2011年6月23日木曜日

能とゼルダ

 この間、ゼルダの伝説-時のオカリナ3D-をクリアした。このゲームは98年にNINTENDO64用ソフトとして発売されたもののリメイクだ。映像が綺麗になったり操作方法が3DSに最適化されてはいるものの、内容的に変化はないしキャラクタの造形もほぼ一緒だ。
 キャラクタの表情は最新のゲームとしては乏しい。感情の度合いによって眉や目などが微妙に異なる、といったことはなく、うれしい時はこの顔、驚いたときはこの顔、と感情によって決められた少ないパターンで演出されている。ほとんど無表情のサブキャラも少なくない。
 ゲームを始めたときはそこに古さや懐かしさを感じるだけだったが、今日、それだけではない可能性にようやく思い至った。


 サントラを聴きながら、ぼんやりとゲームのシーンを思い返していたところ、やたらと感情を揺さぶられるのを感じた。あるシーンの物悲しさが、チープな無表情にもかかわらずもの凄く物悲しいのである。音楽との相乗効果もあるだろうが、僕はそのとき能を思い出した。
 能における能面は、決まったパターンしかない。しかしその見え方や役者の動き、そしてなによりそこから感情を汲み取ろうとする鑑賞者の能動性によって表情と感情をこれ以上ないほどにリンクさせる。その深さは、生身の人間の表情を上回る。なぜならそれは、自らの内面から組み上げたものだからである。


 思えば64時代のゼルダの伝説は能を意識したものだったように思われる。それは、64の2作目「ムジュラの仮面」というタイトルからも類推できるものだった。表情のパターンが少なくならざるを得ない当時の表現として、能ほど最適なお手本はなかっただろう。映画を参考にするよりもはるかに良い。
 して、疑問に思ったのは、なぜこんな簡単なことに自分は気づかなかったのか、ということだ。無論、当時せいぜい中学生だったため、能なんて大して知らなかった、ということもある。しかし、大学で一応「能と狂言」とかいう一般教養の講義も受けたわけだし、そのときに気づかなかったのは変だ。


 そう考えてわかったのは、ゲームは最初から能的な部分、すなわち限定されたパターンを用いた表現をもっていたこと、そして64ゼルダは当時としては豊かな表情での表現であったということである。
 すなわち、ドット絵時代は64ゼルダよりもプレイヤーの能動的解釈が必要とされていた。64ゼルダはむしろ同時代的には能動的解釈を必要としない表現をしていたのである。
 表情が豊かになった現代からみると乏しい表情パターンが、当時からすると豊かであった。この印象によって、発想が妨げられていたものと思われる。


 しかし思うに能というものに最も近づいたのは64ゼルダを置いて他にない。能には確かに鑑賞者側の能動的なくみ取りが必要となるが、それ以外にも役者の一挙手一投足、そして音楽が重要である。この中の2番目の要素、つまり役者の一挙手一投足という要素は2Dのゲームには限界がある。役者の動きの豊かさとその表情の乏しさというバランスにおいて、64ゼルダより能的なゲームを僕は知らない。


 現在の最新ゲームの表現は主に実写的であるかアニメ的であるかいずれかである。アニメには能に近い部分があるとは言えるが、どちらかと言えばよりわかりやすい、鑑賞者の能動性を求めない表現に行きがちである。多くのユーザーを想定すれば間口を広げるためにそうならざるをえないのは仕方ない。
 しかし僕は、実写的でかつ能的で、安っぽくなく、思わずぞっとするようなゲームをやってみたいと思うのである。実写が限界に近づいていけばそのような表現を模索する潮流が現れるのではないか、なんてことを静かに期待する。

2011年6月20日月曜日

ウナギと儀式

 20年近く前、僕の実家ではウナギがなりよりもご馳走だった。年に一度、運動会の前の日だけ食べられる。ウナギ専用の漆塗りのお重をわざわざ出して家族みんなで食べるうな重は本当に美味しかった。
 しかし、次第にウナギの価値は落ちていった。最初のきっかけは、祖父がウナギを好き過ぎたせいだと思う。夕飯の食材は祖父が毎日買いに行っていたのだが、僕が小5くらいの時から特別だったはずのウナギの頻度が上がっていった。理由は、今にして思うと、祖父なりの気遣いという部分もあるのだろう。その頃中学1年と3年の兄たちは反抗期真っ盛りで、わりと家庭の順列が崩れかけていたように思う。おそらくこれを何とかしようと考えた祖父が、皆の好物であるウナギを食卓に出すことで円満な雰囲気を作り出そうとしていたのではないか。実際それが効果的であったとは思えないが、しかしそれによって祖父のリミットが壊れてしまったのだろう。当時は月に1度くらいの頻度でウナギだったような気がする。それでも月一のウナギは結構嬉しかったし、運動会前以外はお重を使った豪華なものではなかったので、それとこれとを差別化できていた。
 
 次にウナギの価値が下がったのは僕が中二くらいのときだ。そのときは既に祖父は亡くなっていたのだが、我が家の好物=ウナギという公式は少なくとも母にとって壊れていなかった。そして当時父の看護やら祖母の介護やらで多忙を極めていた母は、手がかからなくかつ不平の心配がないウナギを、祖父をも上回る頻度で食卓に上らせた。大体月に2,3度くらい。ちなみにその頃には運動会前のうな重という特別儀式も廃れていたので、僕達子供は「ま た う な ぎ か」くらいの印象しか受けていなかった。さすがに疲弊しきって若干様子のおかしい母にそんなことを言ったりはしなかったけれど。

 そして僕が高2になった頃、7人家族だった我が家には僕と母の二人きりになった。ウナギの頻度は緩やかに高まったままだった。ひどいときは週一くらいでウナギを食っていたと思う。母にしてみれば、仕事で一人夕食を食わせていることへのわびだったのかもしれない。僕にとっては、もうとっくにご馳走でも何でもなかったし、なんというか、かえってわびしい感じがしていた。もちろん言わなかったけどね、そんなこと。


 我々が何かを楽しむには、なんらかの儀式的な部分が有効だと思うのだ。Aだから楽しいと決めてしまい、Aに付随していた要素を取り払い、Aのみを繰り返したら、人間は対象がなんであれすぐに消耗してしまう。
 ウナギは一年に一度だから特別で、美味しかった。わざわざお重に装うのも、運動会の前だけというのもとても大事で、その約束をずっと守ることでウナギのたびに鮮明で重厚な記憶の地層を味わい共有し楽しむことができたのだと思う。

 他にも例えばヘッドフォン。高価なものを買えば当然音が良い。しかしその音に慣れてしまい感動を忘れれば、それを基準に他を排除するくらいの機能しかない。はっきり言ってそんなものに価値はない。
 1万円を超えるヘッドフォンであれば、少なくとも僕にとっては多かれ少なかれ「おっ」と思うような音を聴かせてくれる。何よりも大事で価値があるのは、神経を研ぎ澄まして音楽を聴く姿勢である。より高価なヘッドフォンは「おっ」と思わせる部分が大きい。この部分を意識しそれに真摯に向かう姿勢のなかに価値がある。
 あるいは好きなアーティストの新曲も最初に「おっ」と思わせられる。それを味わうために色々環境を整えることは、自分を儀式の中に組み込み、自らの神経を研ぎ澄ますのには役に立つ。しかし必ずしも必要な要素ではない。その準備さえ自分の側にあれば、雑音混じりのラジオの中からだって十分良い音を聴き取り「おおっ」と感動することはできるのだ。

 大人になって余裕を無くして、便利な方や楽な方、簡単な方に流れるのは容易い。現代の世にはお手軽に楽しめる要素がそこらじゅうにばらまかれているから、次々と消費し続けるのもありだろう。
 けれど僕は、自分がより楽しむために最適な儀式を模索したり、仰々しく回りくどい手順を作り出していくのがどちらかと言えば理想的な大人になり方だと思う。大事なのは、誰かにとっての儀式が自分にとって最適解ではないということ。自分のための儀式は、自分で見つけなければならない、と思うわけです。

2011年6月17日金曜日

ハリガネムシ


 ハリガネムシという寄生虫がいる。僕なんかは最近までカマキリの中に入っているキモイ奴、くらいにしか認識していなかった。しかし実はこいつ、結構恐ろしいヤツらしい。
 バッタやコオロギが落ち葉などについたハリガネムシの卵を食べたとする。体内で孵化したハリガネムシはそこで成長した後、繁殖期に入る。ハリガネムシの繁殖は、水中で行われる。従ってハリガネムシはぜひ川などに近づきたい。しかしバッタやコオロギは普通水になんか入らないし、そんなものは彼らの生活圏内にはない。


 それなのに、彼らは進んで水を探し、見つけると飛び込む。飛び込むと、ハリガネムシが感謝の言葉もなく、彼らの身体を突き破って水中を泳ぎ出す。ああ、気持ち悪い。


 何かに操られ、何かに支配されて自分の行動を選択している状態、しかもそのことに全く無自覚である状態というのはとても恐ろしい。しかしこれってなんかおかしくないだろうか。一体何が恐ろしいのだろう。なぜ恐ろしいのだろう。
 バッタやコオロギはハリガネムシと対話を行い、結果的に奴の要求をのんだ、ということはありそうにない。では全くそうするつもりはないのに、彼らに意思に反して、体が勝手に動いたのか。大した根拠はないが、それはないように思う。おそらく彼らは、彼らの内的に生じた欲求に従って行動をし、結果水に飛び込んだ。
 彼らは腹が減れば食料を探す。繁殖期が来れば求愛行動を行う。それと同じように、水に入りたくなって水を探し、死に至った。
 彼らの意識が――仮にあるとして――なんらかの役目を持つとしたら、それは自らの欲求を満たすための方法を探ることだとする。もしそうなら、彼らの意識は十分その役を全うした。すなわち彼らの意識だけを問題にするのであれば、なんの間違いもなかったと言えるだろう。
 では彼らが自らの身体のことを想って行動した結果が、身体を永久に損なうことになったということが問題だろうか。しかし例えばカマキリなんかは交尾によってオスが食われたりする。これも同様ではないか。
 しかしそれは結果として種の保存に役立っている。それに引き換えハリガネムシに従って死ぬのは何の役にも立たない、ということが言えるかもしれない。だが、例えばハリガネムシが仮に体内で繁殖を行うタイプだったらどうか。自らの種の生活圏内で糞と一緒に卵をまき散らしたほうが種にとっては害となるだろう。そう考えると、わざわざ水の中に行ってくれるのは種にとってありがたい事と言えるのではないか。


 思うに意識とは自発的に何かを行うものではない。ただ自分というものの一貫性を保つためにあらゆるものに理由のカバーを掛けて、さも自分がここを歩いてきたと思わせているだけである。そして思わせられているのは自分、すなわち意識だ。
 ハリガネムシが恐ろしいのは、行為が自分の意志によって行われたという確証の脆さ故である。本当に恐ろしいものは、対話ができない、認識できない、しかし存在する何かである。そして人間の意識にとって、その最たるものは自分の無意識だ。


 小学生のとき、僕は算数の問題が一瞬で解けることがあった。テスト中、式を見た瞬間に頭の中で数字が叫ばれる。とりあえず確認の計算をしてみるとそれは正しい。しかしそれが僕はすごく嫌だった。そんなものがいきなり出てくる理由がわからなかったからだ。だから次第にそれを無視するようになり、いつしかそんな叫びは聞こえなくなった。
 けれど今でも思う。結局のところ、自分は理屈をわかると思い込まされているだけではないか。あるいは、わかるという仕組みにどれほどの価値がるというのだろう。
 ハリガネムシは意識の存在がいかに無力かを思い出させる。そういえば、ずっと昔、自分という存在が寄生虫なのではないかと想像していたことを思い出す。


 上手に騙されて、モチベーションを上げるように仕向けられないのは、つまるところ無意識が無能なせいだと思います。

2011年6月10日金曜日

Jack and say, ケン坊 show

 君は意外と抜けてるよね、という指摘を受けたことは少なくない。自分ではそんなこと意外でもなんでもないと思っているので、むしろなぜ意外というのだろうと不思議に感じる。理屈を捏ねれば、その自分の短所をカバーするために、まるでそんなことをしない感じを装っているのだろう。攻撃されるのを、意外性のバリアで防御しているというわけだ。しかしそんなものが一時的にしか機能しないことは目に見えている。たぶん人との付き合いを短期にしか想定していない現れなのだろう。もしくはその場しのぎ的な。

 まあそんな抜けている人間なので、ついうっかり何かを忘れたりすることが多い。で、自発的にか指摘されるかして思い出すとき世界が終わったみたいな絶叫を上げるのが常なんだけど、指摘されたことについて全く思い出せないというのはほとんどない。自分という人間を客観的に見ると、これもひとつの防御的特性なのだと思う。つまり、何かを言われたり頼まれたりするとき、そのことを無意識に、一時的に忘れても構わないがあとで必ず思い出す条件のついたフォルダにしまうのだ。そうすれば「あ、一応覚えていたんだ」という皮肉な笑顔で大抵のことはスルーできる。自分としても「覚えてはいたんですよ!一応・・・」というポーズを取れることで安心出来るわけだ。
 しかしこの安心と安全のうっかりシステムにエラーが生じると僕はどうしようもなく狼狽えるらしいということが今日わかった。

 「先日お貸しした〇〇を、返却していただけますか?」
 仕事中、そんなことを言われたわけだが僕は首を傾げるばかり。あんまりにも記憶にないので、勘違いなんじゃないのぉぉぉぉおおおお?とやんわり伝えたところ「そんなハズはない、たしかにその時のことを覚えている」と全否定された。仕方ないので納得いかないまま身の回りを探してみるも見当たらず、もう一度お前の頭は正常でございますかとお伺いをたてることに。しかしやっぱり全否定。鼻で笑って全否定。シャフト角度で全否定。

 こうなると自分自身が疑わしくなってくる。自分はダメなやつと理解しているので、自分を疑い記憶を探ることはなんの抵抗もない。けれど、ダメな自分の生活を保証している安心と安全のうっかりシステムが通常通り動いているならすぐに思い出せるはずなのだ。もちろん保管した場所までは保証できないエコな記憶圧縮を心がけるシステムだから思い出したとしてもたかが知れているんだけど、普通なら覚えているはずの『〇〇を渡された記憶』もあるいはそれに該当しそうな『☓☓さんとのなんらかのやりとり』の記憶も一切無い。
 自分のうっかりシステムは破綻したのだろうか。もしそうであれば保っていたギリギリのポジションは崩壊し、回転灯が赤く回り警報機が喧しく鳴り響く中、娘の写真が入ったロケットを握りしめたあと緊急用のボタンをぶっ叩いて、空に散るしかない。要するに発狂したも同然だよねという話。きゃー。

 しかしシステムの破綻どうこうは別として、自分の記憶にない 自分の行いというのは本当に恐ろしい。なぜならそれは自分というものの非連続性、一貫した唯一の自分があるという幻想の否定だからだ。そしてその恐ろしさはずっと昔におそらくほとんどの人が味わったことがある、一種のトラウマである。
 幼い頃、自分の写真を見せられたことがある。それはクリスマスの時の写真で、僕は二人の兄に挟まれ満面の笑みでもらったプレゼントを大事そうに抱えている。場所は、一番良く知っている自宅の茶の間だ。三人の顔もちゃんと知っている。ただ、そんな写真を取られた記憶も、そんなプレゼントを貰った記憶も全くない。

 まあ、そんな子供の時からの恐怖をいくつも積み重ねて、こんな日常もおぼつかないダメ人間が出来上がるのである。冗談だけど。
 しかし、こういった体験がない、という人もいるかも知れない。ではその人の最古の記憶とはどんなものだろう。ほとんどの人は、そこから少し遡った出来事の話を聞いたりすることで体験できるはずだ。母体の中にいたことさえ記憶している人なんて、僕は真賀田四季くらいしか知らない。

 さておき、僕は僕の現実に戻ると、うっかりシステムが破綻した以上、別の何かを構築しなければならない。幸い記憶に限定すればパソコンだのなんだのを外部記憶装置として今よりちゃんと扱うことでなんとかなるかもしれない。いやまあ、そんな面倒なことをするかと言われたら微妙っすけど。
 案としては、体にマイクを仕込んで24時間録音し、管理保存するとかか。カメラを使って映像でもいいけど、容量的にすぐだめになる気もする。
 人が、覚えていないと社会的に不利益を被る記憶の大半は、人とかかわったときに発生する類のものだから、人との関わりさえ自動的に記録してくれればいいのかもしれない。
 腕時計のような形状のものをすべての人が装着し、何かをやり取りする際はそれをオンにしないとやりとりの法的責任を問えない、あるいは何らかの物理的接触があれば自動的にすべて記録される。となれば、勘違いが減ったり、犯罪が減ったり、痴漢冤罪が少なくなったりするんかね。
 まあ、現実逃避もいいところか。それが あなたの いいと・こ・ろ。
 あれ、なんだっけ、そのCM。

2011年6月6日月曜日

大人になったら

 大人になると、やらなくていいことが増える。というか、大人にやらなければならないことなんて何一つないのだ。いいだろう子供たち、えっへん。
 それだから大人たちの行うことのすべてには、自分で用意した理由がある。やらないことにも、やらなくていい理由がある。理由は全部自分が生み出しているんだけど、大人たちは呼吸をするように理由を生むので、意識しないとそのことを忘れてしまう。
 それを忘れるとどうなるかというと、そうするのが当然、しないのが普通、あるいはもう全然そんなことさえ考えないようになる。
 それがいけないわけじゃない。誰だって、自分が呼吸することを意識することはできるけど、そればかり意識していたらそれ以外のことがなんにもできなくなってしまう。だから他のこともちゃんと意識するために、そのことを部分的に忘れたり、ときどきは思い出したりするのが、なんというか健全だ。
 この曖昧な健全さによって大人の日常は守られる。でも曖昧なので、ある視点からは健全だけど別の視点からは不健全、ということが当たり前になる。
 そういう仕組なのでこれ自体は別に問題ないんだけど、例えば社会というものを想定すると急にやっかいになる。社会とは、人と人のつながりによって作られるものだ。社会全体というのは大きすぎて捉えがたいから身の回りに範囲を絞って見てみると、社会は自分を作り上げる繋がりを保つために人間を配置しようとする。誰かがいなくなったら別の人間を変わりに置く。今そこにいる人間がつながりを適切に保つならそこに拘束しようとするし、つながりを壊してしまいそうなら排除しようとする。余談だけど、では誰がそうして拘束したり排除したりしようとするかというと、それはそのつながりを作っている両端にいる人間だ。両方の人間が、社会的な視点によって、そうする。これはサンタクロースを親が演じたりするのとだいたいおんなじ仕組みと言って良い。
 閑話休題。そういった社会の拘束/排除の力に常にさらされている大人は、自分の行為の範囲をどんどん狭めようとする。なぜならそのほうが安全で安定し、安泰だからだ。というより、むしろ力が働いている以上、そうなるのが自然というだけのことかもしれないけれど。
 さて狭まった自分の行為は、強固な理由によって他を排除する。そうしていくうちに、大人は、たくさんの別の可能性を切り捨てる。やる理由もやらない理由も自分が生んだということを忘れて、「べき」という呪いを自分にかける。
 呪いをかけられた大人たちは、いつも疲れてつまらなそうだ。これを打破するのは、実は案外簡単だ。
 やらなくていいことをやればいい。やらない理由を無視して、やってみればいいのだ。行きたくない場所に行き、見たくないものを見て、聞きたくない音を聴けば良い。
 そうすると、もしかしたら理由がでたらめだったと気づくかもしれないし、逆に理由をより正確に再構成し始めるかもしれない。意識すれば、そこから新たな可能性も見いだせるだろう。

 人は何かを失ったとき初めてその大切さを知る、なんて陳腐な言葉がある。そして自分の命は1つきりで、失ったら取り戻せない、と多くの人は思い込んでいる。
 確かに、生命に関してはその通り。けれど「自分」に関して言えば、そんなことはない。これほど簡単に捨てられるものはないし、これほど簡単に得られるものはない。生きている限り、自分とはそういうものだ。

 これで文章を終わってもいいけど、誤魔化したまんまは気持ち悪いので蛇足。ホントのことを言うと、子供だってすべきことは何一つない。あるのは、何がしたいか、というただそれだけだ。僕はそう思う。

2011年6月3日金曜日

しばらくは6月が続く見込み

誰かに対して「理解出来ない」と言うのは大概の場合「理解してくれない」に過ぎない。
この場合の「理解してくれる」状態とは、自分に従ってくれるか、さもなくば文句を言わないということだろう。
つまり「思い通りにならない」という嘆きが「理解出来ない」という言葉に変換されているのである。

逆に言うと「理解できる」ならば「思い通りになる」と考えているのかもしれない。
その結果、思考も行為も範囲を限定されるのではないか、不自由になるのではないか、なんて想像をする。
多分言いすぎだ。

ところでグーグルさんが「+1」ボタンを実装し始めた。むしろ「-1」ボタンのほうが欲しいと思ったので、ブログに実装してみた。
押すと僕が1機減ります。ご自由にどうぞ。