2011年9月5日月曜日

それは言わないお約束

 「いつも遅刻してくる人がいる」という愚痴をこの間、他部署の人から聞いた。その部署は二人体制のため常にその人のみに負担がいってしまう。上司に直訴してはどうか、と僕が言うと、それは以前試みたものの解決に至らなかったらしい。
 問題の人の主張によると「タイムカードはいつも時間内で切っているから問題ない」ということだそうだ。つまり業務時間前に準備を万全にするという常識には背くが、業務の規定には反していない。
 面倒なことにその問題の人は色々とバックボーンが付いているので、その主張が認められ事実上お咎めなしということになったそうだ。

 現在日本の社会を支えているのは法律・規則などの公的なお約束と、慣習・道徳などの私的なお約束だとしてみる。上の問題の人は私的なお約束は破っているが、公的なお約束は破っておらず、そのため不問となった。このような態度は現在あらゆるところで散見される。そしておそらく今後もある時点まで増え続けると予想される。
 彼らの主張自体は間違っているものではない。しかし、私的なお約束を全て撤廃してしまえばこの社会が成り立たないというのも事実である。もし後者が廃れ続ければ社会は自己を保存するため、公的なお約束を強固なものにせざるを得ないだろう。件の漫画の都条例なんかもその一例だと思う。

 ではなぜ私的なお約束が廃れていくのか。おそらく、貧しさ・余裕のなさが最も大きな原因だろう。 それを守ることにより得られる利益が、そうでない場合を上回るからである。しかし、実際それを破ることで利益が得られるのは、現在の二重のお約束構造が保たれている限りにおいてであり、殆どの場合私的なお約束を守る人間が不利益を被ることによって生じているのである。この状況下において、多くの人が私的なお約束を守り続けるというのは難しいだろう。このとき私的なお約束が加速度的に崩壊していく仕組みが出来上がる。

 このような段階に至ったなら、二重のお約束構造は不利益のなすりつけ合いを生むだけであり、むしろそんなものは無いほうが良いとするのも妥当だろう。しかしそもそもなぜ二重のお約束構造などというものが出来上がったのか、そうでなくなった場合なにが失われるのかについては考えておくべきである。

 公的なお約束に一本化した場合、不利益を被る人が多く出る。なぜなら、公的なお約束のみで全てのケースに対応することなど不可能だからだ。その場合、不利益を被った人は裁判なりなんなりで戦わなければならない、というのがおそらくアメリカなどのあり方だろう。では日本でそうなった場合どうなるかといえば、おそらく、かなりのケースが泣き寝入りになるのではないかと思う。文化的土壌を考えて、また、日常における法律(あるいは法律家)との距離感を考えてそんなもんではないだろうか。
 二重のお約束構造は、おそらく、そういう個々のケースに対応できるように出来上がったものであり、俗にいう義理と人情のようなものだったのではないかと思う。しかし、義理と人情の構造によって人が救われるためには、現在の社会のネットワークは拡散し密度が薄くなりすぎたのだと思う。おそらく、狭く濃いネットワークにおいてでしかその仕組みは有効ではないのだ。

 とはいえ、以前ほどではないにせよ、現在でもその仕組みによって救われている部分は少なからずあるものと思われる。これをできるだけ取りこぼさず、社会が最適に変遷していくのがベストだろう。ただ、もしも、声の大きな個々人が利益を主張することを受けて変わる、ということになった場合、主張はしないが不利益を抱える人間が多数現れることになるような気がする。

 あっれー、なんかこの文、おもしろ要素が一つもない気がするー。