の表情を上回る。なぜならそれは、自らの内面から組み上げたものだからである。
思えば64時代のゼルダの伝説は能を意識したものだったように思われる。それは、64の2作目「ムジュラの仮面」というタイトルからも類推できるものだった。表情のパターンが少なくならざるを得ない当時の表現として、能ほど最適なお手本はなかっただろう。映画を参考にするよりもはるかに良い。
して、疑問に思ったのは、なぜこんな簡単なことに自分は気づかなかったのか、ということだ。無論、当時せいぜい中学生だったため、能なんて大して知らなかった、ということもある。しかし、大学で一応「能と狂言」とかいう一般教養の講義も受けたわけだし、そのときに気づかなかったのは変だ。
そう考えてわかったのは、ゲームは最初から能的な部分、すなわち限定されたパターンを用いた表現をもっていたこと、そして64ゼルダは当時としては豊かな表情での表現であったということである。
すなわち、ドット絵時代は64ゼルダよりもプレイヤーの能動的解釈が必要とされていた。64ゼルダはむしろ同時代的には能動的解釈を必要としない表現をしていたのである。
表情が豊かになった現代からみると乏しい表情パターンが、当時からすると豊かであった。この印象によって、発想が妨げられていたものと思われる。
しかし思うに能というものに最も近づいたのは64ゼルダを置いて他にない。能には確かに鑑賞者側の能動的なくみ取りが必要となるが、それ以外にも役者の一挙手一投足、そして音楽が重要である。この中の2番目の要素、つまり役者の一挙手一投足という要素は2Dのゲームには限界がある。役者の動きの豊かさとその表情の乏しさというバランスにおいて、64ゼルダより能的なゲームを僕は知らない。
現在の最新ゲームの表現は主に実写的であるかアニメ的であるかいずれかである。アニメには能に近い部分があるとは言えるが、どちらかと言えばよりわかりやすい、鑑賞者の能動性を求めない表現に行きがちである。多くのユーザーを想定すれば間口を広げるためにそうならざるをえないのは仕方ない。
しかし僕は、実写的でかつ能的で、安っぽくなく、思わずぞっとするようなゲームをやってみたいと思うのである。実写が限界に近づいていけばそのような表現を模索する潮流が現れるのではないか、なんてことを静かに期待する。