2011年4月26日火曜日

仕事も家も身体ではない

昨日の件について、家の喩えがなんとなくしっくりきたのでもう少し考えてみる。
住んでいる場所に不満があるならどうすればよいか。自分だったら、第一に別の住処を探すだろう。それに結局どこに住んだって生活に大差はないと考えている。たぶん僕だったら、住む場所がどこでも室内をどうしようもなく散らかすだろう。それは誰と住んだって一緒。そうであれば散らかしても文句を言われないのが良いし、つまるところ一人がベストだ。
しかしそうもいかない境遇というのも想像できる。例えば養うべき家族がいれば、住む場所を変えるのは容易ではない。その場合環境を改善するのがとたんに困難になる。もしそんな立場に追い込まれたら、自分ならやはり別の住処を持とうとするだろう。けして出ることができない、離れることができない家というのは不自由で好ましくない。


だが多くの人にとって理想の家庭を築くことはそれだけで十分価値のあることとされているように思う。理想のために不具合が生じる。不具合を受け入れるために理想が育まれる。不具合を理想のためにあるものと仮定すると、それはまるで未来のための貯金のようだが、果たして万人がそれに見合う理想を手に入れられるのだろうか。
想像するに多くの場合、不具合と理想、現実と理想の境界がいずれ曖昧になり、まるで明日の不具合を手に入れるために今日の不具合を引き受けるというようなわけのわからないところへ陥ってしまうのではないだろうか。


どうしたら状況はよくなるだろう。みんなが複数の住処を持てばある程度は緩和されるかもしれない。一つしかないという状態、選択肢のない不自由さが人を追い詰める。複数のものを実際に持つことの利点は、それ以外のものも持ち得るという確かな想定が可能となることだ。
結局、人間同士の摩擦が一番面倒という話。あれ、そんな話だったっけ。

2011年4月25日月曜日

ここは地獄だと彼女は言った

同僚の胃がストレスでやられた。この職場のせいで、と彼女は言う。その訴えは僕にとって意外なものだった。
彼女は同僚とは言え厳密な所属と勤務時間帯が異なるため、環境が同一とは言えない。従って僕と彼女の持つ職場に対するイメージが多少ズレているのは当然なのだけど、それにしてもあまりに違いすぎる印象を受けた。

僕にとって、現在の職場は天国のようなものだ。基本的に仕事が少なく、作業を急かされることもない。また、多少ミスをしたところでリスクは殆ど無いし、だから請け負う責任も微小だ。仕事がないときは本を読んでもいいしネットを巡回してもいい。けして誰からも怒られず、誰からも責められない。こんなことで賃金を得てもいいのかと申し訳なくなるくらいに楽な仕事だと思っている。当然、ストレスなんかとは無縁だ。
彼女と僕との認識の差異は、上記の僅かな環境的要因を除けばおそらく次のニ点によって生じていると思われる。

一点目は過去の経験との比較。僕は前職の環境が真っ黒だった。朝七時に出勤し、帰りは終電。一つミスを犯せば意味のない会議が始まり、3時間は簡単に潰れる。基本的に、誰もが誰かを悪く言い、その刹那的な連帯感でチームが保たれる。10人のチームのうちどこも体を壊していない人は4人。実際過労で死んだ人もいる。まあ、そんなところ。
だから今の職場に多少の不満や改善すべき点があっても、なおユートピアのように感じられる。一方、彼女の前職がなんで会ったのかは知らないけれど、ここと同等かそれ以上に優遇された職場だったなら、ここが地獄のように感じられることもあるのだろうと想像する。

もう一点は、職場と自分との関係性の違い。僕はこの職場を一時的なものと捉えている。だから多少自分の理想や思想と異なる運営がなされていても、結局ここに残り続ける人の希望が優先されればいいと思っている。つまり僕にとってはビジネスホテルかあるいはせいぜいアパートのような借宿でしかない。しかし彼女にとってはそうではなく、ずっと勤めていくということはないだろうが、具体的な将来の展望がない状態なのではないかと思われる。理解のために極端化すれば彼女にとってここは家なのである。そうだとしたら、確かに小さな不満も許せないかもしれない。その観点に立てば、怒りや不満やストレスもある程度妥当に思える。

僕から見たら彼女は職場に期待しすぎているように見える。でも、だからといってその期待が全く排除される組織は間違っているようにも思う。彼女の期待は真っ当だ。ただ現実的ではないというだけである。望むのは構わないが、望みなど果てがないということを理解したほうが良いとも思う。つまり、その生き方はとてもつらいのではないかと思うのだ。
やるならもっと計画的に、戦略的に。不満を吐き出し、仲間を作り、改善を期待するのはやり方が好ましくない。それでは赤子と一緒ではないか。
それともその自分のあり方に自覚的ではないのだろうか。


まあ、結局のところ、彼女にあれこれ言っても仕方がないと思う。仕事というのは必ず嫌なことを引き受ける部分が出てくるものだ。他人の愚痴、不平不満に耳を傾けるのもそういう部分に当たるのかもしれない。それによって問題が解決されるかどうかなんて関係がないわけだ。

うーん、それでも、仕組みごと何とかして、解決する方法はないものかと考えてしまう。彼女の苦しみに類似した構造はそこかしこで見受けられるし。うーん。うーん。

2011年4月19日火曜日

子供の夜

God grant me, the serenity to accept the things I cannot change, courage to change the things I can, and the wisdom to know the difference.

思考、思考、思考。
呼吸も食事も睡眠も、
喜びも怒りも悲しみも、
生きるのなんて思考するついで。

2011年4月14日木曜日

最後に自問するのが大事

昨日の話し合い結果。


・野菜の単価と送料を考えると厳しい(送料に見合う分買おうとすると野菜が大量になってしまう)
・玉川(僕の地元)に限って言えば大きな農家は殆ど無いから、短期的には大丈夫(長期的に売れない状態が続くと厳しい)
・とりあえず自粛要請が解除されないことには動けない

→自粛解除後厳しい状態が続くのであれば、ネットも視野に入れる


ちなみに、会津の方の大きな農家だと既にネットで販売しているところもあるらしい。
で、そこがTVなどで取り上げられたりしているから、おそらく動けるところ、動かざるをえないところではそっちに手を出していくだろう(僕の憶測)
とりあえず、そういった手法もあることは徐々に認知されているようなので、僕的には一安心。

問題は、その動きがあくまで個々のものだから、きちんと広まってくれるかわからないこと、また単純にネットで売りさえすれば買手はあると思い込んで、必要な情報(栽培した土地における放射線量など)を明示せずに売ってしまったり自粛要請を無視して販売したりしてしまった場合、トラブルが発生し、買い手が“ネットで売られているものは危険”と判断してしまうような事態に陥りかねないこと。
つまり、大きな組織なり組合がフォーマットを作ってくれるといいんだけどな、という感じ。

まあ、でもおそらくそこらも考えている人がいるだろうと楽観。
以上、そんな感じであり、現状としては自粛解除後しばらくするまで様子見。


毎度のことながら、自分は何歩も遅い思考だなと実感させられる。でも、今回に限って言えば既に動いているという事実はめちゃくちゃ嬉しい。わかっている人はいるんだなって、勝手に仲間意識みたいなものを感じた。
でも、だからといって自分が考えるのをやめていいわけじゃない。滑稽でも、考え続けねば。



それにしても、やっぱり今日も僕は怒っている。
放射能=福島という図式を組み立て、それを遠ざければ、精神的に対立構造にある自分は安心できる、というのは限り無く愚かで不愉快極まりない。
ニュースを見ていれば、海外の一部でも同様に放射能=日本という図式が出来上がっていることがわかるはずだ。
では自分も同じような偏見で、疎外され、排斥されるのだということが想像できないのだろうか。
それとも海外の人間にも「放射能は福島の問題であって、自分たちは大丈夫」とでも言うつもりなのか。何の根拠も持たずに。

テレビや新聞、政府や自治体の発表が信じられないという話も聞く。じゃあだったら、なぜ既に日本全部が駄目なのではないかというところまで妄想しないのだろう。結局、自分に都合の良いように悲観しているだけではないか。全部信じられないというなら日本から遠いブラジルとか、あるいはいっそ月まで逃げたらいいんじゃなかろうか。

知識や情報、あるいは他人の言うこと全部を信じられず、なお安心したいのであれば、一番手っ取り早い解決方法は死ぬことだよね。
もっとちゃんと、人間として生きてくれよと心底願っています。

で、タイトルに帰結。じゃあ、僕自身どうなんだ。

2011年4月12日火曜日

馬鹿という機能

野菜をネットで販売する計画について兄や友人と話をする。話ができるというのは、本当にありがたい事だ。僕の妄言に付き合ってくれる皆様に心から感謝。今回はちゃんとやってみせます。具体的には明日電話をしてみるつもり。

僕が色々やろうと思えるのは、僕の仕事が忙しくないことや実家が福島であるということもあるけど、なにより被災地から距離があり、無力さを悟れるほど賢くないからだろう。それに守るべき生活なんて大げさなものがないこともある。
それらは僕にとっては重大な欠陥で、いつも悩まされてきたものだ。だけどそれを能力として活かせたら、自分も報われるんじゃないかと思う。結局自分かよって言われたらその通り。僕は僕のために、できることがしたいんだ。

逆にそういった欠陥のない人が、今悩まされているのに対しては、任せとけと言いたい。そういう人のおかげで今までの日常がありえたのだから、どうか気に病まないで欲しいと思う。
なにもできないなんて、論理的にありえない。生きているあらゆる人間は、既に何かをしているし、その最中に常にあるのだから。やりたい事とできることのギャップはある。でもそれを埋めるために社会というシステムは存在するのだと思う。誰かが何かを出来るのは、他の誰かの何かのおかげで、その連関は逃れえないものなのだから。

よーし、やるぞー。

2011年4月11日月曜日

その手をこちらへ伸ばしてください

 月曜日。半分以上眠ったまま、大学へ向かう。
 雑務をこなしながら、ふと、野菜をネットで売ることを思いつき、方法などを調べる。福島だから買わないという人が多いだろうけれど、福島だから買いたいという人もいるはずだ。しかし安全な橋を渡りたい小売店に今は期待することはできない。だが、動くのは今でなくてはいけないのだ。なによりも、こんな状態でも、買いたいと思う人がいるということを農家の方に伝えなければ。絶望させてはいけない。希望が遠くであってはいけない。小さくても確実に手に取れることが今は大事なのではないかと思う。


 業務終了。帰り道、歯医者へ。大きな余震は治療中にきた。いったん待合室へ移動させられる。テレビには福島県の映像。スタッフの方々の和やかな会話がとても遠い。
 治療を終え、新御茶ノ水駅で電車を待つ。ホームは溢れかえる人。みんなの苛々を遮断するためヘッドフォンをつける。こんなときにうってつけの音楽なんてないけれど、逆説的にそのおかげで何を聴いても逃避できる。
 ところで行列に割り込まれやすい人間というのがいる。彼は人と距離をとりたがり、また通行の妨げにならないよう必要以上配慮する。そして彼はそれを意図していることを悟られないよう、周囲への無関心を装う。だから彼はよく割り込まれる。彼は僕だ。今日もまた、割り込まれた。別にいいけど。


 帰宅。実家に電話する。なんとなく、合唱曲のBelieveの歌詞が頭を過ぎる。YouTubeで探して聴いてみると上手すぎたり下手すぎたりでなかなか良いものがない。探した中で及第点のものはひとつだけ。少し笑えて少し染みた。
 感覚が麻痺しているときは、大げさなくらいが丁度なのかもね。

2011年4月10日日曜日

投げやるエイヤッと

 ・人間、どうしても自分に都合の良いものばかりみてしまう。最低限、それは自覚していないと。

 ・なんだか、とてつもなくうんざりする。

 ・希望はどこにありますか。

 ・それでも動かなければ。人間は行動する生き物だ、というのはアーノルド・ゲーレンの定義。

 ・先週末、異常に人身事故が多かった印象。まあ、さもありなん。こんな最中に生き続ける人って、統計的に捉えるとどんな傾向になるだろうね。ため息。

 ・30代の都民が最も投票率低かったらしいけど、そうだとすると、十二年前からのデータを見てみたい。というわけでここのデータをぼんやり眺める。

 ・もういいや、寝よう。明日のために。

 ・明日は何かしら楽しいことが書けるといいな。



2011年4月7日木曜日

組み立てる4月

 4月になって一週間が過ぎたものの、気持ちが3月のままだ。でも、何もかも止まっているわけではなくて、自分の中で色々、大事なことを決めてしまったりもした。実行されなければいいな、と心から思う馬鹿な計画。だけどそのときがきたら、やらなければいけない。揺るがないように、準備しておかなくては。


 一つのことを見て、全部を思い込んではいけない。
 ある何かに属する人が発する言葉を安易に全称化してはならない。
 自分がある何かに属するからと言って、全てを代弁しているつもりになるのは愚かだ。
 背負いこむ必要のないものは背負っても構わないが背負わなくて良い。
 背負わされているとさえ思い込まなければ。

 何かを助けたいならば、一生恨まれることを覚悟すべきだ。
 けれど誰かに恨まれるような行為はすべきでない。
 そして人は、助けられる人を助けるべきだ。

 僕はそう思う。

2011年4月5日火曜日

はるとはなばかりの寒さ

 東電が新たに福島に原発を2基増設する計画を政府に提出したニュースを見た後、こんな言葉を目にした。
 「経済を考えたら仕方ない」「作るのはいいけど福島以外には建てるな」「反対する奴は停電を味わってみろ」
 確かに、夏場にはさらなる電力不足が見込まれていて、経済を考えると妥当と言えるかもしれない。また経済のみならず、冷房を前提にしている東京の建築などを考えれば、お年寄りや子供にも被害が出かねない。
 それに放射線のようなリスクは、どこか一箇所に背負わせたほうが合理的だろう。

 これらの言説の前提となっているのは、おそらく周辺住民はその地を離れて住めば良い、あるいはもう戻ることなどない、という意見だろう。
 しかしそんな前提は倫理的に成立し得ない。

 もし彼らが“合理的”であれば、どうして経済的に追い詰められつつあった福島に住み続けようとしただろう。外部から見た“合理的”な判断をした者たちは、とっくに別の都市へ移住しているものと思われる。それでもなお住み続けていた彼らが判断に使用するのは“合理性”ではないはずだ。

 それでも彼らに“合理的”判断を求めるのであれば、どうしてこの閉塞感が充満した日本を離れ海外に移住しないのか、自らに問えば良い。理由を抽象すると、すなわち海外より日本でのほうがいきいきと生きられるから、ということではないだろうか。
 同じことが彼らにも言えるのではないか。そしてそれは、上述のような発言をする人たちよりずっと根深いものだと思われる。

 「先祖の代から守ってきたこの土地を云々」という説教を、僕は小さいころよく聞かされていた。実際に自らのルーツがどうであるのかということは、意味が無い。重要なのは彼らがその土地をどのように見ているか、どのような価値観を持っているかという点だ。
 想像するに、彼らだって当然馬鹿ではないので、外部から見た“合理的”思考を自らに投げかけなかったわけがない。多くの者が都市へ移住する中、自らの境遇をどのように措定したのか。自らを縛り、働かせ、喜びの多くと、そうでない感情の多くを与えたその土地に、交換可能な価値なんて見いだせるのだろうか。
 彼らは彼らの持つ前提において“合理的”なのだ。そこにあるのはきっと、自分の、そしてそれ以外の大切なものの、生命と同義の価値だ。

 他者特有の“合理性”を認めずに何が民主主義だろう。経済的合理主義もまたひとつの価値観ではあるけれど、決して絶対であってはならない。そして今、その破綻しかけている価値観を取り繕うために、新たな愚行を犯そうとしているのではないだろうか。
 とにかく、何が言いたいのかといえば、下記の一言で済む。
ふざけるな馬鹿野郎!