2011年3月29日火曜日

桜の花が咲いていました

 今日、帰る途中に立ち寄った公園で桜の花が咲いているのを見つけました。
 桜なんてすぐに散ってしまうし、たくさんの人が騒ぎ立てるし、喧しいのはあまり好きではないです。
 でも、静かな夜に一人っきりで見ていると、綺麗だなって思ってしまうから、ちょっと癪です。

 きっと一週間もしないうちに、東京は桜の花でいっぱいになるでしょう。
 でもそれは、けして当たり前のことではないのですね。
 それを見られるのは、昔誰かがそこに植えたからであり、そして植えられた桜の木が、ずっとそこで生き続けたからです。
 誰かに桜の花を見せようとした、その意志が美しいです。
 汚れた空気にさらされて、それでも長い月日を生き続ける木々の健気さが愛おしいです。

 いずれ、そちらでも、いつもと同じ桜が咲くと思います。きっと、あっという間ですよ。


2011年3月28日月曜日

人間として


 怖いのなら、せめて正しい知識で身を守れ。自らを電気刺激に怯えるマウスではないというのであれば。
 記号さえ遠ざけたいというのは想像力の賜であり、たしかに人間的かもしれない。しかしそれは文化的な人間のあり方ではない。
 はっきり言うが、理性的でない人間に価値はない。それはこの世で最も有害で醜い獣である。

 そのあり方をアイデンティティとしているのなら、あるいは肥えた体をもはや動かせないのであれば、どうか何も主張せずに生きてくれ。人間のふりをして、人間のような言葉を使って、人間を苦しめるのはやめてくれ。撃ち殺されたくないのなら、ずっと巣の中にいてくれ。

 そして人間は、もし獣に出会ったら、逃げないで、どうか彼らを人間に戻す努力をしてくれ。獣に従う者の姿もまた獣なのだから。

2011年3月27日日曜日

三月最後の日曜日

 休日。買ったまま放置していたフィリップ・J・デイヴィス著「ケンブリッジの哲学する猫-Thomas Gray, Philosopher Cat-」を読む。これは、同著者の「数学的経験」を買うかどうか迷っていたので試しに買ってみたものなんだけど、なかなか面白かった。特に、ルートを発見する以前の古代ギリシア人の考えに少し触れられたのが良かった。
 ピタゴラスの定理を発見した時点でルートでしか記述できないようなものが有るということは分かっていたはずで、けれどそれを表現するすべがない時代というのがほんの少しでもあった。それってもう想像するだけでゾクゾクするし、考察に価する事柄だと思う。認識の崖っぷちがそんなところにあったの?みたいな。え、ここ埋立地だったの、という感じの3乗みたいな。
 まあとにかく面白かったので、次は同著者の「デカルトの夢」を買うことを決めた。いや、だって「数学的経験」高いし。五千円超えられたら躊躇もしますよ、そりゃ。


 夜は母に電話をかけた。こういうとき、自分が明るい人間だったらいいのにと思う。とりあえず、今後福島に現れる可能性の高い放射線関連の詐欺に注意を促したりした。
弱者に付け込もうとする輩は少なからず存在する。原発だって同じようなものだと僕は思う。


「東京電力のお陰で、雇用とか、(多額の法人税等の納入と、国からの補助金による)福祉の改善とか、たくさんの恩恵を、うちの村は受けてきた。それを忘れて、今回のことで、東京電力を一方的に非難する気にはなれない。原発を無くせば良い。そう単純に考える問題ではないと思う。」 福島の避難所の方


 上記のような記述をTwitterで見かけたけれど、そんなのは悪魔の契約みたいなもので僕には絶対肯定できない。けれど同時に、そのことで彼らを責めたり、彼ら自身が自責にかられてはいけないとも思う。恩恵に預かったという点では日本全部がそうなのだから。




 風呂に入って、何となく口ずさんだのはミスチルのit's a wonderful worldという曲だった。懐かしく、また今にうってつけだと感じて風呂上りにYouTubeで聴いてみたら、何だこのエコーとか思ったけど、歌詞は悪くない。

2011年3月24日木曜日

ふんぬ

 東京というのはストレスでいっぱいのところだ。過剰な我慢とその崩壊による爆発でここまで成長してきたのだと思う。だけどこう毎日腹を立てていたら、東京にきてる放射線量の一万倍くらい健康に悪いと思うので、なんとか対処を考えたい。
 そんなわけでここ最近ずっと頭にきているのが人々の暴力的な無関心というか狭窄な危機感だ。東京にとっても今が非日常な事態であるということは十分承知しているが、それでも空っぽの陳列棚や節電への無配慮、ガソリンスタンドでの行列(もっともこれはもう見かけなくなったが)などを見ると、はらわたが煮えくり返る。どうして今苦しんでいる人のために、ちょっとした快適が手放せないのだろう。いっそこういう輩に対してセンセーショナルな事件を起こして警告したほうが良いのではないか、という考えさえ浮かぶ。
 しかし実際にはそうもいかない。それが身近な個人であれば説得することも可能だけど、相手が多すぎるのである程度は諦めるしかない。
 こういうことを諦めるとき、僕はよく、遥か彼方に住む異星人たちの星間戦争をイメージする。彼らにどんな悲惨なことが起きていようとも、僕にはどうしようもないし、はっきり言ってどうでもいい。もし毎朝ラジオ体操をし続けることで何故か彼らの戦争が止まる、という事実があり、それを知ったとしても、僕はたぶん続けないだろう。
 では、これが地球の上の出来事だったらどうか。あるいは隣国、あるいは国内、あるいは近所、あるいは目の前で起きていたらどうか。つまり何が言いたいかというと、主観的な距離の問題だということである。人の関心は主観的な距離に反比例する。(いや、ものすごい雑な言い方だとは思うけど)
 現状自分の目の前にある危機感と、今困っている人たちに寄せる関心を比較した際、彼らにとっては遠すぎるというわけだ。これはもう、しかたがない。目が悪い人にどうして見えないと怒鳴っても意味が無いのと同じことだ。

 しかし怒りを抑えても、現実問題として害を与え続ける者に対し、何らかの対策は講じる必要がある。プラスに変えよう、などと思うのはたぶん無駄である。おそらく無力化するのが最も望ましい。つまりその影響力を遮断するのだ。今回のような場合であれば、供給側に訴えかけ、コントロールしてもらうのが一番効率が良い。

 纏めると、怒りの対象には、まず対象の置かれた条件を考え直すこと、そして必要であれば無力化することを行えば、おそらく大体は丸くおさまるのではないかと思う。
 どうせ短い命、出来る限り美しい心でありたいものだし。

2011年3月22日火曜日

数を数えて落ち込んでみる

 いかんね、どうもいかん。人間は非常時になると、半強制的に変なスイッチが入ってしまうらしい。そのスイッチが入ると、知覚だの感情だのが過敏になって、言わばナチュラルハイな状態になる。それはきっと危機を脱するには良いのだろうけど、こう長く、深くスイッチが入りっぱなしになっていると、バッドトリップに陥ってしまう。
 こういうときどういう対処が良いのかは人それぞれ違うだろう。僕の場合は、とことん落ち込むに限る。そして、眠ってしまうのだ。つまり過負荷を与えまくって強制的にシャットダウンしてしまうというわけ。
 普通の人にはあまりおすすめできるものではない。でも、自らどん底を作って入ってしまうことは、見えないどん底に怯え続けるより良いと思う。入ってしまえば、案外どん底から這い出すことは難しくないと気付けるだろう。人間の精神はそれほど軟弱ではない。だから僕は、自分を信じて落ち込むのである。

 さて、今回落ち込むネタは数だ。僕が今までの人生で関わってきた人の数を数えたいと思う。
 まず、小中学校。僕の育った場所は田舎だから、クラスは2つしかなく、また全員が同じ幼稚園、小学校、中学校と進む。学年で確か60人くらいいたと思う。そしてそれが小学校で6学年だからおよそ360人。上に300、下に300と考えると合計660人。同学年の両親くらいとは面識があったと考えて120追加の780人。先生方は2×6の12に2×3の6足して18、さらに年3人ずつくらい入れ替わりがあったから7×3の21で足して39人。生徒と合わせて699人。
 高校は1学年7クラスで、1クラス40人くらいだったと思う。単純に同学年合計で280人。高校では先輩と後輩のつながりなんて部活くらいでしかなかったから、プラス20で300人。先生の入れ替わりはなかったから、関わりがあったのは10人程度。生徒と合わせて310人。
 大学では友人が1人で、先生はざっと20人とする。合わせて21人。
 バイト先だとラーメン屋が4人、図書館が50人、本屋が6人で合計60人。
 就職先だと、最初のとこが30人、今のとこが10人、合わせて40人。

 親族だと、家族が元は7人だから自分を抜いて6、母の実家が7人、叔父が6で叔母も6、カウントしてない従兄弟が9。合計34人。さらに付き合いの多い親戚一家が7人。近所の人達が9人。合わせて50人。


 これまでのを合計すると1180人。かなり薄い付き合いの人もカウントしてさえ、たったのこれだけだ。
 そして、今回の震災で死亡・不明となっているのが3月22日の時点で22000人。
 およそ18倍。こんなものに、実感が持てるわけがない。今まで関わりがあった人すべてを足しても足りないって、なんだよ。僕は今25歳だから、18倍したら450。450年も生きられるわけがないから、ウチが平均寿命が70年と考えると7世代全部の関わりを足すとようやく多少あまりが出る。
 意味がわからん。
 そんなのって、ないよ。ばかやろう。

 逆に考えると、この22000人の中の誰かと関わりがあった人はもっとずっと多い。今まさに悲しみに暮れる人がとんでもなくたくさんいる。僕の関わった1180人の中に犠牲者があったという話は聞かないけれど、そう考えるときっとその悲しみはわりと近くにあるのだろうと推測できる。
死んだ人を生き返らせることなんてできないけれど、死んだ人の代わりに誰かを慰めることはできる。それがたぶん、死者を尊ぶということなのだと思う。
明日這い上がるために、今日はどん底で深く静かに眠ろう。
 

2011年3月10日木曜日

要するに眠くなった

今日の信号機

 人間にとって感情というのは、ときどき病気みたいなものだ。特にコントロールする術を知らない子供にとっては。
「今泣いてるから行くのやだっ」
 祖父の手に引かれて保育園に通っていたある日、僕はそんなことを言って祖父を困らせたことがあった。
「どうしたら泣きやめるのっ」
「ゆっくり深呼吸してみろ」
 僕は素直に従って、息を吸い、吐き出す。
「全然止まんないっ」

 今思うと無茶苦茶なやりとりだ。でも、あの時に感じた困惑はまだ当分忘れないと思う。
 ところで我々は自分の感情などある程度コントロールできるものと思って生活している。しかし実際のところどうなんだろう。もしかしたら、ただ感情に支配されるのに慣れたというだけではないだろうか。
 感情が我々を動かす原動力であると仮定してみる。我々は経験によって、感情の要請をスムーズに動きへ変換する仕方を学習しただけであり、何らかの原因により変換ができない場合のみそれが感情として見える形で表出される。言わばエネルギーの変換し損ないが表出される感情である。
 学習の浅い子供の頃というのは変換効率が低い。それでも動かしてやるために、送り込むエネルギーが多く設定されている。そのため、大量の変換し損ないが放出されることになる。
 従来の見方と異なるのは、あらゆる行為がそもそも感情的である、という点である。感情に反する行為、というものは原則的にありえない。感情と理性は相反しない。社会的欲求と個人的欲求は同列である。

 うーん、このままではあまり使い物になりそうもないので、もう少し考えてみます。

2011年3月9日水曜日

いつまでどこまで

今日の信号機
GIZMODEでこんな記事を見かけた。RGS-14というタンパク質を投与されたネズミの記憶力が向上した、という内容だ。
これを読んで思い出したのは、「アルジャーノンに花束を」や「レナードの朝」。記事の中には数カ月後にとんでもないことになった、というような記実はないので当然そんなのは行き過ぎた想像だ。けれど、実際に反作用として記憶の減退などが起こらないとしても、恐ろしいという印象に変わりはない。

能力が向上するのは無条件に素晴らしいことだ、というキャンペーンはもうそろそろいいんじゃないかと思う。現代はあまりにポジティブな理想にとらわれすぎている。誰かの役に立つことや、効率的なこと、スキルアップは確かに善いことかもしれない。けれど、誰かが無理し続けなければ成立しないシステムを築き、行動を強制するために思想を支配するのは間違っている。情けは人のためならず、効率化もそれによって自らも楽になる、スキルアップもしかり、と思想に染まった人は言うだろう。しかしそんなことがありえないことは、それを言う人の疲れた顔を見れば一目瞭然だ。
無理な負担は人の心を貧しくする。心の貧しい人は汚い言葉を吐き散らかす。僕は、正直他人がどんな負担を抱えようと知ったこっちゃないが、そういう言葉を聞きたくないし、見たくない。

自分の能力というのは、当たり前のことだが、自分を生かすためにあるものである。自分が望むより良い環境や状態へ導くための力である。そして人はそれぞれ違うものを望んでいる。しかも、同一の人間でさえ時と場合によって望むものが異なる。望む環境や状態が異なれば、当然必要となる能力も違ってくる。つまり最適は存在しても、最高なんてありえない、あるいは意味が無い。逆もまたしかりである。
そして必要となる能力がその時々で異なるのだから、それを自在に切り替えられるのが最も望ましい。それを可能にすることこそが道具というものの利点である。道具は、使わないという選択肢があるということ、または調整が可能であるということが素晴らしいのである。それが忘れ去られれば、直ちに人は劣等感や無力感に襲われるだろう。上を見るなと言っているのではない。それは上ではないと言っているのである。

いつか現在の反動で、誰かが「必見!モノの忘れ方」とか「サルでもできる部屋の散らかし方」とか「非効率的仕事法10のポイント」みたいなものをレクチャーし始めるんだろうか。それはそれで違うと思うけど、今よりはマシかと思う。だけど人って選択肢が2つの場合、一つを否定したらもう一つを肯定しがちなような気もするし、やっぱ駄目か?部屋の散らかし方なら第一人者としてコメンテータも務まるレベルなんだけどなぁ。

2011年3月8日火曜日

歯医者と麻酔とチョコクロワッサン

今日の信号機
およそひと月前から痛み出した歯がいよいよ耐えられなくなったので、今日は歯医者へ行った。
多くの人がそうであるように、僕は歯医者に行くのが嫌いだ。理由はいくつかあるが、大きくまとめると恥ずかしいからだ。
「あらー、これはひどいねー」
「こうなる前に来て欲しかったね―」
「ここが、ほら、あーあ」
みたいなことを言われると、情けないやら申し訳ないやらで、消え入りたい気持ちになる。そしてだんだんと、この歯は歯医者さんから預かっていたのに僕が台なしにしてしまった、いっそこの場で全部引きぬいてお返しいたします、さあ早く!いっそその胡散臭い笑顔で「ついでだから頭蓋骨ごと取っちゃいましょうか」とか言えよ!といった感じの妄想にとらわれていく。
それが嫌だから痛みを無視して歯医者を避ける。そしてその期間が長ければ長くなるほど、より歯医者に付け入る隙を与えてしまうことになる。結果、より歯医者が嫌になる経験をする。まあ、ありがちな構造だ。

そんなわけで戦々恐々としながら歯医者へ行ったのだが、意外なほどドライに接してもらえて治療もあっけなく終わってしまった。いや、僕ぐらいの被害妄想erになると、「なるほど、どうせ僕みたいな心身虚弱なクズが来た場合は気を遣ってこういう対応をしているんだろう。ごめんね!無理させちゃって!」程度のことは瞬時に思うけど、それにしたって比較的苦痛ではなかった。
その上治療が全く痛くなかった。当然麻酔はしてもらったのだけど、その麻酔自体も、え、いつの間に?みたいな詐欺師もびっくりの痛みの無さだった。もしかしたら本当に詐欺師だったのかもしれない。歯は治ったからいいんだけど、知らないうちに細菌を脳に植え付けられてて、無意識に歯医者の口座に金を振り込むマシンにされていたらと思うと若干怖い。

ところで麻酔を打たれるのは、わりと好きだったりする。打たれたあとに麻痺している箇所を触るとぷにぷにして面白い。それに動かすと、その箇所だけ感覚がないため、その箇所がより強調して意識される感じも楽しい。
それを存分に楽しもうとすると、麻酔がかかっているにも関わらず物を食うという暴挙に出ることになる。そしてそんな暴挙に出ると血を流す事になる。僕はそうなった。昔。血だらけのチョコクロワッサンを食った。
それにも関わらず、以来、麻酔が切れてあの妙な気持ちの悪い違和感に襲われだすと、なぜだかとてもチョコクロワッサンが食べたくなる。血がすごい出てるのに痛くない!という経験が、誤った学習をもたらしたのだろうか。

なんか、ものすごくとりとめもない文章を書いてしまったけれど、これはきっと麻酔のせいだということにしておこう。許すまじ、歯医者。来週もどうぞよろしく。

2011年3月7日月曜日

あの人は今

今日の信号機
以下の文章は2年くらい前に書いたものである。いま読むと、ネタがわからない箇所が幾つかあって、少し面白い。

ーー


「こんばんは。もはや話題にする方が恥ずかしい、そんな時代遅れなゲストを招いて在りし日を偲ぶ、あのヒトは今。司会はワタクシ小林です。
さて、本日ゲストにお招きしたのは、『私、キレイ?』のキャッチフレーズでおなじみ、かつて全国の小学生にとって下校中に会いたくない女性ベスト2に輝いていた、そう、あの方です」

「こんばんは、口裂け女です」

──噂は噂、でも感謝。


「さっそくお話を聞いていきたいのですが、口裂け女さん。今までどれくらいの子供たちに危害を加えてきたんですか?だいたいでいいので、教えてください」

「私個人は0ですよ」

「幽霊だけに。いや失礼。えー、その私“個人は”というのはどういう意味でしょうか」

「ブームが起きれば、便乗、模倣する人たちが出てきますよね。あるいは自分の犯した罪、または口にするのがはばかられる怪我をしたとき、多くの人が私のせいだ、ということにしてくれました」

「なるほど」

「それに噂というものは、語る場合具体例が遠からぬ場所である、とした方が話として盛り上がりますから、子供たちがいい加減にでっち上げてくれました」

「あの、それについては、感謝しているような口振りですが」

「ええ、もちろん。結局私は一人しかいませんから、短期間に全国を営業しようなんて無理があるでしょう?でも結果的に、噂の上では全国区ですからね。なんと言うか、恐縮です」

「化け物のくせに。失礼。しかし、確か口裂け女さんは100mを3秒で走れるとか、スポーツカーより足が速いなんてことも言われてましたし、一人でも十分日本中を回れたと思うのですが」

「そんな速く走れるわけないじゃないですか。私、口が裂けてる事以外は、一般人と大差ないんですよ」

「では、それも勝手にされた噂だと」

「ええ。これには少し困りました。ときどき子供たちに会うと、彼らは恐ろしがってはくれるんですが、その中に期待が入ってしまうんですよ。『滅茶苦茶速いに決まっている』と。なんか、裏切るの、心苦しいじゃないですか」

「はいはい、わかります」

「だからつい、ジムに通って体を鍛えたりしましたけど、人の体には限界がありますからね。どうしたって、車より速くなんて走れませんよ」

「まあ、そうですよね」

「さすがにそのときばかりは勝手な噂が少し恨めしかったです」

「あ、そのフレーズ、やはり似合いますね」

「え、ああ。それはどうも」


──ポマードは苦手じゃない。


「ところで口裂け女さんの由来と申しますか、誕生したきっかけというのは諸説ありますが、本当のところはどうなんですか」

「生まれつきに決まってるじゃないですか」

「えっ、そうなんですか」

「そりゃそうですよ。もともとの筋肉の付き方などが違いますし、後天的なものではやはり気持ちが悪いだけで、怖がってもらえませんよ」

「ほう、なんだか本場のプライドのようなものが感じられますね。そうそうプライドと言えば、口裂け女さんはポマードが苦手だそうですが、それも生まれつきですか?」

「その展開、無理がありません?えっと、ポマードですか。今後の営業に響くのであまり大きな声では言えませんが、実はちっとも苦手じゃないんですよ」

「ええっ、そうなんですか」

「はい。でも一応、子供たちはそう信じているので、苦手ということにしてしまってます。現物を出されたり、呪文のように唱えられたりしたら逃げますよ」

「車よりは遅いスピードで。失敬。ああ、そうだったんですか」

「はい。だって可哀想じゃないですか。まあ、私も別に危害を加える気はないので、そうされることで助かっている面はあるんですが」

「しかし、今時ポマードというのは……。失礼ですが今の子供たちには通じませんよね」

「ええ。それは案外大きな問題で、やっぱり古い単語が弱点としてあると、私自身が古びるというか、どうしても緊迫感やリアリティが欠けてしまいますよね」

「かといって、今から“ワックス”とか“アロマ”とかに変えたら、作り物臭くなりますしね」

「最初につけられるイメージ、単語というのは私たちにとって大事で、それが私たち自身の強度にもつながります。でも、ポマードには感謝してますよ」

「それはまた、どうして」

「あれが椿油とかだったら、ブームにはなりがたかったと思いますから」


──使命は果たした、老後は静かに過ごしたい。


「では、残念なことにそろそろ終わりの時間が迫ってきました。最後に近況などを伺いたいのですが」

「相変わらず、地味に活動しています。ときどき児童書の表紙に出してもらったり。あとは、放課後の時間帯を徘徊など」

「もう一花咲かせようという意志は、正直なところありますか」

「あまり……。自分はもう十分使命を果たしたと思っていますし。子供たちが大きくなるまではしっかり働くつもりですが、老後は貧しくても静かに過ごしたいですね」

「え、お子さんがいらっしゃるんですか?」

「はい、男の子で、今年小学校に入学しました」

「これで晴れて、下校中に会いたくない女性ベスト1になれたわけですね。えー、お子さんは、お口の方は」

「夫に似たのか、あまり裂けていません」

「そうですか、それは、我々としては残念です。では、最後にお聞きします。
貴女の、本当の名前はなんと仰るんですか?」

「口が裂けても言えません」

「口裂け女だけに!……おあとがよろしいようで。
それではみなさん、また来週」

2011年3月6日日曜日

解体ショー

今日の信号機
特に予定のない日曜日。nintendogs+catsでシェルティを飼うか、それともコーギーにするかで3時間くらい悩む。結局真っ白なシェルティの女の子に決定するも、漠然とこの怠惰で幸福な休日に不安を覚える。
そうして何となく思いつきで、部屋で廃棄状態になっていたiMacを分解した。基本的にネジを外すだけで、ときどきマイナスドライバにぶいぶい言わせたけど、結局分解は簡単だった。修理する可能性を見越してデザインされているのだからあたりまえだけど。








作業は僕の部屋の中で最もスペースの広いベッドの上で行った。
多少汚れるくらいならいいか、と思っていたけどシーツが結構破れたりしたので、わりと最悪だった。

で、分解した成果としてiMacの抜け殻を手に入れた。折角なのでナウシカを真似て、これを掲げて飛びたいところだけど、あいにく我が家にメーヴェはない。
しかし手に入れたはいいけど、これを何に使おうか。なにか面白い用途を思いつければいいんだけど、今のところ洗濯物入れが一番優勢という不況状態。
うーん、なにかないものか。植物を育てるとかはいいかも。サボテンでも買ってこようか。あるいはなんだろう、扇風機でも組み込むか。大きいやつだと無理だから、小さなUSBファンを3,4台取り付けるとか。
ああ、悩ましい。

2011年3月5日土曜日

「変身だ!」

今日の信号機

我々はその日常生活においておよそ変身というものはしない。もちろん、仕事とプライベートでの衣服の変更や、女性であれば化粧によってそれなりに変化することはあるだろう。しかしそれは変身ではない。ここで言う変身とは主に原色のスーツが体中にへばりつき、結果として身体能力が向上するようなアレである。

そんなことをするような人間はいない、そもそも現実的ではないし、せいぜい役者が演技でそうするくらいだ、と大方の意見はこんなものだろう。しかし、少なくとも日本人の半数くらいは幼い頃変身ごっこをしたことがあるのではないだろうか。変身できることに対する憧れはかなり多くの人が持っていたはずなのである。ではなぜ、日常生活において誰も変身しないのだろう。満員電車に乗っているとつくづく思うのだ。どうしてこんなにたくさんの人がいるのに、誰一人変身していないのだろう。おかしい、こんなの間違っている。このままでは日本が危ない。いまこそ変身できたらいいなあ!と。

それにも関わらず誰も変身しないというからには何か理由があるのだろうか。では、誰もが変身できる世の中というものを想像して、そのことの欠陥を考えてみよう。

・表情がわからなくなる
→しかしこれは、杞憂だと思われる。確かに変身すると顔で感情を表現できなくなるが、その分強化された身体能力を活かして、ボディランゲージを発達させれば良いと思う。それに、既存のヒーローたちは案外互いに何を思っているか分かり合っているふうなので、もしかしたらそういう能力も付与されるものかもしれない。

・5色揃わない
→これは確かにその通りで、おそらく赤たちはだいたい赤でグループを形成するし、緑とかも同様、ただし青や黒はお互いに嫌悪しあっている、なんてことになってしまうだろう。また、ピンクや白はだいたい赤とくっつくので、他の色たちは僻むことになる。しかしそれは、変身してもしなくても大して変わらない事実なので、受け入れるしかないものと思われる。

・みんなが巨大ロボ呼び過ぎて渋滞
→むしろ呼ばないと踏み潰される危険性が高いのでやむを得ない。

・夏場蒸れるし冬寒い
→これも、みんなが巨大ロボを呼びたがる要因の一つだと思われる。コクピットなら冷暖房完備だし快適だもんね。

・変身してまで倒すべき敵がいない
→ですよね。

変身が日常にあるためには、まずなにより世界征服を企む敵の存在が不可欠らしい。あーあ、誰か企んでくれないかな。征服しようぜ、世界。

2011年3月4日金曜日

心に残った心残り

今日の信号機
心に残った〇〇は何?というような質問を見かけて、はて?と思った。そもそも心に残るってどんな状態を指すのだろう。
いつでもすぐに記憶から呼び出せるようなものだろうか。だったらそれは感性よりも記憶に依存する。そしてそんなものは、けして一つに特定できずむしろかなり膨大な量になるはずである。質問者は記憶テストをしたいのか、というと無論違うだろう。何らかの意味で他と一線を画す〇〇について知りたいはずである。

goo辞書によれば、

(こころ)に残(のこ)・る

    感動や印象などが、のちのちまで忘れられない。「―・る名場面の数々」

というようなものらしい。
注目したいのは、対象の内容には言及していない点である。つまり、〇〇は心に残ったけど、具体的な中身は全く覚えていない、といったケースも十分にありうるということだ。けれどやはりこれでは疑問が大きい。具体的内容に比べて印象などむしろその記憶のラベルとして耐久性が強いのではないだろうか。すなわちこれだと抽出できる量が多すぎるように思う。
忘れられない、という点が重要なのだろうか。ではそれは忘れていない、という状態と何が異なるのだろう。現在記憶されているAとBについて、それを忘れることができるかどうか判別することなど可能だろうか。おそらく、ある程度は予測可能である。ただしそれは、忘れるか否かというより呼び出す機会があるか否かという予測に基づく。これは、呼び出される機会のない記憶は忘れられているに等しい、という結構乱暴な前提を持つ。
なぜそれが乱暴なのかというと、それは記憶というものの一面しか扱えていないからである。何かが記憶されるとは、その何かが対象に影響を与えるということと同義だ。例えばある店で強盗が起こったとする。そのことにより店は強盗が起こった際の対策を考え、マニュアルを増やしたとすると、たとえ店で働く者が入れ替わり、個々人が過去に起こった強盗に関して何も知らないとしてもそのマニュアルなどよる影響がある限り店にとって強盗は記憶されているといえる。そのマニュアルがのちに改定され、強盗に対する対策がおろそかになっていく状態を“記憶が薄れる”、全くなくなった状態を“忘れられた”と呼んでも良いだろう。
つまり、その個々のエピソードが語れるか否かということがすなわち記憶されているか否かであるとはいえないのだ。そのように考えると、忘れることが可能かどうかは、むしろその影響の持続性を予想することで可能であるように思われる。しかしここで問題なのは、我々はあくまでも自らの主観に則った物の見方しか出きることができず、ある事象が自らに与えた影響は自らの動きを観察することでしか測ることができないという点である。つまり〇〇に影響されましたと申告することは可能だし、それに対して誰もが納得のいくストーリーを組み立てることもできるが、実際には全く異なっていることもありうるということだ。現実的には全く異なっていることは稀だろうが、すべてが正しいという状態はほとんどありえないだろう。ストーリーは必ず理解しやすいように、あるいは理解されやすいように組み立てられる。誰かを納得させるとき、そのような改ざんは誰しも行うことであり、それは自分から自分に対して行われる時も同様であると考えるべきだ。
さて、最初の問題に立ち返る。心に残る〇〇はなんですかという質問は、言い換えると、貴方の現状をそのようにさせたらしめたものとして他人に説明すると分かりやすい〇〇はなんですか、ということになる。
・・・なるのか?まあ、なると仮定すると、つまり該当するいかなる〇〇も分かりやすいもの、記憶におけるランドマークのようなものになりがちであり、あまり面白い回答には期待できないように思う。他のものと何において一線を画しているかというと、おそらくは理解しやすさ、説明しやすさだからである。

2011年3月3日木曜日

自由帳

今日の信号機
 三分間、眼を閉じて、何も聴かず、何も思い出さず、自分の動きを観察してみよう。
 いち、に、さん、はい。

2011年3月2日水曜日

答えはカレンダー

今日の信号機
・彼と彼女はとっても仲良し。一人の物は二人の物。でもこれだけは彼女にあげない。なーんだ。

・t;yq@¥ なーんだ。

・あそこの家には十二人の子どもがいます。でも、大体いつも四番目の子どもが一番優遇されていて、上の三人は仲間はずれ。なーんだ。

・青い目をした彼は貴方にこう言います「車を貸します」なーんだ。

・どんなにきれいでも、そのときがくると破り捨てられてしまう物、なーんだ。

・4号室の真下の部屋は11号室。24号室の真下の部屋はときどき空室。なーんだ。

・猿をザー。左1、上1、上2、右1、そのまま。ちなみにこれは縦書きです。なーんだ。

2011年3月1日火曜日

3月散文シンキング

今日の信号機
 カレンダーを破ろうが破るまいが2月はもういない。ということで3月。いわゆる卒業シーズンというやつで、別れの季節とかいってむしろくっつこうとする人間たちの意志が発揮されるざわついた月である。
 経験上、3月は形式では離ればなれになるけど結局今までと同じじゃんみたいに油断させる印象がある。で、4月とかも普通に連絡取り合ったりするけど、だんだん少なくなっていき、大体途絶えるのが5,6月。だからそれくらいの時期が本当の別れの季節だと思うのだけど、いかがだろう。いや、どうでもいいけど。

 会えなくなって、でも未だに会いたい人ってどれくらいいるだろう。僕は3人くらい。一人は死んでて、もう一人は連絡先を知らなくて、あと一人は音信不通。じゃ翻って自分は誰かにそのように思われているか、と想像すると、面白いくらい真っ白。寂しいのがしんどくなることもなくはないけど、基本的にそういうのが好きだし、それを望んでる。
 同窓会とかも想像すると面白い。もちろん自分は参加しないわけだけど、きっと誰も自分のことなんて話題に出さないし、脳裏をよぎることもないだろう。まるで最初からいないみたいな。あるいは透明人間みたいだ。

 3月の雨音で目覚める朝はわりと好きだ。温かい布団が暖かなイメージを作ることに寄与しているのかしらないけど、幸福であるような錯覚を覚える。だから目覚ましを少し早めにセットして、微睡みを楽しむ時間を作ったりする。
 そういえば、夢のなかで、件の会いたい人に会えたことはないように思う。夢みたいないい加減なものに汚されたくないからか、なんて馬鹿みたいなことを考えてみたり。

 3月は別れの季節じゃないと思うけど、結局別れたことを思い出す季節ではあるかもしれない。