2014年6月28日土曜日

dp2qをてにいれた!

カメラによる最大のメリットは、得られる画像なんかではなくて、画を探す意思を持つことだと思う。
とは言うものの、dp2 quattroはどうしようもなく最高で、最高だと思える道具を使えることは大変恵まれた状態だと思う。
・・・たとえ20ヶ月に及ぶ支払いがこの後に待ち構えていようとも。

そんなわけで、愛しの犬猫をカメラで撮るために、週末は実家に帰った。


猫の寝姿がいつもの2倍愛らしく見える。quattroならね!
それはともかく、そろそろ夏なのだから人の上で眠るのはやめて下さい。
いや、嬉しいけど。嬉しくはあるけど。


犬と散歩中、撮影。



この季節と言ったら、この花というイメージがある。
蜜が甘いし、友達が蟻を誤飲したときの表情が忘れられない。


グラウンドでは大抵リードを外してあげる。
誰もいない僻地だからこそできる贅沢だ。


飛行機が飛んでいたので、慌てて撮影。
とっさのことだったから、モノクロモードのまま。
まあ曇り空だったから、いいけど。


とりあえず、本日は以上。

2014年6月27日金曜日

夜中の文章

目を閉じれば自由
現在は、常に頭のなかで構築されて、遅れて顕れる
それを少しずつ遅くする
現在は延長される
あるいは離れていく
更に遅くする
もはや外界との関係を思い出せないほど
遠くする
そうすればきっと思い出す
自分の自分に対する責任を思い出す
そして自由を思い出す
さて、目を開ける
一体条件がどれだけ変化したというのか
結局現在を構築する責任は変わらず
自由は離れがたくそこにある

2014年6月17日火曜日

超光熱視線

 方々で言っているので、ここでも以前書いたことがあるかもしれないが、僕は「皆様の応援のおかげで」みたいなリップサービスは馬鹿らしいと思っている。何が気に喰わないのか分析してみるに、まずファンの応援と結果は当たり前だけど相関関係がない。士気の高まりというのはあるかもしれないが、個人の能力に比べてあまりにも瑣末な要素だ。もちろん、そういったことは言わずもがな、言わぬが花という暗黙のうちに乗り越えるべき不合理なのだろう。しかし、それを置いておいたところで、依然として不愉快である。なぜならそのリップサービスを理由として、ファンはより一層の応援を頑張るからだ。別に、誰が何を応援しようと構わないが、その勢力が大きくなればなるほど、騒音が増し、鬱陶しくなる。従って、鬱陶しさを助長するような発言をやめていただきたい、ということだ。

 しかし考えてみると、世の中の商業的なスポーツの類はファンがいなければ、たとえバックに親会社があろうとも成立しないものである。つまり、「(今日のプレーは日々の練習と、自らに備わった才能の賜だが、それを成立、持続させるためには諸経費がかかり、それを負担する親会社は最終的にお前らから金を貪るために我々を必要としているので、結果的に)皆様の応援のおかげで」ということか。ずいぶん長いな。
 まあ、長くはあるが、そうまで言うならファンのおかげでということでも良い。しかしそれは、今日自分が生きているのは太陽のおかげだ、というのと同じことだろう。それ自体間違っていないが、そこをありがたがりすぎるとちょっと危ない人だ。
 そんなことを考えて、さらに、じゃあもし太陽を自分のファンと思い込んだらどうかというところまで妄想してみた。太陽が僕のサポーター・・・?毎日、日の出ているうちはずっと観戦されているのである。それで、「おいおい、その文章はないだろー」「うわ、今、同僚(女子)にドン引きされたぞ」「もういいよ!俺にやらせろ!」みたいなことを絶えず言われている。太陽に。すごい鬱陶しい。
 ああ、そうか、この鬱陶しさを与えられながら、それでも尚、「皆様のおかげで」と言えるのは、それ自体とんでもなくすごいな。とっても立派だ。僕なんか、太陽死ね!って思ったもの。勝手に妄想したくせに。

 そんなわけで、スポーツ選手たちはすごいなあと思いました。

2014年6月9日月曜日

正しすぎる人たち

 良いか悪いかは状況によって異なる。だからある人間が、良い人か悪い人かも状況によってことなる。状況は時間によって変化する。従って、ある人間が良い人かどうかは時間によって変化する。
 そして日本における一日の大半の時間は、良い人のほうが多い割合で存在すると思う。それだけ豊かだと思うし。でも、実際のところ、どうなんでしょう。
 そもそも人間が良い人であるためには何が必要だろう。法律が順守されていて、もっと小規模なコミュニティのルールも守られていることは必要そうだ。厳密に言うと、前述の2つが守られているとき、そのコミュニティにおいてその人は良い人と見なされる、という感じだろうか。
 そうすると、良い人が多いとは、成立し持続しているコミュニティが多いことを意味するんだろう。また、一人の人が多くのコミュニティに同時に属していることも重要だと思う。なぜなら人にはそれぞれ適正があるので、参加できるコミュニティが多いほど、適正に叶う可能性も増えるからだ。

 さて、こんな事を延々と書き続けるのも何なので、入るべき本題を探そう。いや、今回はタイトルを先に決めたので、入るべき本題は既に決まっていて、あとはどうやって侵入するかというだけの問題なんだけど。
 ネット上でよく見かける炎上マーケティングについて。あれに対し、スルースキルを身に付けることで、くだらないものを駆逐すべきだ、話題にするだけ餌を与えることになるから、と思っていたけれど、たぶんそれってムリだろうなと感じた。
 くだらないもの、わざと話題に上るように意図された誤謬は、意図されたとおり沢山の人の正義感に火をつける。しかし冷静に見てみると、そういうとき一番得をしているのって、一番正しそうに正義を振りかざした人のように思う。得って言っても、みんなの注目を集めるとか、賛同を得るとか、そういうものだけど。
 そうやって得をし続け、そのコミュニティで有名になっている人も多い。それが自覚的であれ無自覚的、あるいは結果的にそうなってしまっただけであっても、周囲からみたときそれがあこがれの対象となってしまっている場合が多い。
 普通、人は憧れたものを真似してみたり、応援しようとしたりする。
 そんなわけで、炎上マーケティング関連というか、ああいうのってむしろ正義グランプリみたいなものになっていて、彼らは炎上マーケティングを行っているんではなく正義グランプリを開催して、そのおこぼれを日々の生活の足しにしているように見える。

 そういった商売の手法が小規模では成立するので、正義グランプリは日々開催され続ける。考えるべきなのは、バカをどうやって出さないかではなく、正義をどうやって鎮めるかということではないだろうか。
 どうしたら、正義は鎮められるのか。一つには、フィルターを掛けること。この先生体情報の管理を端末から行うようになれば、システムの側で「この情報の閲覧はあなたにとって不快な思いをさせる可能性が高いが」というような警告を出すようにするとか。
 しかしこれに関しては、人が任意で選択可能なものにすると、うまくいかないようにも思う。なぜなら人は正義を示すの大好きだし、何かを非難してそれを共有したいし。
 どうしたらいいんだろう。もう少し考えてみようと思う。とりあえず、今日はここで。

2014年6月6日金曜日

気持ちは伝わってしまうが、言いたいことは伝わらない

 タイトルで終わりにして良いくらい、それだけのことだけど一応このテーマで書いてみたい。たまに、気持ちは伝わらない、なんて言葉を目にする。でも、面と向かって話をすると気持ちだけが伝わってしまい、話は伝わらないということの方が圧倒的に多い。気持ちに関する情報は、人間が対面して話をする時、もの凄く多い。表情も目も言葉の調子も、タイミングも仕草も、そのほとんどが気持ちを表してしまう。逆に、これを隠すのは非常に難しい。よく知った相手ならなおさらだ。気持ちなんて、本来的に伝わってしまうものであり、コミュニケーションの殆どの部分は気持ちのやりとりである。言いたいことなんて相手にとってみればウォーリーを探すより遥かにハードなことである。
 では、こうして文章を書けば言いたいことが伝わるかというと、それもまた困難である。なぜなら普通、日常において気持ちのやりとりでのコミュニケーションが強く強化され、それに合わせた言葉の装飾が訓練されているからである。つまり、いつもは気持ちによって補完された言葉の応酬をしているのに、いきなり文章だけで言いたいことを伝えろと言われても難度が高過ぎる。読む側も言葉しかない中から気持ちなんてものを探すので、コミュニケーションはベリーハードである。

 翻って自分の場合、気持ちはなるべく伝えたくない。むしろ隠したい。言いたいことだけ伝えたい。そう願っているが、どうしたって気持ちは伝わるし、言いたいことは歪んで送られる。相手の気持ちを理解しろ、と世の中ではよく言われる。気持ちを理解することが優しさであるとされている。しかし僕にとっては、気持ちを無視してくれるのが優しさだ。どうか僕の気持ちを考えないでくれと思う。

 とまあ、こんなことを書いていて気付いたけれど、ここに書かれていることは、ここで書こうとしていることは、ひょっとして僕の気持ちじゃなかろうか。つまるところ、僕は、受け取って欲しい気持ちだけを受け取れ、と望んでいるにすぎないのではないだろうか。
 じゃあもう、気持ちは汲んでくれなくていいし、この文も読んでほしくないし、こんな文は書かなければよかったな。それがわかっただけでも、これを書いた価値があるな。

2014年6月5日木曜日

愉快な逃避行

 最近、仕事中にしょうもない書き間違いや勘違いで無性に笑ってしまうことが多い。笑いのハードルが如実に低くなっているのを感じる。それで、気付いたことがある。忙しさ、余裕の無さと笑いのハードルは相関関係にあるということだ。つまり、昔は年長者がくだらない冗談を言ったりしていると呆れたり困ったりしていたが、それはつまり彼らが忙しかったり余裕が無かったりしたということなのだ。
 この現象の理由は、逃避の欲求にある。面白いという感情は、その状態へ意識を向かわせるためにある。つまり、意識が疲弊した環境に置かれ続けると、そこからなんとか抜け出たようとし、そのきっかけである面白いという感情、笑いを誘発しやすくなる、というわけだ。
 これは自覚的であったほうが良い。もしこの状態が末期になれば、もはやすべてが面白おかしく感じられるようになり、主観的には全方向極彩色のパラダイスと化すが、周囲から見たらコミュニケーション不可能な少なくとも関わりたくないアレな人である。そんな極端な状態に至らずとも、今まで培ってきた価値観、感性がこんなことで歪んでしまうのは大変残念なことである。面白さ、向かいたい場所、指向性はもっと理想へと向けられるべきだと思うからだ。
 何にでも面白さを見出すというのは資源の無駄遣いになりうる。つまらないものはつまらなくて良いし、笑えないものは笑わなくて良いというドライさを常に忘れずにいたい。

 それとは別に、つまらないことで笑っている人に対して、もっと優しくあっても良いかもしれないと思った。余裕の無さがその奥にある、もしくはあったかもしれないのだから。

2014年6月4日水曜日

眠いんだんだんだん

十分な睡眠を取ることが自分には必要だ。
そんなわけで、目を瞑りながらこの文用を売っている;。とにかく眠い。それでもこんなものを書いているのはなぜだろう。一体何の使命感なのか。不毛だ。しかし、この不毛さこそが、命綱としていざというときに機能する。総に違いない。そんな妄執と同じようなもので、きっと僕の爺医さんはいらない紐を要らないはこの中に蓄え続けていたんだろう。爺さんは随分昔になくなって、紐は箱ごと随分前に捨てられたけれど。そんな無駄な安心感が生きるのに役立つ。役立つと信じられる何かを持つことが大事だ。子供さえ騙せなくても、自分ならば騙せる。たぶんそういうものだ。何を書いたのか既に覚えていない。きっと変換ミス、打ち間違えの甚だしい何かが、ゴミが、またネット上に一つ増えたというだけだ・ごくありふれた生命活動だ。

2014年6月3日火曜日

特に意味が特にない特に

 なにかこう、継続可能で労力も少なく、なおかつ面白いネタはないだろうか。というわけで、復帰後すぐに放置していました。ただいま。
 最近、文章を打っていると、指が勝手に予測行動してしまう。上に大した意味もなく「ただいま」とか書いたけど、そのときも“いま”の時点で自動的に“す”が打たれた。なんだよ「ただいます」って。まあその自動化も極まれば、指の動きと別の思考を分断できるだろうから、無意識領域にはぜひ頑張っていただきたい。今、「いただきます」って打ちかけたけど。
 しかし、まあ、おそらく世の中のデスクワーク従事者の大半は、既にそうやって文字を打ったりしているんだろうな。つまり、こんなことを書いたところで自分の未熟さを際だたせるだけである。
 でも別に見栄を貼りたいわけでもないし、一番読んで欲しいのは数年後の自分だし、正直に、素直に、思うまま書いたらいいんじゃないかな。
 未来の自分に優しく。年長者におもいやりを、というのは正しい。自分の歩む道の先には、必ず老いた自分がいる。まあ、30くらいで死んだとしても、少なくとも今よりは老いているだろうから、間違いではないだろう。

 明日もなにか書けるでしょうか。頑張って、明日の自分。