2012年5月22日火曜日

遭難

気付いたら舟の上だった。あのひどい嵐を生き延びることができたのは、どうやら僕だけだったらしい。それとも、他の人々は別の船に助けられて、僕だけが置き去りにされたのだろうか。疑問に答えてくれる者はいない。一面には海と空。それだけだった。
僕が乗せられていた舟はちっぽけで、一人分のスペースがやっとの大きさだったけれど、古びた釣竿と木製の桶とオールが一応備えられていた。乗せられた。そう。少なくとも僕には、自分の意志でここに乗った記憶が無い。覚えているのはひどい揺れと、悲鳴と、暗闇だけ。僕はあのとき客室から出なかった。騒ぎが収まれば助かるのだろうし、収まらなければ死ぬのだろうと、そう思っていた。きっと日常にすがりつこうとしていたのだろう。獣の前で自分は透明だと信じ込む兎のように。そんなものはなんの助けにもならないのにと、今ならわかる。でも、あのときはもう、何もできなかった。きっと再び同じ目にあっても、何もできないだろうと思う。
けれど、その何もできない僕が助かってしまった。一体誰が、助けてくれたのだろう。その人は、それからどうしたのだろう。
見渡せる範囲には、あの船の残骸も、死体も、他の舟もなかった。太陽が沈む頃、ようやく自分が北の方に流されているらしいことはわかった。

この小舟の上での生活は快適さの対極にあった。穴が開いているわけでもないのにいつの間にかじんわりと浸水してくるので、日に5,6回桶で水を汲み出さなければならなかった。また、そのため長い時間深く眠ることも叶わない。目覚めはいつも衣服の不快な重さ。衝動的に服を捨てたくなったのは一度や二度ではない。
食事は当然魚ばかりだった。安全に食える魚とそうでない魚を見分けられるようになるために、僕は右の人差し指を半分失った。自分の指を食いちぎった魚は、不味くてとても食えなかった。でも他の魚達だって別に美味いというわけではない。食っても問題ない奴と、そうでないのがいるだけだ。ここでは食事もただの作業だった。喜びはない。ただ、空腹が苦痛だから、軽減するためにするのに過ぎなかった。
日差しは体中を焦がし、風は爪先を凍らせるほどだった。病気にかからないことが不思議に思えもしたが、ここでの生活自体が重い病と大差がないため、もはや健康でないことしかわからないというのが適当だった。
あれからどれほどの月日が経ったのかはわからない。ただ、遠くに浮かぶ救助船の幻覚を見なくなって久しい。幻覚でもいいから何か見たいと願っているのに。そこまで消耗しているのか、と自覚させられる。

夢を見た。
横たわる僕を男が見下ろしていた。薄汚い格好で、頭髪も髭も整えられておらず、目は濁っていた。けれど僕は、何故かその男が神様だと思った。
「私は神ではない」男はひどく聞き取りにくい声で言った。「そもそも神なんているわけがないだろう」
「ではあなたは誰ですか」僕は男に訊ねた。否、訊ねようとしただけで、そのとおり口が動かせたようには感じられなかった。
それでも男は静かに答えた。
「私がお前をこの舟に乗せた」
「あなたが?」
「そうだ。そのことはすまないと思っている」
「どうして?だって、助けてくれたのでしょう?」
けれど男は黙って首を横に振った。
「この舟に乗せてもらわなければ、僕は死んでいました」
「死んでさえいれば、この舟に乗ることもなかった。ここでの苦痛を味わうこともなかった。そうは思わないのか」
「それは・・・」僕は迷い、そして訊ねた。「では、どうしてあなたは僕をこの舟に乗せたのですか」
「自分をこの舟から降ろすためだ。お前は他人だ。他人だから、この舟でお前が味わう苦痛に、私は無関係でいられる。だが、自分の苦痛は自分で引き受けなければならない。自分を乗せるより、お前を乗せたほうが楽だから、そうしたまでだ。お前は舟に乗せられたことを、助けてくれた、と言った。それは私という他人の行為だからだ。お前が自分の意志でこの舟に乗ることを選んだとしたら、それだけで助かったとは思わないだろう」
「でも、生き延びている事実に変わりはありません」
「それがこの海でどれほどの価値をもつというのか」男は鼻息を漏らした。「私にはわからない。わからなくなったから、お前を犠牲にしたのだ」
「僕は犠牲にされたのですか?」
「そうだ。助けられてしまったせいで、この舟から降りられずにいる。もはや希望などないのに、生きるのをやめられずにいる。お前がこの舟を降りられるのは、別の誰かを乗せるときだけだ。私がそうしたように」
そして男はまっすぐ腕を伸ばし、遠くを指差して言った。
「目を覚ましたら、あちらへ向かうと良い。二日後、客船が嵐に遭遇する。そこに、乗せるべき者がいるだろう」
「助けろということですか?」
男は何も答えず、じっと僕の瞳を見た。
「では、見捨てろということですか?」
男は、まばたき一つしない。
「僕は助かりませんか?」
男は、呼吸さえしていないようだった。
「あなたは、助かりましたか?」
男は静かに目を閉じた。

目を覚ますと、いつもどおり、身体が海水に浸っていた。僕は上半身を起こし、桶をたぐり寄せる。
男の指した方角を見ると、穏やかな、平和そのものの海が見えるだけだった。あの日の前日だって、あんなふうに穏やかだったな、と僕は思い出した。