2013年10月28日月曜日

2013年8月16日金曜日

老人とタカシ


「じいちゃん、じいちゃん、肩たたきしてあげる」
「おうおう、タカシはいい子だなぁ」
「ねえねえじいちゃん、聞いてもいい?」
「よしよし何でも聞いてごらん」
「人って死んだらどうなるの」
「うーん」
「先生は、死んだら何もかもなくなるから、危ないことはしちゃだめだって」
「うんうん、そうだなぁ」
「でも、ばあちゃんは死んだけど、オボンに帰ってくるんでしょ?意味わかんない」
「タカシは賢いなぁ。そうそう、人は死んでもな、魂は死なん。そういうことなんだよ」
「タマシイってなに?」
「うーん、心みたいなものだな。ばあちゃんは死んだけど、ばあちゃんの心は生きているから、お盆になると帰ってくるんだよ」
「ふーん。じゃあさぁ、みんなもう死んじゃったらいいんじゃない」
「・・・うん?」
「みんな死んだら、タマシイだけになって、一緒にいられるんでしょ?じゃあみんな早く一緒に死んだらいいんじゃないかな。死んだ方がいいよね!」
「タカシ待ちなさい、タカシ!・・・とりあえず座りなさい。いいか・・・、死んだ人間は天国か地獄へ行くんだ。いい人間は天国へ行く。悪い人間は地獄へ行く。ばあちゃんは、いい人間だから天国へ行った。だからワシらはばあちゃんに会えるように、しっかり生きていい人間にならなくちゃいけないんだ。わかるか?」
「でもさっき、じいちゃんは僕のこといい子だって言ったじゃん。いい子なら天国に行けるんじゃないの」
「待て待てタカシ、自分で命を粗末にする人間は、どんなにいい子でも地獄へ行くんだ。それは、命を粗末にするのが悪い行いだからだ」
「じゃあ命をソマツにしないで死ねばいいの?」
「タカシ、自分で死のうとするのが、命を粗末にするということなんだ。わかるか」
「タサツに見せかければいいってこと?」
「全然違う、タカシ。それはハズレだ。というかそんな言葉どこで覚えてきたんだ」
「本で読んだ」
「タカシは本が好きだからなぁ。偉いなぁ」
「えへへ。じゃあ死んでいい?」
「待ちなさいタカシ。それは偉くない。死んだら偉くない」
「えー、じゃあばあちゃんは偉くない?」
「いや、ばあちゃんは偉い。そうじゃなくて、たとえばばあちゃんは病気で死んだ。そういうふうに、生きようと精一杯頑張ったけどダメだったときは、偉い」
「病気になればいいの?」
「違う違う。ばあちゃんは、病気になりたくてなったんじゃない。なりたくなかったんだけど、病気になった。そういうことが大事なんだ」
「わかった!僕も病気になりたくないけど頑張る!」
「わかってない!タカシ、待ちなさい。何をするつもりだったんだ」
「何って、病気になるように頑張るつもりだけど」
「まず、病気にならないように頑張りなさい。そうしないと天国には行けない」
「うーん、難しいね」
「そうだ、難しいんだ」
「わかったよ、じいちゃん、僕まだ死なない」
「うんうん、それでいいんだ。そうだ、肩たたきのお礼にお駄賃をあげよう」
「わ、ありがとう!じいちゃんはいい人だね。・・・あっ、そうか!」
「待ちなさいタカシ。たぶんそれは間違っている」

2013年8月14日水曜日

から


 最初に失われたのは何だったろう。何もかもが跡形もなく消え去ったあと、ようやく私は生まれた。そんな気がする。
 実際のところはよくわからない。わかるという言葉を使うために必要な条件を、このことに関して私は一切持っていない。けれどそれはわからなくても確かと言える事実だった。私はそれを神様よりも信じていた。そのことと、私という言葉の指す対象は断ち切ることのできないもので結ばれていた。
 生きることで取り戻せたものは、失われたものの何%になるのだろう。最初から、全てをもう一度取り戻せるなんて思っていない。幼い頃そのことで何度涙を流したか知らない。何かを手に入れるたびに、これでは全く足りないと思い知らされる。でもどれくらい足りないのかがわからない。それなのに、その量がどうしようもないほどだということだけはわかっていた。
 私は私になる前、いったい何だったのだろう。どうしてこんな喪失感をいつも抱いていなければならないのだろう。記憶を積み重ねることさえ、私には苦痛だった。
 いつか何もかも手放せる。それだけが救いだった。手放せることよりも、手を失えることが待ち遠しかった。手があるから、境界線が作られる。私は私の手を失うことで、きっと全ての手を同時に握れるだろう。以前はそうしていたに違いない。その証拠に、今まで握った全ての手は懐かしさを感じさせた。これでは全く足りないという確信を伴って。
 ときどき夢を見た。私のいない夢。この体は世界になく、私には何も見えず、何にも触れることができない。けれど全ての時を見て、全ての場所に触れ、それなのにどんな感情も動かない。目が覚める前、一瞬だけ安心を感じる。これこそがあるべき形、あるべき私なのだ、と。
 しかし目を覚ますとそのまやかしと、そんなものにさえ縋る自分にはたと気づき、心底絶望する。
 それでも私は夢を見た。何度も、繰り返し。
 そう、私はそれでも生き続けたのだ。
 でも、それは何のためだったんだろう。
 生きていると、色々なことに慣れてくる。喪失感にも慣れた。絶望にも慣れた。私は私に慣れた。
 そして生きていると、生きてしかいないのに、それでも色々なものを失う。失ったと気づくたび、私は微笑ましく思ってしまう。懐かしいと感じてしまう。そして、どうせ失うのなら、いいか、と今では少し思っているのだ。どうせ失うのなら、始めに何を失ったのかなんて小事ではないか、と。

2013年1月11日金曜日

ゴミ王国崩壊のとき

 ブログ上ではお久しぶりでございます。ええと、ワタクシ、なんだかんだありまして、この度東京から福島へ引っ越すこととなりまして。ほぼ十年続いた一人暮らしも一応これにておしまいです。
 どちらかと言えばめでたいジャンルの話なはずではあるんですが、全く嬉しくない。その理由は下図をご覧いただければ明らかでしょう。













 悪夢でしょう?これを今月中に全部片付けないといけないわけです。
 そんなの無理だよ馬鹿野郎!
 言っときますけどこんなの氷山の一角っていうか、我が家のあらゆる空間がこれなんですよ!もさあ、正直部屋ごと焼いてしまいたい。あるいは今後死ぬまで家賃払い続けてこれを放置したい。
 ・・・わりとマジで!
 どうして、こんな事になってしまったのか。ま、考えるまでもなく、これぞまさしく日頃の行いです。でもこれに関しては森先生がこんな感じのことを書いておられる。
『部屋と頭の散らかり具合は反比例する』
 すなわち、頭の中が明晰であれば混沌とした物の配置であっても問題がない、頭の中においてはそれは整理されているも同然だし、その能力があればこそ散らかった部屋はその部屋の主に許容されているのである、ということです。
 まあそのわりに、しょっちゅう物が無くなったと騒いだりしてますけどね、僕。それにここまでくると、頭の中が散らかるとか綺麗とか以前に空っぽなんじゃないかって疑惑もナキニシモアラズですけどね。
 そりゃそうなんですけど。ともかく、そんなことはどうでもよくて、重要なのはあと20日程度でこの我が部屋は空っぽにならなくちゃいけないってことです。僕の頭の中みたいに!無理!

 そんなわけで、地味に人生最大のピンチを迎えておる溝井でした。明日は燃えるゴミの日だ!!