2010年4月13日火曜日

家族の風景#22

 「はあ・・・」
 画面の中で私がため息をついている。しかし父も母もそれを気に止める様子もなく黙々と食事を続けていた。モナカにいたってはテーブルの下で微動だにせず寝ている始末だ。
 「この季節さあ、憂鬱になってしまうよね」
 「いいんじゃない、少しはお淑やかに見えて」と母はあっさり切り返す。
 「うん、季節によって自分の足りない部分を補うというのは、なかなか詩的かもね」と父。「しかしそれでは逆説的に常に欠けているから、いっそ毎日四季を満喫するといい」
 「あの、私ってそんなに駄目駄目でございましょうか?」
 「いや、そんなことは言ってないよ」
 「そうね、そんなことは言ってないわ。自分を卑下するのはよしなさい」
 「これも立派な家庭内暴力だよね」私は小声で言った。
 「ふむ、僕らが立派だから、家庭内暴力も立派になるのかな」
 「どうしても滲み出てしまうものね」母が無駄に優雅に首を振る。
 「そうじゃないってば」私は頭をおさえた。
 父と母が少しだけアイコンタクトを交わす。そのとき、高いヤカンの音が鳴った。母が立ち上がり、キッチンの方に消えて行く。
 「ふたりとも、コーヒーは?」
 「飲むぅ」
 「僕もいただくよ」
 返事をしたあと父は食事を続けていたが、いつまでも頭をおさえている私を少し気にしているようだった。
 「瑠衣、これは秘密だけどね」父はぎりぎり聞き取れる声で話しだした。「幾子さんもずっと昔、君と同じようなことを言っていたよ」
 「なんて?」私は頭を上げ、同じくらい小さな声で聞き返した。
 「春になると憂鬱だって。どうして、って聞いたら、職場に新人が入るから歳を取ったことを自覚してしまうって。でもしばらくしたらなんにも言わなくなった」
 「どうして?」
 「常に自覚出来るようになったか、その逆か、いずれかだね」
 私は一瞬母の方を見て吹き出した。
 「内緒だよ」
 父の言葉に私は笑いながら頷いた。
 「楽しそうですこと」コーヒーカップをテーブルに置きながら母。「よくわからないけど、怒った方がよさそうな雰囲気ね」
 「雰囲気で怒るのは政治家の仕事だよ」と父。「君が政治家に向かないとは言わないが、道は険しいよ」
 「雅文さん」
 「うん。ごめん」
 「ったくもう」
 私は損な二人のやりとりを見ながら笑い続けていた。
 「そういえば瑠衣、在学証明書はちゃんともらってきた?」
 「あ」
 「あ、じゃないでしょ」
 「えへへ」
 「えへへじゃない。せっかく明日市役所に行く予定があったのに」
 「ごめんなさい」
 「まあ、別にいいけど。手続きは自分で済ませなさいね」
 「えー」
 「いい機会じゃない。ここを出たら自分でやらなくちゃいけなくなるんだから、今のうちに慣れておきなさい」
 「やだよ、めんどくさい」
 「自分のずぼらさを反省しなさい」と父が横槍を入れる。
 「父さんにはあんまり言われたくないよ」
 「ほう」
 「そう言えば、雅文さんって、役所に手続きをしに行ったこと、ないんじゃない」
 「ほう」
 「そうなの?」私は母に聞いた。
 「うん。大学を出てからずっと私がやってあげていたし」
 「ほう」
 「そうなんだ。え、でもあの、婚姻届だっけ?あれは一緒に行くんじゃないの?」
 「その予定だったんだけどね。どうして私、一人で届出をしに行ったのかしらね」母は不気味な微笑を父に向けた。
 「ほう」
 「なにさっきから、ほうほう言ってるの」
 「フクロウですから」
 「面白くありません」母は真顔で一蹴した。
 「ほう・・・」沈黙が一瞬。そして父は頭を下げた。「はい、あのときはすみませんでした。深く反省しております」
 「瑠衣、男の人がこう言ってるときは、時計でも見ておきなさい。流されたらだめよ」
 「だってさ、父さん」
 「父さん以外の男の場合は、と記憶しておきなさい」その年に50になる父が、口を尖らせて言った。

2010年4月12日月曜日

家族の風景#23

 映し出された画面には見慣れた我が家のダイニング。黒ずんだテーブルと椅子が4つ。改めて見ると白い壁が黄ばんでいる。ヘビースモーカーの父のせいだ。
 「瑠衣ぃー」画面の外から母の大声。
 「なにぃ」私の声が小さく答える。
 「ごはーん」
 「うーん」
 「早く来ないと、モナカに全部あげちゃうよー」名前を呼ばれた愛犬が荒い呼吸で母の元へ走っていく。
 「今行くー」
 やがて階段を降りる足音が聞こえてきて、私が姿を現した。
 「あれ?父さんは」
 「そこで寝てるでしょ。起こしてあげて」
 「おわ、ホントだ」
 父はソファで寝ているらしい。私はそっちに歩いていった。
 「父さん、ご飯だよ」
 すると父のうめき声。大げさなあくび。そして盛大なおならの音。
 「やだ、もうちょっとさあ、清々しく起きてよ」私の笑い声。
 「清々しいぞ・・・。だからこそ体内の良くないものが出てったんだ。あまりの清々しさに耐えきれず」と父。
 「最悪だよ、もう」
 父と私がふざけたやりとりをしている間に、母がテーブルに料理を持った皿を運んで行く。母の足元ではモナカがぐるぐる回っていた。そうやって手伝っているつもりらしい。
 「モナカのご飯はまだだよ」
 けれどモナカは母の言葉を逆に受け取ったらしく、さらに頑張って回る。
 「あれぇ、今日なんかちょっと豪華だね」戻ってきた私が揚げ物をつまみ食いした。確かあれはカニクリームコロッケだったはず。「うん、美味しい」
 「へえ、本当だ。まあ、美味しいのはいつものことだけどね」私の後に続いて父もつまみ食いをする。
 「そう思うならさっさと準備を手伝ってください」
 「はぁい」母の言葉に私たちは返事をした。
 「あれ、今日ってなんかの日だっけ?それとも何かいいことあったの?」と私。
 「うーん、まあ、ね」母は照れたように答えた。
 「えー、なになに?」
 「秘密」
 「えーっ」私は不満げな声を出す。「父さん知ってる?」
 「知ってるような、知らないような」
 「なにそれ?」
 「保険」
 父の冗談に母だけ笑った。
 「心配しなくても、アナタの知らないことですよ」
 「へえ、それじゃ僕も教えて欲しいな」
 「うん」
 母は、一瞬だけこちらを見て、微笑んだ。
 「今日で最後だから」
 「何が?」準備が終わったらしく、私は椅子に座りながら聞いた。
 「内緒」
 「えー」私が大げさに顔をしかめている。「あっ、わかった。ダイエットが今日で終わりってことでしょ。でもこれじゃ私まで太っちゃいそう」
 「ちーがーうーよ」冗談めかして母は言った。
 そして全員が席に着く。
 「あのさ、前から言おうと思ってたけど、幾子さんさ、瑠衣に甘いよね」と父。
 「あら、どうして」
 「だって、僕がさっきの瑠衣みたいなこと言ったら、怒るでしょ?」
 「雅文さんが言うのとは意味が全く違うからです」はねつけるように母が言った。
 「理解できない」
 「できなくて結構」
 「いい歳して仲がいいね、ホント」と私が茶化す。
 「まあ、それでは、何かの終りを祝しつつ、いただきます」
 「いただきます」私と母が父の後に従った。
 いつの間にかテーブルの下に潜り込んでいたモナカが大きくあくびをする。いつもそうやって拗ねるのだ。
 「おわ、このグラタンめちゃくちゃ美味しいね」
 「食べながら喋らない」父が冷静に私を叱った。
 「だって、これは不可抗力だよ」
 「抵抗可能だ」
 「はぁい」
 「そんなに気に入ったなら今度作り方をレクチャーしてあげよう」母は言った。
 「いや、それはいいよ。私には無理」
 私の言葉に母はため息をついた。
 「そんなことでどうするのよ、瑠衣。来年から自炊するんでしょ。お母さん心配だわ」
 「大丈夫だよ。食べられるものは一応作れるし、美味しいものが食べたくなったらさ、ウチに戻ってくればいいんだもん」
 「なるほど。それは良い考えだね」父は大きく頷いた。
 「もう・・・、勝手にしなさい」
 「勝手にしまぁす」
 父と私は笑った。母は呆れたように、やがて穏やかに笑った。
 9時のサイレンが遠くから響き、モナカがそれに合わせて細い遠吠えをする。
 そして和やかな食事は続き、映像は途中で切れた。
 私はしばらく目を瞑った。

2010年4月11日日曜日

空に地球

 月の開発計画が打ち切られたのはちょうど僕が生まれた頃。計画のために掲げられたあらゆる屹然とした標語はブラックジョークとして使い古され、今さらそれを口にするものもいない。一部の団体は未だに再開発を求めているらしいけれど、きっとそういうところは現実に開発が再開したら、今度は別の何かの再開発を叫ぶだろう。つまり、事実上誰からも見放されているんだ。もっともそれは経済的な意味でだけど。

 あの頃に造られた多くの建物は半分以上が資料館という名目の廃墟となっている。そういうのが好きで、しかもわざわざ自分の目で見てみたい、なんて人が稀にいる。望めば映像なんていくらでも見られるし、それを見るのは間違いなく自分の目なのに、おかしな話だと僕は思う。多分根本的な自己の定義が違ってるのだろう。でも、そういう人たちを歓迎し、持て成すのが僕の仕事だ。ホテル・チャンドラヤーン。もともと大使館として建てられた、無駄に荘厳な僕の職場。

 建物自体は三つ見栄え良く並んでいるけれど、ホテルとして使っているのは一番小さな東棟だけ。しかもその一階部分以外はうちの会社の管理下にない。他の場所で何が起こっても責任を持たないというスタンスだ。だけどそれがうちの売りにもなっている。常連のユーザーにとってここは危険性のあるホテルではなく、寝泊まり出来る安全な廃墟という認識らしい。そんなわけでこのホテルには、わざわざ月まで来る変わった人間の中でも一層変わった人ばかりが来る。

 けれど個人的な救いは二つある。一つは、そんな客たちの大半はかなりの金持ちだということ。だから、少なくとも表面上まともに振る舞える人ばかりで、ここに配属されて以来トラブルに巻き込まれたことは一度もない。もう一つは、ほとんど僕がすべき仕事なんてないこと。これはそもそも客の絶対数が少ないという意味と、客の世話の大半がオートマチックに行われているという意味だ。僕のここでの役割は、この場所が人間にとっても安全だということを示すいわば看板のようなもの。チェックインの時に顔をあわせる以外、客が望まなければチェックアウトまで会うこともない。僕はこの気楽な仕事を割と気に入っていた。


 そんなある日、いつもと違う客がやってきた。

 「ご予約は入っていないようですが」

 「ええ。宇宙船の窓から息子がここを見つけまして、どうしてもここが良いと言うものですから、別のホテルをキャンセルして参りました。お部屋は空いていないのかしら」

 整った顔の女は言った。ずいぶん若い母親だ。隣にいる息子はおそらく10歳くらいだから、彼女も30歳前後ではあるはずだけどそうは見えない。しかし反面振る舞いがいやに古風で落ち着き払っていた。

 「いえ、すぐにご案内しましょう」

 「ああ、良かった。ね、良かったね」

 母親は少年に微笑みかけた。しかし彼の方は、母親の後ろで不満げな顔をしたまま俯いていた。外観と内観との差に失望しているんだろうか。とにかく僕は彼らを部屋に連れて行くことにした。さいわい部屋は全部空いている。彼らの他に客は一人もいない。

 「手続きの方はこちらの固有チャンネルで行えますので、お手すきの時にお願いいたします」

 「ええ、ありがとう」

 「それから、なにかシステムに不具合などがございましたらすぐに参りますので、気兼ねなくお呼びください」

 「そうするわ」

 「では、良い月の旅を」

 僕はお辞儀をして、ドアを閉めた。少年は最後までニコリともしなかった。

 子供連れが月へ来るなんて稀だ。普通、安全性を考慮すればありえない。一応ホテル内の設備は子供にも対応出来るようになっているけれど、せめて大人になるまで宇宙旅行なんてすべきではない。テクノロジィは全能ではないし、そのリスクと天秤にかけて得るべきなにものもここにはないからだ。あるいは子供なのだから、こんなところに来なくても十分素晴らしいなにものでも見つけられるだろう。

 問題さえ起こさなければ、まあ、どうでもいいか。僕は自室に戻り、ペプシコーラを飲んだ。客のステータスを確認すると168時間の滞在と表示されている。廃墟マニアには全然短いが、それ以外にとっては長すぎる期間だ。あの親子は、どうだろう。息を吐き出して音楽をつけ、広がろうとする妄想を打ち切る。客として会社から認められたということは、すなわち彼らは社会的にまともであるということだ。だからそれ以上の詮索は失礼でしかない。たとえあの子供が一般的な価値観からすると虐待を受けているとしても、僕にとっては今地球上のどこかで起こっている内戦と同じくらい無関係でどうしようもない。可視化された音波が部屋中を色とりどりに踊る。意識は拡散され、マクロで見れば安定。遠ざかる。ここから、どこまでも。どこへでも。


 あの親子がここに来て約70時間後のこと、僕は呼び出された。

 「いかがなさいましたか」

 「ええ、私たち、昨日外を散歩して来たんです。空がとても綺麗だったわ。もちろん地球も。つい数日前まであそこにいたなんて、本当に不思議」

 指定したラウンジまで来たのは彼女一人だった。退屈だから世間話に付き合えということだろうか。僅かな苦痛を感じるが、なんらかのトラブルでなければ全然いい。もっとも、人間にとってトラブルの原因の最たるものは、こうした直接的な接触だから気は抜けないけれど。

 「満喫されているようで、こちらも大変嬉しく思います」

 「貴方はここにどれくらいいらっしゃるの」

 「およそ5万時間になりますので、そうですね、地球に合わせて計算しますと6年目です」

 「そう。じゃあ、なにかここで変わったものをご覧になったことはあるかしら」

 「変わったもの、と仰いますと」

 「ええ。友人から聞いたのですが、なんでも宇宙では変わったものを見る人が多いと。例えば、昔の自分とか死んだ人の魂だとか。神様だって宇宙にいらっしゃるんじゃないかしら」

 ああ、そうか。確かにこの手のタイプの人間も月にはよくやってくる。うちにはめったに来ないが、そういう層をターゲットにした同業者も知っている。あまり関わりたくない領域だ。

 「なるほど。仰る通り、そういったものを御覧になる方も多いようです。ですが、残念ながら私はまだ一度も目にしたことがございません」

 「声を聴いたり、何かの存在を感じたことも?」

 「ええ、恥ずかしながら」

 「別に恥じるようなことではないわ。でも、そう。残念ね」

 「はい、とても・・・」

 「ああ、そうだわ。肝心なことを忘れていました。これ、何かご存知?」

 そういって母親は銀色のプレートを差し出した。それはちょうど彼女の手と同じ程度の大きさの長方形で、表面に一辺が2cmくらいの黒い正方形が規則正しく4つずつニ列に並んでいる。

 「少しお借りしてもよろしいですか」

 「ええ」

 彼女からそれを受けとる。非常に軽量でしかし多少の力では曲がりそうもなかった。

 「これをどこかで見つけたのですか?」

 「そう。昨日息子が見つけて参りました。どこで拾ったのか正確にはわかりませんけれど、辺りに建物などはなかったと思います」

 違和感を感じて、思わず視点をプレートから母親に移した。

 「別行動をなさっていたんですか」

 「いいえ、ずっと側にいたわ。でもあのときは少し瞑想していたから」

 母親の表情には一片の後ろめたさも感じられなかった。彼女はそれがどんなに危険なことだったか、全くわかっていないのだろう。少し、迷う。こんなものとできれば関わりたくない。けれど放置してなにかあったら面倒だ。会社にとらされる責任のことも、自分自身の精神的なことも。

 「僭越ながら申し上げます。ここは地球ではありません。お子様に万が一のことがないよう外ではひとときも目を離さない方がよろしいかと存じます。そういった事故も少なくありませんので」

 母親は目を丸くして僕を見た。そしてゆっくりと口元を上げる。僅かに、侮蔑の色を感じる。

 「ええ、そうね。ありがとう。心遣いに感謝します」

 「いえ、出すぎた真似でした。申し訳ありません」

 「でもね、目を離さない方が危険なことだってあるわ。貴方、私の言っている意味がおわかり?」

 「いえ・・・。安心が油断に繋がるということでしょうか」

 「それも確かにありますね。では、それ以外には?」

 僕は挑発的な彼女の視線から逃れ、しばらく壁や天井に答えを探した。けれど特に思いつかない。

 「申し訳ありません。私にはわかりかねます」

 「私があの子に何かをするという可能性です。一般的に考えたら、宇宙で起こる事故よりずっと、母親の方が危険だわ」

 そう言って彼女はくすりと笑った。けれどそれを冗談として受け入れることが僕にできるはずもない。気付かれないように右手を握りしめた。心臓が、少し煩い。

 「仰る通りです」

 自分の声が遠くに聞こえる。変な感覚。

 「このプレートの方はお預かりしてもよろしいでしょうか。チェックアウトまでに調べておきますので」

 「いいえ、それには及びません。それは貴方に差し上げるわ。私も息子も興味がありません。いらなかったら処分しておいてくださる?」

 「わかりました。ありがとうございます」

 母親は立ち上がり、歩きだした。僕は手元に残ったプレートに目を落とす。

 あの少年がこれに興味を残しているか、確実に彼女は知らないだろう。けれど勝手に決めつけたに違いない。本当に、うんざりする。

 「そういえば、貴方、先程から顔色が優れませんけど、大丈夫?」

 振り返ると母親は立ち止まってこちらを見ていた。

 「ええ、大丈夫です。お気づかいいただき、ありがとうございます」

 僕は業務用の言葉をそつなく吐き出した。右手はずっと隠したまま。


 部屋に戻って、僕はこのプレートについて調べることにした。光に当ててよく見ると黒い正方形の部分には何か傷のようなものがついていた。8つ全てにあるから、どうも意図的に刻まれたものらしい。けれど何を意図したものなのかはわからない。ネットで画像検索をかけたが、それらしいものは出なかった。こうなるとどこかに画像を上げて情報を求めたくなるが、見つかった場所を考慮すれば避けた方がいいだろう。仕方がないので、この手の物を愛してやまない友人に訊いてみることにした。

 幸いなことに連絡はすぐとれた。「少し調べるから詳細なデータを送ってほしい。90分後に話をしよう」とのことだった。僕はそれに従いデータを送信した後、コーヒーを入れた。

 こんなことをして何になるというのか。少し自問する。あの少年のためというなら、たとえこのプレートがなんであったとしても、大した気休めになるとは思えない。救いたければ法的な戦略を立て、時間も金も現在の安定も放棄して戦うしかない。けれどその結果が少年にとって本当に救いとなるだろうか。救われたいと願っていたのは過去の自分であって、少年自身ではない。そして仮にもしあの少年を救えたとして、それが何になるというのか。無能な自分は関わらず、ここでじっとしているのが最も良いのではないか。

 結局僕は母親という存在に反発したいだけなのかもしれない。その支配を、ただただ否定したいだけなのかもしれない。そしてその感情こそ、未だに支配されている証拠。忌々しい呪縛。こんな月まで来たというのに、絶ち切れない。空に地球。

 「久しぶり」

 「そーだっけ?一番最近通話した履歴もアンタになってたから、比較的そうでもないよ」

 「最近って、前に話したのなんて2万時間以上前のことだろ?相変わらずだな」

 「まあ、そんなことはどーでもいいよ」

 友人はクマの浮かぶ目を乱暴に擦った。まだ不眠症は治っていないらしい。それを見て、ほんの少し安心する。それは僕らをつなぐものだから。

 「で、プレートの件だけど、なにかわかった?」

 「ああ。あまり大したものではなかったよ。あれは21世紀初頭の探査機に乗せられたメッセージカードだ。広報活動の一環に、一般からそういうのを募ってたわけ。それが乗せられてた探査機はもうこっちに回収されているし、カードの大半は残ってるから資料的価値も薄いな」

 「うん?なんでメッセージを乗せることが広報になるんだ?その頃はまだこっちに誰もいなかったわけだろ?誰が読むわけ、それ」

 「誰も読まないよ。でも当時は言葉がすなわち意識であり、意識こそが個人そのものというのが一般的だった。だから、自らの言葉が月まで届けば、その人が宇宙に行ったも同然なのさ」

 「はあ?」

 「想像させるのが重要なんだ。それを憧れにさせる。その頃は宇宙に行けるのなんて本当に一握りの人間だったから、宇宙開発が自分にも価値があると一般人に考えさせるのは大事なことだったんだよ」

 「想像だけだったら、プレートなんていらないんじゃないか」

 「想像にも、現実的と思えるものと、そうでないものがあるだろ。現実的と思うのに媒介があることは重要なんだよ」

 「ふうん。まあ、よくわからんけど、当時の妄想が詰まっている板ってことか」

 「ま、それでいいよ」友人は頭を掻きながら苦笑した。「どうする?一応メッセージは解析したけど、送ろうか?」

 「なにか面白いの書いてあった?」

 「面白いかどうかは知らんけど、アンタも少し読んで当時の人の生活とかに思いを馳せてみたら」

 「苦手だなぁ、そういうの」

 言いながらも友人からのデータの受信が待機状態になったので、一応許可した。

 「それにしても、アンタよくその仕事続いてるね」

 「前にも聞いたよ、それ」

 「だって本当に意外だから。無理してるんじゃない?」

 「なにそれ。心配してるの?やめろよ、気持ち悪い」

 「アタシはアンタが辞めた方がいいと思ってるよ。ずっと」

 「どうして」

 「いつか死ぬんじゃないかって。地球以外で働く人間の自殺率、知ってる?」

 「ああ、大雑把にはね」

 「普通の人間でさえそうなんだよ?」

 「僕が普通じゃないってこと?」

 「そうだよ。アンタもアタシも普通ではない」

 「お前さ」

 「なに」

 「老けたな」

 友人は躊躇いなく手持ちのカップをカメラの方に投げた。それを見て僕は笑った。

 「冗談だよ冗談。でも僕は当分この仕事をやめないと思うよ。案外さ、普通じゃないから居心地がいいのかもしれない。お前もこっちに来れば?」

 「結構だね」

 「はは、怒るなよ。うん、とにかく調べてくれてありがとう」

 「じゃあ、少なくとも10年は生きるって言ってみてくれないか」

 「そんなの保証はできないよ。生きてる限り、いつだって死ぬかもしれない」

 「いいから言え」

 このまま通信を切ってやろうか迷ったけれど、しかたなく僕は友人に従うことにした。

 「10年は死なないように頑張るよ」

 「それじゃ」

 「ああ、またね」

 目の前から友人は消えた。今死んでやったら、少し面白いかな。僕はくだらない思いつきに少し笑った。

 自分があと10年も生きるなんて想像できない。考えたくもないことだ。友人だって、本当は同じだろう。どんなに時間を重ねたって、僕らは結局。


 解析された文字列をデスクの上に一覧表示させてみる。

 過去の地球を説明するもの。

 将来の夢を綴ったもの。

 自分、家族、恋人、友人、様々な人の未来に当てられたもの。

 どれもこれも綺麗な言葉。

 どれもこれも読む気がしない。

 でも目を離すこともできずに、頬杖をついたまま、いつのまにか夢を見ていた。

 それは初めて月に立った時の記憶。

 左手を母親に握られている。

 視界がぼやけているのは、またなにかひどいことを言われたせいだろう。

 遠くにぼんやり何かがあるのを見つける。

 別に興味はないけれど、母の手を振りほどき、そちらへ走る。

 それは崩れた僕の家だった。

 どうして。

 母に尋ねようと振り返った。

 けれど母の姿はない。

 どこにもなかった。

 ああ、ようやく開放されたのか。

 そう思っていると、いつの間にか足が地面を離れていることに気づく。

 だんだん月が遠ざかる。

 どこまでも浮き上がっていく。

 速さが増していく。

 吸い寄せられている?

 上を見て、気がついた。

 これは浮き上がっていくのではない。

 落ちている。

 地球に向かって。

 もしかしたら、生まれてくるときもこんな感じだったのかもしれない。

 それともこれが生きるということだろうか。

 目を開けた。頭上には白く光る天井しかない。目を落とすと文字列は表示させたままだった。その中の一文を目が自動的に読み込んでいく。

 「アナタは今どんな未来にいますか。どんな未来を夢見ていますか」

 指でなぞり、反転して、バックスペース、文字は消えた。


 あの親子の滞在も残すところあと1時間になった。延長の希望も出ていないから、このまま帰ってくれるのだろう。あのとき呼び出されて以来一度も顔を見ることはなかった。クレームも出ていない。外出記録を見ると40時間前から部屋に籠りきりだった。流石に飽きたのだろう。それとも本当に幻覚を見てしまって、嫌になったか。

 ともあれ、この晴れない気分もあと少しでよくなるはずだ。あの親子の間に何があろうともそれは僕とは無関係なのだから。しばらく蟠りが残っても、きっとすぐに忘れられる。自分がどんなに冷たい人間なのかは十分知っている。

 けれど、30分経ってもチェックアウトの呼び出し音はならなかった。それからさらに10分経過し、しかし部屋は沈黙したまま。客室では既に何度も案内が流れているはずだ。こんなふうに時間ギリギリまでチェックアウトが遅れる客もいないわけではない。きっと準備に手間取っているだけだ。トラブルが起きているなら、それはそれで連絡が入るはずだし、だから僕は待ってさえいればいい。

 そうして残り時間が10分になった。僕はマニュアルに従い、二人の部屋との音声通信を繋いだ。

 「恐れ入ります。お客様、ご予定の滞在時間が残り10分を切っております。滞在を延長なさいますか」

 すると向こうから微かに何かを落としたような音が聞こえた。

 「お客様?」

 「はい、すみません大丈夫です。少し片付けに時間がかかってしまいました。今、こちらを出ます」

 答えたのは少年の落ち着いた声だった。

 「かしこまりました、私もロビーで待機しております。10分未満の超過であれば延長にはなりませんので、どうぞ忘れ物のありませんようお気を付けください」

 「はい、ありがとうございます」

 僕は通信を切り、ため息を吐いた。あの少年に対応を任せたということは、つまりここまで準備に時間をかけているのは母親の方なのだろう。「どんなに技術が発展しても女が化粧にかける時間は一定のまま保存される」なんて馬鹿げた法則を誰かが言っていたのを思い出す。とにかく僕は部屋を出て、ロビーで彼らを待つことにした。


 「遅くなってしまって、ごめんなさい」

 少年は微笑みながら言った。けれど僕が戸惑いを覚えたのはその表情のせいではない。

 「あの、お母様はどちらに?」

 「母は先に行きました」間髪を入れず少年は答えた。「手続きをお願いします」

 「いえ・・・、申し訳ありませんが、それはできかねます。安全の保証上、全員の確認を行いませんと、手続きができないのです」

 「嘘ですね。少なくともそれは、アナタのする事じゃないはずです」

 そのとおりだった。僕は言葉をなくす。喉がやけに痛い。

 「心配してくれなくていいです。大丈夫ですから」

 冷たく突き放す声。その奥にあるものを僕は知っている気がした。

 それでもなんとか表面上の平静を保ち、僕はチェックアウトの手続きを行った。

 「では、こちらにサインをお願いします」

 少年は頷き、左手の人差し指で自らの名前を書いていく。

 それを見ながら僕は思考を遮断し、心を隔離していく。その奥にあるものがなんであれ、自分とは無関係だ。それが知っているものと相似であれば尚の事。

 「はい」

 「ありがとうございます。では今しばらくお待ち下さい」

 書かれたサインを確認する。それは見慣れない拙い字だった。出来損ないの直線、一文字一文字のバランスは悪く、全体としては右肩下がり。あまりにも年相応で、あまりにもこの少年に不似合いだ。まるで手品のミスを見つけた時のような違和感。

 思わず少年の顔を確認する。彼の黒い瞳はゲートに向けられていた。その目尻に走る幾筋かの赤に気づく。

 「ねえ、あのさ」意識より先に、僕は喋りだしていた。「ホントのことを教えてくれないか」

 少年は、少し驚いたような顔で首を捻った。

 「何のことです?」

 「君の母親のこと。どこに行ったの?」

 「それは、アナタに話すようなことじゃないです」

 少年は眉をひそめ、俯いた。

 「なんて説明されたのか知らないけど、君は置き去りにされているんだよ。君が望めば訴えることもできる。もっと居やすい場所を探すことも。必要なら、僕も手伝える」

 「いいです、大丈夫ですから」

 「じゃあ、なんで泣いたりしたんだ」

 「えっ」少年は顔を上げた。「なんで・・・。もしかして見てたんですか」

 「そんなことはしない。これでも一応真面目なホテルマンだし、確かに各部屋にカメラはあるけど、緊急時以外は機能しないようになっているんだ」僕はできるだけ柔らかい声を意識した。「わかったのは、君の目がまだ赤いからだよ」

 少年は再び俯き、唇を噛んだ。

 「知らない大人を頼るのは嫌かもしれないけど、頼む、助けたいんだ」

 けれど少年は首を横に振った。

 「そんなの、もういいんです」

 「なぜ」

 「だって、もうあの人はいませんから」少年の細い声はそう言った。「もう死んだんです。神様のところに行くとか言って。三日前に」

 死んだ?何を言っている?誰が死んだって?

 しかし意識は機械的にその言葉の意味を辿り、頭の中で銃声が響く。

 そして血を流して倒れている女。違う。死んだのは少年の母親で、この人は違う。

 「イタイは?」

 「警察の人が運んで行きました。手続きも終わっています。アナタに迷惑はかかりません」

 「そう」

 感覚はゆっくり戻っていく。でも少しずれているみたいで、立っているのがつらかった。

 「君はこれからどうするの」

 「施設に行きます。大丈夫です。もう全部用意は済んでますから」

 「それでいいの?」

 少年は僕を睨んだ。けれど次の瞬間にはその敵意さえ泡のように消えてしまった。

 「殴りたければ殴っていいんだ。君ばかりが理不尽を受け止めることはない。自分で抵抗して、足掻いて、戦わなければずっとそのままだよ」

 「やめてください。僕は、平気ですから。別にこのままで大丈夫です」

 「そんなこと――

 「じゃあ、アナタはそうして何かを得たんですか?」

 「いいや」僕は言った。「何もない。ずっと、何もないままだ。何もしなかったからね」

 「だったら、いいじゃないですか。何もしないでも生きていけるってことでしょ?僕はそれでいい。十分です」

 少年は床に置いていた荷物を持ち上げた。

 「お世話になりました。それでは」

 「せめて、送っていくよ」

 「いいです。タクシーを呼んでありますから」

 少年は歩きだした。引き止めることなど僕にはできない。なんて情けない。なんて愚かな。思っている間にも、少年は遠ざかっていく。彼の足音にもならない微かな振動だけがロビーに響く。

 大きすぎる扉が開かれ、少年の姿が暗闇の中に消えるその刹那、僕は閃光に射抜かれ、駆け出した。自室に戻り、デスクの上に放置していたプレートを掴み、再び走った。扉を開け、アンテルームに少年の姿はない、ヘルメットを被り、外に出た。

 真っ暗な宇宙と、小さく瞬く星々と、白い大地以外、もう何もなかった。

 それでも僕はしばらく走った。走って、走って、少年のもとへ。自らの息でヘルメットが曇っていく。喉が痛い。肺が痛い。脇腹が痛い。

 地面を蹴るはずの右足が空回りして、体勢が崩れ、僕は両手を地面につけた。

 一体何がしたかったのだろう。何ができると思ったのだろう。もう、なにもわからない。

 仰向けになって、僕はただ呼吸を続けた。宇宙はこんなに静かなのに、呼吸とか、鼓動とか、心とか、自分の中だけが喧しい。いたたまれない気持ちになって、静かになりたいと願う。

 呼吸が落ち着き視界が晴れると、正面に地球が眩しい。僕はプレートを握る右手に力を込める。

 腕を振り上げ、その旧式の宇宙船を地球に投げ返した。

 ――アナタは今どんな未来にいますか。どんな未来を夢見ていますか

 「未来なんて知るか、バカヤロウ」

2010年4月10日土曜日

缶蹴り

 今更缶蹴りをしようだなんてことになったのは、多分みんなこの日常にイラついていたからだと思う。つまり馬鹿な事をしたかったんだ。ほら、よく母親が新しい赤ん坊を産むと子供は幼児化するとか言うじゃん。僕自身は末っ子だから、よくわかんないけど、そんな感じだと思う。
 義務教育の義務は親に課せられるものであって、子供にあるのは教育を受ける権利だなんてことを前に校長が話してたけど、ふざけんなよマジで。それだったら、前田のオカンみたいに「アンタには散々投資してるんだから、返してもらうまでは言う事を聞いてくれなきゃ困る」って感じの本音を吐いてくれた方がまだマシだ。まあ、前田は泣いてたけどさ。
 とにかく、くだらないと思うわけ。勉強を頑張って良い会社入って立派な大人になったって、高が知れてる。一体どこに楽しそうにしている大人がいる?全員愚痴ばっかりだ。テレビで写されるのは全部やらせだし、それにしたって結局子供を羨んでるのがわかる。
 つまりイジメみたいなもんなんだよね。自分たちがこんな辛い思いしてるから、お前らだけ笑ってるのは許さない、って。多分大体僕らくらいの年齢になると、新鮮さも消えて、可愛いとも思わなくなってきて、それで攻撃対象としてみられるようになるんだろう。僕らのことを思春期だ反抗期だと言うけど、それってアンタらがそう仕向けてるんじゃないのって思うんだよね。
 誰だって、持ってるものを取られたら嫌な気分になるし、嫌いなことを押し付けられたら反発したくなる。そういうことをしてはいけない、って言いながら自分たちはそうするんだもん。うんざりするよ。
 だから僕らは缶蹴りをすることにした。さいわい教師たちの大半は既に学校にはいない。地区の大きな会議があるらしい。僕ら三年の校舎は職員室とは離れているから、そっち側に行かない限り安全だろう。ルールも簡単に決めて缶蹴りは始まった。空き缶なんてないから、クラスの緑色のじょうろで代用。近藤が最初の鬼で、長谷川がじょうろを蹴った。
 僕らは馬鹿みたいに本気になって、馬鹿みたいに大声を上げて、馬鹿みたいに笑った。どいつもこいつも全員馬鹿で、成績も何も関係なく馬鹿で、それがとても楽しかった。
 「塾だし、そろそろ帰るわ」
 だけど、そう言って帰っていく奴らを止めることなんてできない。責めることも。だんだん校舎は暗くなっていって、僕らひとりひとりの声はだんだん大きくなっていった。意地になって騒いで、できるだけ馬鹿でいられるように。
 じょうろを蹴りに僕は教室へ向かって走った。少し振り向くと鬼のような形相の菊池が追ってきている。手を伸ばして、ドアを開けようとした、そのとき。ドアは勝手に開き、目の前に女子たちの姿があった。一瞬、悲鳴。慌ててそれを避けようとして、横っ飛びをした。勢いで尻もちをつく。
 「大丈夫?」石田が驚いた顔のまま僕に言った。
 「別に」気まずいので目を逸らす。
 さっさとどっかに行ってくれ。そう念じているのに女子たちには伝わらないらしい。軽く舌打ちをする。
 「味戸捕獲っ!」
 教室の中から菊池の叫び声。僕は急いで立ち上がり、女子の間を縫って教室に入った。
 「ざけんなよ!事故だろ事故!」
 「えー、じゃあ蹴ってもいいよ。ノーカンだけど」
 頭にきたので菊池の足が乗ったままのじょうろにスライディング。奴は安定を失って転びそうになった。
 「外したか」
 「負け惜しみは良くないよー、味戸君」体勢を整えた菊池は偉そうに言った。
 「馬鹿じゃないの、アンタら」
 まだ残っていた女子たちのボス、澤井は言った。
 「え、知らなかったの?」僕は座りながらいう。「ああ、もしかしてお前も馬鹿?」
 「まあ、馬鹿の中じゃ味戸がブッチ切りだから安心しろって」菊池の言葉に女子たちは笑う。
 「はぁ!?」
 「ああ、ちょうどいいや。味戸、人数を補充しねえ?」そう言って奴は女子たちに顔を向けた。「なあ、お前らも缶蹴りやらねえ?」
 すると女子たちは小声で会議を始めた。僕は菊池を睨む。
 「しょうがないじゃん、人減っちったんだから。じゃあ俺隠れてる奴らをいったん呼んでくるわ」
 「お前鬼でスタートだからな」
 「へいへい」

 結局女子は三人だけ混ざることになった。その中には石田の姿もある。とろいくせに、ウザったいことこの上ない。
 「範囲は?」澤井が訊いてきた。
 「こっち側の校舎だけ。あ、便所は無しな」
 「何言ってんの、当たり前でしょ」
 「お前、だって前科持ちじゃん」
 そしたら澤井は顔を真赤にして離れて行った。嫌ならさっさと帰ってくれたらいいのに。
 「ったく付き合ってらんないわ。菊池君、さっさと始めよう」
 「ういー。じゃ、澤井、その勢いで蹴っちゃって」
 澤井の力任せの蹴りでじょうろは黒板に叩きつけられた。
 「怖っ」
 「うっさいボケ」
 それからみんなは方々に走っていった。僕は廊下を突き当たりまで走り、美術準備室に入るとそのままベランダに出た。少し寒いけれどここなら向こうで何が起こっているか、音でわかるはずだ。それに菊池がいない間に教室の窓の鍵をひとつ開けておいたから、奇襲もかけられる。
 しばらく様子をみるために僕は壁に寄りかかって座った。コンクリートが冷たい。ひとりになると、余計なことが頭に浮かんでくる。帰っていった奴らの顔や、自分のこれからのこと。父や母の言葉。それから。
 背後で音がした。
 身構えて確認すると、石田の驚いた顔。
 「えっと、ここにいたんだ」
 石田は勝手に窓を開け、ベランダに出るとそう言った。
 僕は目を逸らす。なんとなく、見てはいけない気がするから。
 「私もここに隠れていい?」
 「勝手にすれば」
 僕は手すりを見ながら答える。視界の端に石田が腰掛けるのが映った。
 「久しぶりだね、かくれんぼなんて」
 「缶蹴り」
 「あ、そうだった」石田は何が可笑しいのかクスクス笑う。
 とても居心地が悪い。どっか別の場所に移動した方がいいか。でも、それだと作戦が無駄になる。僕は小さくため息をついた。
 「ここにいたら迷惑?」
 「別に」
 迷惑だと思うならどこかに行けばいいのに。それくらい自分で判断しろよ。僕は石田が映らないように視界を移動させる。
 「味戸君さ」
 「なに」
 「私のこと避けてるよね」
 「別に、避けてない」
 「だってこっちを見ないようにしてるし」
 「それは」
 反発しようとして顔を石田に向けた。だけど、一瞬目があってしまって、気まずくなって元に戻した。
 「いいじゃん別に。俺の勝手だろ」
 「うん、そうだね。勝手だ」石田はまた笑った。
 「隆史先輩は元気?」
 「お兄ちゃん?元気だけど、なんで?」
 「別に」
 「別にばっかだね」
 別にいいだろ、と言いそうになって舌打ち。こいつといるのはほんとに苦手だ。ひどく落ち着かない。苛々する。
 「こんなふうに二人だけで話すのって久しぶりだね。中学に入って初めてくらい?」
 「いや、小学校のときもなかったと思う。いっつも誰かと一緒だったし」
 「そっか。じゃあ、完全に初めてなんだ。わあ、緊張してきた」
 「別に緊張することでもねえだろ」
 「ほら、また」僕がため息を吐くのを見て、石田は笑いながら「ごめん」
 嫌なのに見てしまう。嫌なのに気にしてしまう。そういうのがとてつもなく嫌だ。なんでこんなに恥ずかしい気持ちにならなきゃいけないんだ。自分自身が鬱陶しい。
 意識を缶蹴りに戻そうとして、音を探る。でも聴こえるのは石田のいる音。気持ちの悪い自分の執着。汚らわしいと感じる。
 「あのさ味戸君。怒んないで欲しいんだけどね」
 「なに」なら言うな。
 「味戸君って、あの、澤井ちゃんのこと、好き?」
 「はあ?」はああ?
 心底うんざりする。くだらなすぎる。馬鹿よりひどい。多分ものすごい呆れた顔を、僕は石田に向けた。
 「いや、違うならいいんだ。ごめんね」石田は顔を伏せた。「ごめんなさい」
 僕も石田から顔を隠す。なんなんだ一体。なんだその価値基準。なんでそういうふうに人を見なくちゃいけない。関わりたくないんだよ、そういうの。だからお前に関わらないようにしてるんだよ。
 みんなで笑い合って、馬鹿みたいに楽しめればそれでいい。そうするために、そんな感情は必要ない。切り離したいんだよ、そういう不自由な部分を。
 ずっとそんなふうでは、なぜいけない?学校も社会も大人も自分の感情さえも、それを邪魔する。不自由に追いやろうとする。欲しくないものばかり与えて。
 遠くから、菊池の馬鹿な笑い声が響いた。そうだ。行かなくちゃ。まだ僕らは缶蹴りの途中だ。
 「行くの?」
 僕が立ち上がると石田は言った。僕はそれに頷く。
 「もう少しだけ、ここにいない?」
 「やだね」
 僕は、馬鹿どものもとへ走り出した。

2010年4月9日金曜日

事情

 入社してまだ3年もしていないのに、僕が轢いてしまった人の数はついに二桁になってしまった。この頃はもう罪悪感も麻痺してしまって、頭の奥の方からは怒りの声すら上がっている。就職するときにこんな自体を全く予想しなかったわけではない。けれど、履歴書の志望動機に書いた「多くの人の生活を支えるために」という言葉を思い出すと、すこし虚しい気持ちになる。

 「別に自殺の方法なんて、いくらでもあるじゃないですか。衝動的な行動だってのは、まあわかりますけどぉ、別に電車以外だってその衝動を引き出すでしょうに」
 「だから、そういう奴らは別の方法で死んでんだろ。東京の自殺者が全員電車で死んでるわけじゃない」
 僕は辛うじて開く視界の中で上司の姿を捉えた。若干飲みすぎている自覚はあるものの、僕はアルコールに弱い反面冷めるのも早い。だからこれくらい大した事はない。それとも、そんな判断をするということ自体、酔いすぎている証拠だろうか。
 「そうですけど、でもぉ」
 「それに、死ぬ側にだって事情はある。わかってやれとは言わんが」
 「なんですか、事情って。色々生きてるのが辛い、ってことですか。そんなん、そうかもしれませんけど、でもだったらせめて迷惑の掛からないように、って考えません?普通」
 「まあ、そうだな。うん、お前にはそう思って不満を口にする権利があると思う」
 引っ掛かりのある言い方。この人はいつもそうだ。馬鹿にされてるんだろうか。確かに、馬鹿ですけど。でもなんか気に入らない。残っていたビールを飲み干す。美味しくない。罰ゲームかと思う。
 「そろそろ帰るか。それとも少し酔いを覚ますか」
 「清水さんは、どう思っているんです?迷惑だって思わないんですか」
 「俺は、もうなんとも思わんよ。天候が荒れるのと一緒だ。ないに越したことはないが、あっても、どうということはない」
 「罪悪感、とかって、感じませんか?」
 「ああ。それに」
 清水が言い淀んだので、僕は目を開けた。世界がまぶしい。テーブルの上の食い物が、全部汚らしく見える。なんとか顔を上げると、清水は眉間に手を当てていた。案外、彼も酔っ払っているのだろうか。
 「それに、なんですか」
 「いや、やめておこう」
 「そんなのずるいですよ。だって僕ら、共犯でしょ」
 自分の言葉に、急に感情がずたずたになった。映像がフラッシュバックする。吐き気を催して、僕は立ち上がりトイレに駆け込んだ。
 胃の中身を全部出すと、虚しさがまた広がっていった。こうやって繰り返して、だんだん慣れていくんだろうか。同期で入った青白い顔をした男のことを思い出す。「人が目の前で死んで平気だなんて、あんたらおかしいよ」名前なんて覚えていないけれど、奴が辞めていくときに吐いてたその言葉だけは、たぶんずっと忘れないだろう。
 鏡を見た。そこには死神に憑かれたような情けない自分がいた。触れてやると、鏡は冷たく心地よかった。
 「すみません。お騒がせしました」
 「いや、若いときはよくあることだ」
 「はい」
 言い返したい言葉を飲み込む。それが大人。目の前の出来事を機械的にこなす。そういう大人になろうと決めた。そう自分で決めたんじゃないか。
 どこにも感情をとどめず、誰にも何も思わず、人生をやり過ごそうと。
 微笑んでみた。問題はない。これで何も問題はない。
 「お前と俺とでは、そもそも前提が違うんだ。だから自殺者に対して思うところも違う。参考にならないことだから、言わない方がいいと考えた」
 もういいですよ、大丈夫です。言おうとしたけれど、微笑んだまま僕は、どうやって言葉を出せばいいのか思い出せなかった。
 「俺の姉がな、自殺したんだ。電車でな。日記を読んで、ずっと前からそうしようとしていたことがわかった。だから俺はこの仕事に就いた。馬鹿だろう?カウンセラーにでもなった方が、よほどまともだ」
 僕は首を横に振った。そんな顔をされても、僕には何も言葉はない。やめて下さい、貴方はずっと、立派な人です。

 帰り道。
 警報機が鳴って、遮断機が降りる。
 目の前を電車が過ぎる。
 その行く先がずっと平穏であることを、僕は祈った。

2010年4月8日木曜日

ある平穏

 昔の話です。大きな国の東の端に小さな村がありました。村は森に覆われていて、森の中にはたくさんの良い動物と悪い動物が暮らしていました。村人たちは神様との約束を守りながら、木を切り、実をもぎり、花を摘み、そして動物たちの命をわけてもらって生活していました。けれど中には良くない村人もいて、彼らは神様との約束を破っていました。しかも彼らはずる賢く、他の良い村人たちに紛れて生活をしていました。ですから村人たちは一体誰が良くない村人なのかわからず、みんな困ってしまっていました。

 さて。この村の外れに一軒の木こりの家がありました。その家には可愛らしい歌の上手な女の子が住んでいました。女の子は、本当の名前は違うのですが、自分のことをポーラと呼んでいました。大人たちは女の子に、どうしてポーラなの、と尋ねましたがそれは彼女だけの大事な秘密でした――

 いいえ、それは本当のことではありません。

 女の子は、それを自分だけの秘密だと思っていましたが、実はそれを知っている人が村にいました。そしてその人は、悪い村人でした。

 悪い村人はそのことがいつか自分にとってとても大きな障害になることを知っていました。だから女の子が大きくなる前に、なんとかしようと考えていたのです。

 女の子は木こりの一家と血が繋がっていませんでした。5年前、木こりが赤ん坊だった女の子を森の中で見つけたのです。木こりは大変真面目な性格だったので、悩みました。こんなところに赤ん坊である女の子を置き去りにしてしまったら、悪い動物に襲われてしまうことでしょう。けれど森から村へ持ってきていい命の種類は神様との約束で決められていました。そしてその持ってきてもいいものの中に人間の女の子が入っていなかったのです。

 木こりは大変悩みました。悩んで悩んで、そして結局女の子を連れて帰る事にしました。

 木こりの奥さんはその赤ん坊を見てびっくりしました。でもすぐに、これはきっと神様が自分たちにくださった幸福なんだと思いました。木こりの両親は神様との約束を破ったことになるのではないかと心配しましたが、すぐに何も言わなくなりました。木こりの一家はみんな、いつの間にか女の子が大好きになっていたのです。

 ところで女の子には毎朝決められた仕事がありました。それは森に入って川の水を桶に汲んでくることでした。その仕事は女の子が自分からやりたいと言い出したことでした。木こりの奥さんは心配性なので、そんなことはしなくていいといつも言うのですが、彼女が朝目覚めるともう既に汲まれた水が用意されているのでした。

 女の子が水を汲みに出かけると、ときどき猟師に出会いました。猟師はいつもキョロキョロしていて、その様子につい女の子は笑ってしまうのでした。

 そんなある日、女の子がいつものように水を汲んで帰ろうとしていると、ふと木の根元に咲く白い花に気づきました。真っ白い、今まで見たこともないような花です。女の子はしばらくその花に目を奪われた後、これをみんなにも見せてあげようと考えました。けれど両手は桶で塞がっています。そこで女の子は髪飾りのように花を髪に挿してみました。

 「おはよう」

 突然声をかけられて女の子は驚きました。振り返ってみると、いつもの猟師でした。女の子は彼に挨拶を返しました。

 「今日も早いね」

 猟師はいつもどおりキョロキョロしながら言いました。けれど今まで彼の方から話しかけられたことはありません。

 「なにか御用ですか?」女の子は尋ねました。

 「その花・・・、綺麗だね」猟師は笑ってみせましたが、その笑顔は少し不気味に感じました。「いや、そのね、ちょっと村長さんが君に話があるそうなんだ」

 「ポーラに?」女の子は首をかしげます。「んと、わかりました。後で行きます」

 けれど女の子の言葉に、猟師は首を横に振りました。

 「いや、今すぐに来て欲しいらしいんだよ」

 「え、なぜですか」

 「さあ、私はただ頼まれただけだから」

 「でも、これを運んでしまわないと」女の子は桶を掲げてみせました。

 「だけど私に頼むくらいだから、村長さんも相当急いでいるんだと思うよ」

 村長の家は村のちょうど中心にありました。木こりの家に帰ってから行くとなるとかなりの時間がかかってしまいます。女の子は悩みましたが、結局桶をここに置いて村長の家へ向かうことにしました。

 「近道があるんだ。付いておいで」

 そう言って猟師は歩き出しました。女の子は彼の後に従って行きました。


 30分ほど歩いて女の子と猟師は村長の家に着きました。女の子は猟師にお礼を言って彼と別れると、村長の家のドアをノックしました。

 「すみません、ポーラです」

 しばらく待っているとドアは外側に開き、体の大きな老人が現れました。女の子は少し身構えながら老人を見上げました。老人は黙って女の子を見下ろしています。

 「あの、村長さん、おはようございます。猟師のおじさんが、呼んでるって」

 「お入り」

 女の子が話し終える前に村長はドアを開けたまま中へ入っていってしまいました。女の子は躊躇いましたが、このまま帰ってしまうわけにもいかないのでドアの向こうへ進みました。

 「こっちだ」村長は右手のドアを開け女の子を導きました。「さあ」

 部屋のなかは広く、女の子は落ち着かない様子であたりを見回しました。大きな暖炉、大きなテーブル、大きなランプ、大きな椅子。村長さんの体が大きいから、みんな全部大きいのかな、と女の子は思いました。

 「そこに座りなさい」

 しかし村長の指した椅子は女の子には大きすぎるように思えました。

 「あの、子供用のはないのですか」

 「この家では子供と大人の区別はない。だからお座り」

 女の子はそれじゃあと赤い飾りのついた椅子に腰掛けました。慣れない目線の高さに落ち着かない気分です。そのうえ村長は女の子の正面に座ったまま黙ってしまったので、どうしたらいいのかわかりません。それに相手は村長ですから失礼な振る舞いはできません。どんな振る舞いが失礼のないものなのか女の子は知りませんでしたが、少なくとも椅子を前後に揺らすのは我慢していました。

 女の子がお尻に敷いた手の感覚がなくなったとき、ようやく村長は口を開きました。

 「君の家族の調子はどうだね」

 「はあ、どうって、普通ですけど」

 「そうか。それはなによりだ」

 なにより何だというのだろう。女の子は思いましたが、口を紡ぎました。そして村長の視線から逃れるために、彼の大きな左手をじっと見ていました。それはとても大きな手で、きっと自分だったら動かせないだろうと感じました。

 沈黙が続き、女の子はだんだん飽き始めました。朝食もまだでしたので、いつお腹が鳴ってもおかしくありません。村長の右手はかすかに震えているのですが、それ以上に大きな動きはこの部屋にありませんでした。

 「あの、すみません。家族が心配してると思うので、一回帰っていいですか。また来ますから」

 「君は、今の生活に不満はないかね」

 「はあ」

 この状況も今の生活の中に入れるなら不満はあると思いましたが、女の子はとりあえず頷きました。

 「そうか。ところで君は、昔この村にいたポーラという女性を知っているかね?君と同じ、青い目をした」

 「いえ、知りませんけど。どうして、ワタシにそれを?」

 「いや・・・。知らないならいいんだ」

 そうしてようやく女の子は開放され、村長の家を出ることができました。

 「なにか困った事があったら、いつでも来なさい」

 「はあ」

 女の子は村長の顔を見上げました。その目は女の子に向けられていましたが、きっと自分を見ているのではないんだな、となぜだか思いました。そして、よくわかりませんが、なんとなく慰めてあげなくてはいけないように感じました。

 「村長さんも、なにかあったら、いつでも呼んでください」

 「ああ・・・。うん、きっと、そうするよ」

 「それでは、さようなら」

 女の子はお辞儀をして、立ち去ろうとしました。けれどそれを大きな手が、右肩を捕まえまえて阻みました。

 「なんですか?」

 「ああ、うん。その頭に挿した花。それを良かったら譲って貰えないか」

 「これですか?いいですよ」

 女の子はその花を村長に差し出しました。すると代わりに、手のひらに何かが乗せられました。見ると綺麗な金色の指輪です。

 「これは?」

 「花のお礼だ。でも、誰にも見せてはいけないよ。儂から貰ったというのも内緒だ」

 「わかりました。ありがとうございます」

 女の子はもう一度お辞儀をして、歩き出しました。そしてもう二度と女の子は村長と会うことはありませんでした。

 女の子が去っていくのを村長はずっと見ていました。

 「さよならポーラ」

 けれどそのつぶやきが誰かに届くことはありませんでした。


 帰宅した女の子は叱られることを覚悟していましたが、家族の誰も叱ることはありませんでした。木こりの奥さんだけが、女の子に尋ねました。

 「どこかに行ってきたの?」

 「ううん。森で眠くなっちゃって、気がついたらこんな時間だったの」

 女の子は答えました。

 そうして村はいつもどおりの昼を迎え、夜を乗り越え、また朝にたどり着きます。それをなんども繰り返し、全てが流されていきました。しかたがないことだわ。女の子は思いました。すべて、神様がお決めになることなのだから。

 女の子は自分を悪い村人だと知っていましたが、誰からも、神様からも、罰せられることはありませんでした。

 女の子は、一生幸せに暮らしましたとさ。

2010年4月7日水曜日

限定

 昔の話です。大きな国の東の端に小さな村がありました。村は森に覆われていて、森の中にはたくさんの良い動物と悪い動物が暮らしていました。村人たちは神様との約束を守りながら、木を切り、実をもぎり、花を摘み、そして動物たちの命をわけてもらって生活していました。けれど中には良くない村人もいて、彼らは神様との約束を破っていました。しかも彼らはずる賢く、他の良い村人たちに紛れて生活をしていました。ですから村人たちは一体誰が良くない村人なのかわからず、みんな困ってしまっていました。

 さて。この村の外れに一軒の木こりの家がありました。その家には可愛らしい歌の上手な女の子が住んでいました。女の子は、本当の名前は違うのですが、自分のことをポーラと呼んでいました。大人たちは女の子に、どうしてポーラなの、と尋ねましたがそれは彼女だけの大事な秘密でした――

 いいえ、それは本当のことではありません。

 女の子は、それを自分だけの秘密だと思っていましたが、実はそれを知っている人が村にいました。そしてその人は、悪い村人でした。

 悪い村人はそのことがいつか自分にとってとても大きな障害になることを知っていました。だから女の子が大きくなる前に、なんとかしようと考えていたのです。

 女の子は木こりの一家と血が繋がっていませんでした。5年前、木こりが赤ん坊だった女の子を森の中で見つけたのです。木こりは大変真面目な性格だったので、悩みました。こんなところに赤ん坊である女の子を置き去りにしてしまったら、悪い動物に襲われてしまうことでしょう。けれど森から村へ持ってきていい命の種類は神様との約束で決められていました。そしてその持ってきてもいいものの中に人間の女の子が入っていなかったのです。

 木こりは大変悩みました。悩んで悩んで、そして結局女の子を連れて帰る事にしました。

 木こりの奥さんはその赤ん坊を見てびっくりしました。でもすぐに、これはきっと神様が自分たちにくださった幸福なんだと思いました。木こりの両親は神様との約束を破ったことになるんではないかと心配しましたが、すぐに何も言わなくなりました。木こりの一家はみんな、いつの間にか女の子が大好きになっていたのです。

 ところで女の子には毎朝決められた仕事がありました。それは森に入って川の水を桶に汲んでくることでした。その仕事は女の子が自分からやりたいと言い出したことでした。木こりの奥さんは心配性なので、そんなことはしなくていいといつも言うのですが、彼女が朝目覚めるともう既に汲まれた水が用意されているのでした。

 女の子が水を汲みに出かけると、ときどき猟師に出会いました。猟師はいつもキョロキョロしていて、その様子につい女の子は笑ってしまうのでした。

 そんなある日、女の子がいつものように水を汲んで帰ろうとしていると、ふと木の根元に咲く白い花に気づきました。真っ白い、今まで見たこともないような花です。女の子はしばらくその花に目を奪われた後、これをみんなにも見せてあげようと考えました。けれど両手は桶で塞がっています。そこで女の子は髪飾りのように花を髪に挿してみました。

 「おはよう」

 突然声をかけられて女の子は驚きました。振り返ってみると、いつもの猟師でした。女の子は彼に挨拶を返しました。

 「今日も早いね」

 猟師はいつもどおりキョロキョロしながら言いました。けれど今まで彼の方から話しかけられたことはありません。

 「なにか御用ですか?」女の子は尋ねました。

 「その花・・・、綺麗だね」猟師は笑ってみせましたが、その笑顔は少し不気味に感じました。「いや、そのね、ちょっと村長さんが君に話があるそうなんだ」

 「ポーラに?」女の子は首をかしげます。「んと、わかりました。後で行きます」

 けれど女の子の言葉に、猟師は首を横に振りました。

 「いや、今すぐに来て欲しいらしいんだよ」

 「え、なぜですか」

 「さあ、私はただ頼まれただけだから」

 「でも、これを運んでしまわないと」女の子は桶を掲げてみせました。

 「だけど私に頼むくらいだから、村長さんも相当急いでいるんだと思うよ」

 村長の家は村のちょうど中心にありました。木こりの家に帰ってから行くとするとかなりの時間がかかってしまいます。女の子は悩みましたが、結局桶をここに置いて村長の家へ向かうことにしました。

 「近道があるんだ。付いておいで」

 そう言って猟師は歩き出しました。女の子は彼の後に従って行きました。












































 女の子は、一生幸せに暮らしましたとさ。