2011年2月28日月曜日

特にありません

今日の信号機
3DSに明け暮れる。部屋、掃除してない。駄目ですね、はい、ダメダメです。

2011年2月27日日曜日

飛び出しました

今日の信号機
早起きした甲斐あって、無事に3DSを入手することができた。正直、こんなものを書いている時間が惜しいくらい面白い。本当に予想以上だった。
購入前は「でも正直立体視できても、それだけじゃん」なんて不届きな考えがナキニシモアラズだったが、どっこいそれだけでもめちゃくちゃ素晴らしい。

昔の人がテレビを初めて見たときに「中に人が入っている」と言ったとか言わなかったとかいう逸話を聞いたことがあるが、ちょうど同じような体験ができた。
本当に、この中に空間が拡がっていると感じられる。それゆえに、なぜ触れないのだろうと不服に思うほどだ。

僕が買ったのはnintendogs+catsというソフトだけだが、本体だけでもしばらくは十分遊べるだろう。
面白いのは、本体付属のカメラで3D映像を撮影することができるのだけど、それで自分の手を映して動かしてみること。そうすると、カメラで撮った画が表示されている、という感じではなく、この触れることの出来ない3D空間の中に手が入ってしまった、という感覚が得られた。また、表示される映像に若干のラグがあるので、確実に自分の手なのにそうでないような違和感が楽しめる。
他にも色々ソフトが付いているのだが、もう、全部面白い。任天堂最高。

nintendogs+catsはというと、犬も猫も悶え死ぬくらい可愛くて面白い。

ARを使ってこんなこともできたりする。惜しむらくはマーカーの上から動いてくれないことだ。これが、マーカーさえ写っていればあとは自由に動いてくれる、とかだったら最高だっただろう。
ちなみにこのARのも3DSで表示させているときは当然3Dで映る。

他にも面白要素は山ほどあるけど、山について語るより山を登ったほうが楽しいので、このへんで。
ちなみにこのハスキーの名前は「チョビ」。動物のお医者さんから拝借しました。

2011年2月26日土曜日

飛び出しません

今日の信号機
今日は待望の3DS発売日。しかしあろうことか僕はまだ手に入れていない。
まあ、当日に手に入れるのは予約ができなかった時点で諦めていた。だがそのことを僕はひどく後悔し、ついにはヤフオクで転売屋から予約分を購入という非人道的で非倫理的な、言わば非人間的な手段にまで手を出した。
それなのに、現時点で出品者からの連絡はない。となるとおそらく明日も3DSで遊ぶことは出来なさそうだ。
そんなわけで、僕は今発狂寸前である。なぜこんな目に合わなければならないのだ!!!!!ソフトはもう既に手元にあるのに、遊べないってどういう事だよ!ああっ早く遊びたい!!!!!

しかし泣いても叫んでも部屋中転げまわっても状況は改善されないので、仕方がないからDSを想像して遊ぶことにした。折角だから更に次の世代のDS、つまり「ボクの考えたさいきょーのDS」を絵に描いてみた。
そういえば先日、教室で棒人間を描いていた11歳の少年が警察に捕まる、というニュースを読んだ。となると、僕も任天堂から「勝手にDSで遊ぶな不届き者!!」とお叱りを受けるのだろうか。
いや違うんだって。僕は3DSで遊びたいの。でも遊べないの。
でもあそこの法務部は凄いらしいから、きっと有無を言わさず捕まってしまうんだろうな。社会ってこえー。

・・・はあ。

追記:いろいろあって、明日3DSを求める旅に出ることが決定した。たのしくてゲロはいちゃいそう。

2011年2月25日金曜日

紳士な不審者

今日の信号機 
今日はやたら暖かく、目を瞑っても耳を塞いでも春だった。春になると頭のおかしい人が出てくるので気をつけましょう、みたいなアナウンスを聞かなくなって久しいけれど、それはどちらかというと加害者にならないように気をつける側になったということだろうか。
別に気をつけるのはいいんだけど、加害者として見られるのはなかなか辛い。何故かといえば、僕は自他共に認める人畜無害の不審者だからだ。不審者ではあっても誰かに危害を加えるつもりはない。それなのに通報されたらいたたまれない。そのため、加害者にされないための努力という無駄な労力を払わねばならない。

この無駄な努力が最も発揮されねばならない場は、なんといっても電車の中だ。通勤中、冤罪で捕まったらどうしようと毎朝毎夕気が気でない。同じような思いを持つ男性は少なくはなく、いっそ男性専用車両を、との主張もたびたび見かけるが一向に実現する兆しはない。男性の側は各々対策を練って、つり革を両手持ちしたり、壁面に両手をつけたりはしているものの、例えばひどい満員電車などではその対策を取ることができない場合も多々あるだろう。もっと安全に、安心して通勤するには一体どうしたら良いのだろう。

・ロックバスター
画用紙を筒状にして腕に装着するアレである。これを両腕に着ければ「私は女性に触れるつもりはありませんよ」と暗に主張していると思えるのではないだろうか。
→しかし、このロックバスターのタチの悪いところは伸縮自在である点であって、これが広まったらわざと伸ばして悪用する奴が出てくる可能性が高い。その上、女性からしたらたとえロックバスターであっても、またたとえ悪意がなくても、触れられるのは嫌だろう。従って、これはあまり実用的ではないと思われる。

・ジョジョ立ち
これ。こんな感じで車内に立っていれば、変態的ではあっても痴漢とは思われないはずだ。それに両手が頭上にあることで、誤って痴漢的な振る舞いをしてしまうということは避けられる。

→だが変態的であるというだけで通報されることもありえないことではない。こんな人が目の前にいたら、心臓の悪い方は非常停止ボタンだって押しかねない。つまりこの方法で痴漢冤罪を回避することによって生じる二次災害のリスクが高すぎるのではないかという懸念がある。








・拘束衣着用
ここまですれば、哀れではあっても、加害者には見ないだろう。ものすごく歩きづらそうだが、やむをえまい。むしろこれをみんなで着て出勤することにより、日常的な抗議活動が可能である。JRも女性の方々も加害者予備軍として扱われる苦悩をご理解いただけると思う。
触れないように、疑われないように気をつけて、身を捩り、じっと我慢するのは、本当に毎日これを着ている方がマシだと思えるくらい、嫌なものなんですよ。

2011年2月24日木曜日

大豆どこの子

 ふと疑問に思ったのだが、醤油ってなぜあんなにも黒いのだろう。いくらなんでも黒すぎやしないか。考えてもみたまえ。米から作る日本酒は透明もしくは白。うん、だいぶ経過がイメージしやすい。コーヒー豆は黒い、抽出したコーヒーも黒い。うんうん、そりゃそうだよな。しかし、大豆。大豆は全然黒くない。なのに醤油は真っ黒だ。僕、本当にお父さんの子供なの?って醤油が子供だったら言うに決まってる。そしてお父さん大豆は「もちろんだよ」とか答えるけど、キッチンでお母さん大豆が涙をこらえているはずだ。その涙の理由を無理に問いただすほど、僕だって野暮じゃないけど。

 そうだよ、そもそも大豆おかしいよ。かたや醤油を真っ黒にしたと思ったら、かたや豆腐を真っ白に仕上げてみたり。あまりに極端だ。お前は中二か。あるいは中二が設定した脳内種族か。兄弟や友人までも白い道を行った、しかし俺は一人でもこの黒い醤油道を突き進むぜみたいな感じか。コンプレックスとか抱えてんのか。そして久しぶりに会った幼なじみは納豆になっていて、お前を俺色に染めてやるってのか。絡みあうのか。糸をひくのか。そして臭いだけがいつまでも残るのか。

 例えば、醤油が大豆から出来ていると知らない子供は、あれが何からできていると考えるだろう。さすがに地球から湧いているとは考えないだろうけど、漠然とタンクの中で常に増殖している科学的な何か、みたいなイメージくらいなら抱いてそう。もしくは、海水はしょっぱいという知識から、あれに色んなもの(墨汁とか)を入れるとかか。

 いずれにせよ、僕らは醤油をあまりに信用しすぎていないか、と思うのだ。あとウスターソースも同じように胡散臭い。
 原材料から連想しがたい色になるのであれば、両者の色は紛らわしいので、どちらかは別の色になったらいい。赤や白だと他のとかぶるので、緑とか青とか。個人的には青がオススメ。かき氷はブルーハワイが僕は好きだ。

2011年2月23日水曜日

ウェルカム非日常

この荒みきった現代社会において日常から逃避したいと思う人は多い。しかし責任感や自尊心、あるいは強迫観念からもはやこの環境が前提であり絶対であり、少なくとも自分から動き出すのは無理だ、と殆どの人は諦めている。そして非日常の側からこちらへやってきて、あわよくば自分を連れ出してくれないかと願い、待ち続ける。おそらく新宿駅南口で500人くらいにそう思っているんでしょ?と問い続ければ2,3人くらいは頷いてくれるはずだ。それはもう、とてつもなく嫌そうな顔をしながら。そんなにも現代人は疲れきっているのである。頷いてくれなかったうちの490人程度も、本当は心のなかでそのとおりだよ!と叫んでくれているものと思って良いだろう。

さて、このように日本人らしく待ちの姿勢で非日常を期待している人の殆どは、実は非日常に対して何の準備も出来ていないのではないだろうか。考えてみれば、彼らは日常に追われて非日常に憧れているのだから、非日常のための準備などできる余裕があるはずもない。しかしそれで良いのだろうか。そんなことでは、いざ待望していた非日常がやってきたとしても、ただ目の前を通り過ぎて行き、再び日常に埋没してしまうだろう。
だがきっと、それで良いと思う人が大半なのだ。望むのは日常の継続であり、そのための非日常という幻想なのだから。そんな人たちのおかげで社会が成立しているともいえる。けれど、それはあくまで大半であって全員ではない。幾らかの人たちは、本当に非日常を待っているかもしれない。したがって、非日常に対してどのような準備をすれば考えてみたい。

今回想定する非日常は、もし明日宇宙人が家にやってきたら、だ。
もちろん宇宙人が家にやってきた時点で、アナタの家は半壊している。宇宙人の乗り物が墜落したからだ。
これは宇宙人がやってくる話ではありがちだが、しかし現実で考えると非常に危険である。トーストを食べながら朝の団欒などしている余裕はない。むしろ避難すべきだ。しかしここで大事なのが、宇宙人がくるのがいつなのか我々には予想もつかないということだ。毎朝避難する、というのは労力面で現実的ではない。ここは一つ、地下シェルターを増築することをおすすめする。

それから、宇宙人は初めて見る地球で驚いたり不安になったりして、ついあなたのペットを解体しようとするかもしれない。だからアナタは宇宙人の不安を和らげる必要がある。不安を和らげるにはどうすればよいか。地球は、宇宙人にとっても非日常である。非日常において安心をもたらすのは日常である。すなわち彼にとって見慣れたものを見せるのが良い。そして、宇宙人はえてして全裸である。つまり、そういうことだ。

最後に、宇宙人がやってきたとき最も大切なのはやはり意思疎通だと思われる。なにせ彼にはこちらを気に入ってもらい、日常から連れ出してもらわないといけないのでかなり高いレベルでの意思疎通が必要になると思われる。そこで最も有効な手立てを考えると、ここは拳しかないだろう。一時的に不仲になってしまうかもしれないが、最終的には「カカロットお前がナンバーワンだ」といってくれるに違いない。ファイト。

総合すると、もし明日宇宙人がアナタの家にやってきたら、
1.地下シェルターから
2.全裸で出迎えをし
3.とりあえず殴り合う
以上三つを試してみるのが良いだろう。そのためにアナタは今すぐ床を掘り、全裸で朝を迎え、日々体を鍛えておくのが望ましい。

その準備の段階ですでに非日常的だ、と思うのであれば、その通り。日常とか非日常なんて、そんなものだ。ただ、非日常に備えてこれらの事をしているということはあまり人に話さないほうが賢明だろう。それはそれで非日常を得られるだろうが、冒険するのと追放されるのとでは同じようで全然違うからだ。

2011年2月22日火曜日

ビフォー




とりあえず右が現在の部屋の概略図である。一見すると大きなベッドを使っていそうに見えるが、部屋が小さいだけである。
ちなみに実際は右下の図がより正確であるが分かりにくいので省いた。


・なぜベッドが部屋の中心にあるのか。

特にこれといって理由はない。しいて言えば、他のものとの兼ね合いでそうなっただけである。無為自然。

それからこのベッドは折りたたみ式なので、やろうと思えば占有スペースを三分の一程度にできる。しかし帰ってきてすぐ横になれるって素晴らしい、というか寝るのにわざわざベッド広げるの面倒だし、起きたあとたたむのもだるい、という思想に基づきこの惨状が続いている。

・改善するには
→せめてベッドをテレビの位置と交換すればある程度広い空間が持てる
折りたたむのは、機能的になかった事にするのが現実的だろう。


・テレビは必要か

うちのテレビはアンテナと線が繋がっていないので放送を見ることはできない。そもそもこれはゲーム用に購入したものである。しかし、据え置き機を動かさなくなって半年以上経過していると思われる。つまり処分するか否かは別としても、わざわざこいつに良い場を与える必要はないのではないか。


・雑多な物?

これは引っ越して以来ダンボールに入り続けている荷物である。今月、2回目の契約更新をしたばかりだから、ちょうど4年間その一角を占有し続けていることになる。
……処分しよう。


以上のことから改善案は右のようになる。
……全く面白みがない。しかしもうそろそろ動き出したほうが良さそうなので、明日からは実際に部屋を片付けていきたい。
だけどなぁ、うーん、いっそ部屋の中にテントでも張ったほうがいいんじゃないかと思えてきた。



対ゴミ屋敷戦の前夜

 今まで何度となく部屋の掃除を試みてきたが、そのすべてが敗北であったことは認めねばならないだろう。整理された部屋とは、あたかも自ら浄化機能を有しているがごとく、人間に汚れているということを罪悪と思わせるシステムであるはずなのだ。だが、僕の部屋ではそれが作用していない。いつもゴミ袋の山を築きあげて、疲れ果て、満足してしまう。そして一週間と経たずに再びゴミに埋れてしまう。
 何がいけなかったのかといえば、きちんとしたシステムを創り上げようという意志がなかったことだ。理想像がないから、ゴミが散らばることを容認してしまう。その場しのぎでゴミを処理していけば、確かに生きていくことはできる。しかし身動きを取ることも困難なこの部屋で生きることによってどれほど自らの可能性を狭めてきたことだろう。朝目を覚ましたあとにラジオ体操を激しく踊ることもできないなんて、一体これが人間的な生活と言えるのか。あるいはこの部屋こそ自らの人生の縮図とは言えないか。ゴミに囲まれて、ときどき捨てて、また散らかして。僕はそんなことのために生きているのではない。

 そんなわけで今度ばかりはこの部屋に勝利すべく真剣になっている。
 だから今日は何一つ掃除をしなかった。まずコンセプトを考え、完成形を思い描き、それから掃除をしようという魂胆である。
 コンセプトは決まっている。ずばり秘密基地である。具体的にどんなふうにするのかは、明日ぐらいに思いつけばいいな、と思っている。思うのは自由だ。自由って素晴らしいな。

2011年2月19日土曜日

セルフノイズ

 日常にはちっぽけな予感があって、何となく不安になったり、心配になったりする瞬間がある。そのざわつきに慣れない頃はつい一人で暴走してしまって、空回りをして恥をかいたりする。
 しかし成長するにつれ、その感覚は薄れていく。なぜなら第一に、未来に生じうる不安要素を取り除くよう自らの生活を組み立てるようになるからである。第二に、後悔のフィードバックによってそれを感知する機能が抑えられていくからである。
 つまり統合して言うと、そのような事態に陥る以前に対策を盛り込むようになり、かつそれを感じないように機能を抑制するようになるということである。
 また、もしその感覚が現れても、慣れによって対処の仕方を学習していく。その対処も同様に、内側か外側に。

 それにも関わらず未だにそんな感覚に慣れていない僕は、内側も外側もちゃんと処理できてない馬鹿者なのだろう。馬鹿者は馬鹿者らしく、足掻くしかない。空回りでも恥ずかしくても、最悪の事態を防げれば御の字だ。嫌な予感は妄想のままでいい。無事であれば、僕は頭のおかしい奴で、今はいいや。

2011年2月18日金曜日

昼休みのこと

 文字を読まず、音楽を聴かず、薄汚れたコンクリートを眺める心静かなひとときに、何ものよりも価値を感じるような人間になってしまった。
 自由自在であって、あることが当然であって、それこそが自分の中心であったはずなのに。
 それは、ひどく懐かしい自分の心だった。

2011年2月17日木曜日

ちゃんと不愉快

 ボトルメッセージというアプリがある。メッセージを書いて送ると見知らぬ誰かにそれが届いて、返事が返ってくるかもしれない、みたいなアプリだ。iPhone版が一部地域で話題になっていてその存在を知ったのだけど、僕が試したのはAndroid版だ。iPhoneさえ持っていないようなクソマカーだからね、僕は。
 さておき、僕は夢野久作の瓶詰地獄という作品が好きだ。従ってボトルメッセージという名称から連想されたのは、その瓶詰地獄の雰囲気であり、きっとどうしようもない一方的なキチガイ文書がノイローゼになるほど送られてくるに違いない、という淡い期待を抱いてインストールしてみたわけだ。
 結果はとしては、そこにおける空気は一方的である意味キチガイじみていたが、僕の望むものではなかった。送られてきたメッセージを晒して説明すると、「好きな音楽は?」とか「不倫ってどう?」とか「ラブ注入♡」とか、所謂出会い系という感じのものが多かった。
 極めつけは以下のメッセージ。僕はこいつで度肝を抜かれました。
 「ちゃんと恋したい」(原文ママ)

 ははは。意味が分からない。そう思うのは自由だ。しかし、いったいなぜこんなモノを他人に読ませようというのか。「頑張って><」とか言われたいわけ?じゃ、頑張るってなんだよ気色悪い。どちらかというと「呼吸止めて><」と言ってやりたいわ。
 しかし、ここまで気持ち悪いものを読まされてしまったのだから、ここは一つ免疫を作るためにも、なぜこれがこんなにも不快なのか僕は考えることにした。
 「ちゃんと恋したい」
 まずこれを冷静に考えるために、構成する語句を別のものと入れ換えてみる。
 「ちゃんとご飯食べたい」
 なるほど、きっとこの人は、この人自身が想定する理想的な食事を取れていないのだと考えられる。たとえば三食食べれていないとか、一食にかけられる時間が10分もないとか、臭い飯を食わされているとか。

 では、なぜこれを他人に対して発信するのか。
 ①ネタである
 すなわち貧乏ネタであり、自虐ネタである。ではなぜそんなことをするのか。“わざと”それで笑いを取ることで、自らの境遇も“わざと”であると思い込みたいという願望があるのだろうか。
 ②同情が欲しい
 あわよくば飯を恵んでもらおう、環境を改善してもらおうという発想からそうしているのである。
 ③獄中日記
 つまり一種のルポルタージュであり、素晴らしいよね。

 さて、そうしたら今度は入れ換えた語句を元に戻して照らし合わせれば、結果は自ずと出てくる。両者に共通するのは飢えであり、欲求不満だ。ひどくみっともない、下品で、自分を貶める発言だと思う(ただし③の場合は除く)。
 そして両者に共通せず、「ちゃんと恋したい」に特有な不快さは、恋には生身の相手が必要ということから生じていると思う(踊り食いなどを除く)(二次元が好きな人を除く)。その発言に、相手を自分の恋愛劇場の道具に使おうというような感覚が想像されて、それがもうたまらなく嫌だ。

 でもまあ、正直に言えば僕自身にもそういう感覚はあって、だからこそ嫌悪しているのだと思うけど。

 そんなこんなで一応の解決も得たし、めでたしめでたしということで僕はメッセージボトルをアンインストールした。しかし興味があるなら一度試してみると良いと思う。発信者の爆発的増加に伴い基本的に発言に対する閲覧者が激減した今のネットにおいて、確実に誰かに読まれるというのは結構価値があると思うし。

2011年2月16日水曜日

黙祷

今日は父の命日だった。

2011年2月15日火曜日

ナマモノを貼りつけて

 昨晩に振った雪はいささかメンヘラチックだったように思う。夜中さんざん自己主張をして、翌日の朝に大きな迷惑をかける。けれど昼頃にはわずかに残骸が道端に残る程度。惨めったらしくアスファルトに溶け出していて、ただ鬱陶しい。でもなくなったら、少しだけ残念に思うような。ほとんどテロだ、と言ったらテロリストに失礼だろうか。じゃあ、メンヘラが天災的?まあ、どうでもいいか。

 とにかくそんなわけで今朝の通勤は散々だった。ある程度の遅延や車内が満員であることは覚悟の上だったが、まさか改札を抜けてから乗車口に辿りつくまで30分以上かかるとは一体誰が予想していよう。ため息。
 それにしても、朝の駅におけるこういったトラブルは本当にどうにかならないものかと思う。周囲にいる何十人という人間がみな苛立っている状況というのは、その場にいるだけでかなりストレスが溜まる。今日ほどの混雑具合ではなくとも、通勤時の電車というのは大概一触即発な雰囲気で、どこかしら死に物狂いというか息の詰まる感じがする。
 いっそ電車で通勤・通学する人はすべて、家でダンボールにでも箱詰されて目的地まで運んでもらった方がましなのではないかとすら思う。梱包材に敷き詰められて、結構快適かもしれない。酸素が足りないというのならボンベも同梱すれば良い。そうして会社や学校に出荷されるのは絵的にも悪くないし、それに人身事故にも遭遇しなくて良い。非人道的かもしれないが、それは現状でも同じことだ。問題があるとすれば、正月の年賀状配達のように配達員が荷物を何処かに放置してしまわないか、ということや、配達ミスくらいか。いずれにせよ毎日がアンドロイドごっこみたいで、僕としては結構楽しめると思う。

2011年2月14日月曜日

タイプトレースで書いてみた。

これはタイプトレースというソフトを使ったからおっきくなっていたりちっちゃくなっているのであって、決して僕の気が狂ったわけではない。
 アプリを使用すれば自分のタイピングをあとで再生できるというおもしろ機能も付いていたりするけど、そのおかげで打つ方はめちゃくちゃ緊張して、こんな、内容がペラペラになってしまうまあ、慣れなんでしょう、そこは。
 これ、大小が出るという点で面白くはあるけど、正直読みにくくなる長いものには適さないだろう。詩とか、誰か書いたらいいんじゃない、と思う。
 まあ、他にも色々できるアイディアはあるけれど、なんか、もういいです。これ、気疲れすごい。苦手だ。なんか喋らされているみたいで。
 そんなわけでタイプトレースこちらからダウンロードできます。まあ、楽しいよ。_

2011年2月13日日曜日

もし明日背が伸びても

我々は何の準備もなく生まれてくるしかない。しかし明日の準備くらいはできる。
振りかかる出来事を理不尽と思うか、それとも準備不足と思うか。我々にはその判断をする自由がある。
ならば可能なかぎり準備をしておこうではないか。それが明日生まれる自分に対しての優しさであり、知性だ。

そんなわけで、今日は明日身に振りかかるおそれのある出来事を想定し、対策を考えてみたい。
では早速、もし明日目が覚めたら身長が今の倍になっていたらどうしよう。
そんなバカなと動き出す前に、ちょっと待って欲しい。あなたはそのままゆっくり周囲を観察して、このまま動き出して良いのか判断をしなければならない。さもなければ左肩でメガネを粉砕するだろうし、驚いて仰け反ると後頭部でガラスを打ち破り、両足は壁に突き刺さって抜けなくなってしまうかもしれない。慎重に事を運ぶのが肝要である。
声を荒らげて助けを呼ぶのも待ったほうが良いだろう。もし誰かがその声に気付き駆けつけてくれたとしても、状況が好転するとは限らない。なぜなら一晩で身長が倍になるということは普通有り得ないことであり、それ故現時点で最も疑わしいのはあなたの精神である。

間違いなく昨日と身体のサイズが違うことを確認するために、まず自分の今着ているものを見てみるのが良いだろう。確かに倍になっているのであれば、確実におかしなサイズの服を身に纏っているか全裸であるはずである。
しかしここで気をつけねばならないのは、全裸だった場合、あなたが普段から全裸で寝ている可能性、あるいは夢遊状態で全裸になった可能性が残されていることである。だからその場合は落ち着いて下着だけでも身につけたほうが良い。

だが下着だけでもとはいったものの、サイズが変わってしまっていたらおそらく今までのものをそのまま着ることはできないだろう。もしあなたが家族と住んでいて、家族の中に以前のあなたと身長が倍違う者がいるなら、そのときはいったん恥を捨てて彼もしくは彼女の助けを借りたほうが良い。そうでない場合は、とりあえず布団で古代ギリシア風の衣装を真似て体に巻きつけると良い。あるいはテンションが上がりすぎた子供のように上着を履く、あるいは巻きつけるのが良いだろう。
いずれにせよこれらに必要となる一切の動作は起き上がらずに行うのが賢明である。折角だから天井の一つや二つぶち破ってみたい、というのなら止めないが、まず間違い無く怪我をするし、修理費もバカにならない。

さて、とりあえず人前に出られる最低限の準備ができたところで、これからの行いの選択肢が増える。すなわち、人前に出るか否かである。先程の段階で家族の誰かの手を借りた場合であれば、さらに多くの人に知らせるか否かだが。
これを判断するには、この異常事態が今後も継続するのか否か、という予測が必要になるだろう。一般的に考えれば、背が急激に縮むということはありえない。しかしありえないはずの成長が起こってしまっているのだから、その可能性に期待するのも悪くはないだろう。
それに長期的に見れば、人間の身長はピークを過ぎれば縮むものである。成長に対して劣化の速度は緩やかとなるのが生物としては自然かもしれないが、急激な成長によって過度な消耗をしている可能性も高いので、そう悲観しなくても良いかもしれない。
もし仮に明日には元に戻るだろう、とするならば人前に出ないほうが良いだろう。一日部屋でやり過ごすのが妥当だ。できれば眼を閉じて、体を丸めてじっとしていよう。倍の身長である状態の知覚に馴れないよう、意識を逸らしながら。
では逆にもうこの身長は戻ることはない、または戻ることがあったとしてもそれは遠い未来のことだ、と考えるならば誰かの助けを呼ぶのが良いと思う。そう悲観することはない。身長が2m以上ある日本人というのは稀有だから、生きようと思えばその手立てはいくらでもあるだろう。どうしてもそれに耐えられそうにないというのなら、スイッチを切ってしまうのもひとつの手だ。そのときは、体が普通に生きるのを拒絶したのだと諦めるしかない。アーメン。

以上のことを考えれば自明だが、我々は急に身長が2倍になってしまうような事態を想定して生きていない。端的に言えば、それは怠慢であり是正すべきことである。
我々はいつ身長が2倍になっても良いように、少なくとも自分の倍以上の高さがある部屋で生活すべきだし、倍のサイズの衣服を用意しておくべきである。ついでに、自分の身長が半分になってしまったときのことにも備えて、子供用の服も用意しておくと良いだろう。さらに一年は部屋に引きこもって現実逃避していられるように食料や娯楽を備え、預金も蓄えておくと良い。準備は早いほうが良いから今の倍以上は稼ぐべきだ。そして今の倍以上稼ぐための秘訣は、こんなくだらないことに頭を使わないことである。

2011年2月12日土曜日

日々の記録

 そういえば、いつの間に実装されていたのかわからないけど、GoogleEarthの過去のイメージを見るという機能が面白い。今はまだストリートビューが実装されて日が浅いから劇的に面白いわけではないけれど、これがあと十年、二十年と時を経ていけばかなり浸れるコンテンツだと思う。
 正直言ってコレをGoogleに独占させるのは惜しい。ストリートビューで表示されない地方が手を出すなら今しかない思う。今ならまだ何十年後かに街の売りとして看板にできると思うし、それほど長期的でなくとも、ストリートビュー的なものにリンクを貼り付けてその地域の名物的なものを売るようにすれば、ある程度買ってくれる人もいるかもしれない。
 あるいはもしそれが一般的になって外部を引きこむことができないものとなったとしても、そこで暮らす人、暮らしていた人にとっては良いサービスになると思うのだ。というか僕自身、自分が育った村の、十年くらい前のストリートビューを見てみたい。まあ、今更無理だけど。あと無理を承知で言うなら、小学校とか中学校とかのストリートビューも見たい。もはやストリートじゃないというのはさておき。

 さらにコレをかなり乱暴に延長させると、家庭内ストリートビューの導入ということになる。そんなものは個人個人、各家庭ごとに写真やビデオに残している、という意見もあるかと思うが、それとコレとは違う。少なくとも僕の知る限りではそういった媒体に残そうとするのは非日常である。非日常から日常の記憶を再生させる、といのは記憶媒体に記録するという行為自体が非日常的だった世代の言わば生活の知恵であり、全然駄目というわけではないが喪失する部分が大きすぎる。

 この間、後頭部にカメラを埋め込んだ教授の話を見かけた。結局拒絶反応によってカメラを取り除くことになったそうだ。わざわざ埋めこまなくてもメガネに仕込むなり他に方法は色々あるだろう。それではなぜそうしなかったのか。おそらくわざわざ埋め込んだ、というセンセーショナルな行いで宣伝をするという意味もあっただろう。しかしそれだけではないのではないか。メガネなり帽子なり、それを付けるという行為を必要としないことによって、より日常に近いものを記録したかったのではないか。なんて思う。
 いや、あるいは頭にカメラを仕込んでる人間に驚いた人々の表情を撮りたかったのかもしれないけど。

2011年2月11日金曜日

処方箋

 何となくで再び書き始めた日記も無事三日坊主を回避成功。少なくとも正月よりめでたいと思う。そういえば前の会社の社長がこんなことを仰っていた。
「人が辞めたくなるのは3,6,1。三日目、半年後、一年後、三年後、六年後という具合にその周期が巡ってくる」
 たしかに、経営者からみるとそうなのかもしれない。実際自分も、契約の事情もあったとはいえ、半年で辞めたし。よかったね社長、自説の確からしさがアップしたよ!イエイ!

 さておき。自分でも変だと思うのだけど、なぜまたここに書き始めたのが今なのだろう。会社を辞めたのが昨年の12月末。それからひと月ぼんやりして、今月頭からまた働き始めた。先月のほうが時間的にかなり余裕があった。にも関わらず、その間ここを更新しようだなんて考えは一切浮かばなかった。では今回更新を再開したのはどういう動機かというと、なんとなく、としか言えない。
 そういえば、前のところに就職した時もブログをか再開しようとしたような気が。と思い履歴を見てみたら、そのときは2日で途絶えていた。まあ、うん、しんどかったもんね。
 しかし再開しようと思っていたのは事実らしい。さらにもう少し遡ると、就活を始めた3月末にブログを書き出している。それはひと月くらいで途絶えたけれど。
 つまり、何かを始めたときに、どうやら僕はここを更新しようとするらしい。といっても、始めた何かとはそれほど関係ないことが殆どだ。では、そうすることで一体何を得ようとしているんだろう。
 書くという行為は自分にとって喋ったり踊ったりするよりは慣れたことだから、精神的安定を得ようとしているとも考えられる。何かを始めるとき、あるいは知らない何処かへ行ったとき、そこで経験するあらゆる初めては結構大きなストレスだから、そこから逃避できるセーフハウスを内面に築こうとしている、とも考えられる。
 しかしそれとは無関係に、あるいはそういった背景が要求するからかもしれないが、僕がここを更新しようと思いつくのは、なにか新しいことを思いついたか、思いつきたいと願うからだ。
 だからおそらく、何かを始めた際に生まれるエネルギーの余剰が、ここで消費されているのではないか、とも思える。


 前の仕事をしていたとき、ときどきこんなことを考えていた。「ああ、もっと余裕があったら」「やりたいことがいっぱいあるのに」
 しかし実際には、何かをし始めたのは余裕があった先月ではなく、余裕が少なくなった今月からである。
 つまり僕のような怠け者は、生来楽をしようという機能が働いているらしく、必要なときに必要と思われる分だけしかエネルギーを用意してくれないようだ。それでは長期的な目でモノを考え先行投資をするというのが困難だから、いずれ改善したいとは思うが、現状の自分がそういう性質なのであればそれを受け入れ、それを利用して動かしていくのが良いのだろう。
 何かに行き詰まったら、何か別の新しいことをとりあえず始めてみる。あるいは新しい環境に自分を置いてみる。そうすれば、どこかに行けるのではないか。たぶんそれは立ち止まっているよりは有益なんだろうと思う。自分はただでさえ立ち止まりやすいのだから、意識の側は歩かせることだけを考えてあげるのがきっと良いバランスなのではないか。

2011年2月10日木曜日

自戒

 このところ毎日のようにジャニスという店でCDを借りてしまっていた。いかんなぁ、と思いつつ“でもここで借りなければ聴けないものだし仕方ないじゃん”なんて言い訳をしつつ。
 そんなこんなで聴く音楽が、“素晴らしいけど、後ろめたい”みたいな無意識のバイアスを掛けられて感じられたら良いのだけど、性能の悪い僕にはただただ“素晴らしい!”としか感じられない。

 これをそのまま続けるとどうなるかというと、借りてくる音楽に対しての評価はそのままのため、音楽を借りて聴くことをやめることができない。後ろめたさも同時に生じるわけだけど、それは音楽にも、音楽を借りてくる自分にも直接的には向かず、ただ“自分はダメな奴”という自己否定に向かうと予想される。
 その自己否定の蓄積が色々なものの阻害を生じさせるのだけど、それでもこのままだと音楽を借り続けることが考えられる。なぜなら人は自己に一貫性を持たせようとするものであり、さらに自己否定もまた自己弁護の一種であり、つまり自己否定せざるをえない行為を自らに許容するために自己否定し続ける、というダメダメなループが形成されるからだ。

 ならんことはならん。そうして自己否定せずに済むように行動することが、多少不利益であっても、自分に優しい行いだと思う。

2011年2月9日水曜日

ポケットに罠を忍ばせて

 朝、いつものように目を覚まし、出勤の準備をする。満員電車に揺られ、仕事場へ到着。いつもどおりに仕事をこなし、また電車に揺られ、帰宅。そしてつかの間の自由を消費し、就寝。
 そんな毎日にふと疑問を感じたら、あなたはあなたのために罠を仕掛けるべきだ。

 また、あるいは、あなたがもし他人に対して自分が望む以上の距離を感じ、それを改善したいと願うものの、その解決策が見いだせないというのであるなら、やはりあなたはあなた自身に罠を仕掛けるべきである。

 罠という言葉が気に入らなかったら、悪戯でも構わない。どっきり、サプライズ、何だって良い。つまり重要なことは、未来の自分を少し驚かせてやろう、困らせてやろうとすることである。
 しかしだからといって、例えばいたずらに保険証を切り刻んでみたり、夜中のうちにメガネを粉砕しておく、などといった行為は日常に大きな支障をきたすため避けたほうが良い。この世には良い罠と悪い罠というものが存在するのである。

 では良い罠とは何か。その条件を以下に羅列しようと思う。
 “良い罠十か条”
 1.いかなる罠によっても何者かの生命を奪うものであってはならない
 2.罠がもたらす影響が長く尾を引くものであってはならない。
 3.罠は、それが罠だと悟られても良いが、その気づきが遅れるものほど良い。
 4.罠が罠と悟られるとき、同時に解法までをも悟られるようなものであってはならない。
 5.罠は超自然な方法、あるいは不可思議な魔力を使ったものであってはならない。
 6.罠に中国人を登場させてはならない。
 7.罠を仕掛けるのに預金が尽きるほど散財してはならない。
 8.罠のために食べ物を粗末にしてはならない。
 9.自分に罠を仕掛けていることを他人に見抜かれてはならない。
10.備考/その他

2011年2月8日火曜日

目からぼた餅、耳から駒

 「耳レイプ」という言葉は、不快に思われる音を無理に聞かされている状態の時に使われるものと認識していたが、最近では肯定的な意味で使われていたり、さらには「耳が濡れた」「耳が孕んだ」などという派生語も目にするようになった。
 従って我々が誤解のないように本来の意味として、「こんなクソみたいな音を聞かされるのは非常に不愉快であり、このままでは私かあなたのどちらかが命を落とすことになりますよ」と言いたい時に使う場合には、いっそ「耳が望まない子を孕ませられた」「耳が望まない子を出産した」というのが良いのではないか。

 なんてことを公衆の面前で口にしたら、「そういったことは冗談にして良い類いのことではありません、慎みなさい」と窘められるか、「おまわりさーん」と逃げられるだろう。前者だった場合、その人はかなり優しいと思って間違いない。
 しかし、そんな優しさに屈するのも癪である。なぜなら、それほどまでに不快な音というのは確かにあるからだ。それも、ときどき耳にする、という頻度ではないほどに。

 あなたがもし買い物しようと街まで出かけたら、財布ないのに気づいてそのままドライブしない限り、つまりカローラⅡを所有していない限り、ほぼ確実に最低一度は耳を塞ぎたくなる音を耳にするはずだ。
 そんなことはない、街中は賑やかな流行歌で溢れていて全く不快ではないし、カローラⅡは持っていない、と仰るのであれば、よろしい、謝ろう。ごめん言い過ぎた。

 ひとまずここは落ち着いて、深呼吸して、右手に持ったカッターナイフを降ろして、こちらの主張を聞いてもらいたい。
 不快な思いをしているからといって、周囲をも不快にさせることで自らの不快を取り除いてもらおう、というのは確かに甘えである。それが許容されるのはせいぜい思春期までであって、大人であれば意識的に廃していかねばならないものの一つである。
 「耳が望んでいない子を出産した」
 確かに、同様の体験をした、あるいは目にした人が聞いたら眉をひそめる表現かもしれない。また、望まれていない子がいる、という認識自体に腹を立てる人もいるだろう。
 では、「耳が望んでいない子を出産した。最初はこの新しい生命に対する戸惑いと不安、相手の男への憎しみ、そして周りの人達のぎこちない優しさに、疲れ、疎ましく思い、いっそ心中さえも考えた。しかしある日、パートから帰った耳を、母に抱かれた我が子が笑いながら手を伸ばし、出迎えてくれた。耳は思う。いつか私もこの子を愛せる日がくるのだろうか」とでも言えばいいのか。毎回毎回、一言一句違わずに。それともあれか、このくだらない与太話を街中で毎回更新していけというのか。新手のイジメか。

 単純に「この音は不愉快だ」と言えばいいじゃないか、と思われるかもしれない。しかし、自分が真に主張したいと欲しているときは、相手に違和感を覚えさせるようなものでなければ効果が無い。在り来りに言ってしまえば、ああ、またその話ね、なんて流されるのが落ちだ。

 まあ、この手の音や映像に関することは大概にして主張しても意味が無いケースばかりだから、諦めて黙り、ヘッドホンでも付けるのが一番賢いのだろうけど。
 何が言いたかったのかというと、いつもどおり、特に何も。

2011年2月7日月曜日

whitecap(フリー版)について

 ここでいうwhitecapとはiTunesのビジュアライザの一つである。
 1,2年前にダウンロードして、「お、なかなか良いな」と思ったものの、いくら気に入ったエフェクトに設定しても壊れかけのファービー人形のごとく次々とランダムな設定に切り替えられるのにうんざりした挙句、僕はいつしかこいつを使わなくなった。

 しかし先ほど気まぐれにいじってみたら、ランダム設定が解除できて「おお、なかなかなか良いではありませんこと?」くらいに感動したので、ここにそのやり方を書いて残す。
 というのも、グーグル先生に“whitecap 使い方”で伺い立てても知らぬ存ぜぬを決め込まれたことに、少し憤りを感じたためである。

 whitecapのインストール方法等々はここでは省く。
 iTunesで無事whitecapが動かせてからの話をしようじゃないか、お奉行様。


 さて、whitecapのランダムを切る方法は、まずwhitecap表示中に“u”を打つ。
 以上である。


 ね、簡単でしょう?
 あ、これ、一回言ってみたかったんです、すみません、猛省してます。
 せっかくなので、他の機能も紹介すると、“h”を打てばヘルプが表示されるから、それを読めばいいんじゃないかな。
 というか、僕個人、ランダムさえ切れればあとはどうだって良いので、全然知らないし、英語は読めないし、日本語もおぼつかないし、最近歯が痛い。

 個人的におすすめなのは、waveを“My Malia”、Colorを“Parchment”に設定、背景なんて無し。
 こうすることによって、残響を視覚的に見るということを楽しめるわけである。