2011年5月20日金曜日

リドルな日常

今日は芥川龍之介の「藪の中」という小説を読んだ。ある殺人事件について関係者の証言で組み立てられた話なのだが、その中で容疑者・目撃者・被害者(!)の証言が一致しない。ではその真相は、というと小説は真相を明らかにしないまま終わってしまう。いわゆるリドルストーリーである。

この小説は全て証言で綴られている。したがって、誰の証言を信用してもなんらかのストーリーを補完できるし、極端な話証言のすべてが嘘ということすら可能である。小説内で一応確からしいのは、関係者がそういった証言をしたというただそれだけなのだから。

僕はこういう話が好きだ。なぜなら推理小説の推理の部分を飽きるまで楽しめるからだ。推理小説をプラモデルに例えると、推理部分は組み立てであり、解決編は完成したプラモを眺める段階といえる。
リドルストーリーの中にも理詰めで作者の用意した完成形に辿りつけるものはある。「笑わない数学者」などもその一つだろう。
しかし「藪の中」は上述のように確定しないことが確定している話である。プラモの例えを少しずらして改めて言うと、レゴブロックみたいなものだ。それぐらい自由度があると思う。


しかしこういうレゴブロックで延々と楽しめるのは判断を迷いやすい証拠と言えるかもしれない。現実に不確かな情報しか得られずに判断を迫られたとき、僕はよく延々とブロックを組み立てて、崩して、組み立てるのを繰り返してしまう。
今日の夜もそうだった。
友人であるマツダがTwitterでこんなことを呟いた。
「これが本当だったらひどい http://(以下省略)」(当該ツイートは消されているため記憶による不確かなもの。表現が違っているかも)
なんだべかとリンク先を見てみると、人権問題の新聞記事の画像が出てきた。しかしページにはいくつかコメントが付けられており、それによるとその画像はネタらしい。
脊髄反射で僕はマツダにネタ元のURLをTwitterで送った。そしてしばらくすると返信がきた。
「@mizoken なんかイラッとした」
そして連投。
「ので消す」

最初、素直に「ああ、ネタだということに気づいてイラッとしたのか」と思ったが、ふと疑問に思う。
もしかしたら、もともとネタだと理解していて、それなのにわざわざネタ元を言われたことに対してイラッとしたのではあるまいか。
十分ありうることである。では謝るべきではないかと思い、しかし再び立ち止まる。もし前者が正解だった場合、謝られたら不快に思うのではないだろうか。だが「後者だとしたらごめん」みたいな周りくどくかつ反省に半信半疑の状態で謝罪するのは果たして正しいのだろうか。
そんなことを延々と考えていたら1時間くらい過ぎていた。
本当に面倒くさい人間だと思う、自分が。

とりあえず僕はリドルストーリーは好きだが、リドルストーリーのような現実はめちゃくちゃ苦手だ。わかる人にはわかる、という表現の殆どは僕にはわからない。
しかし唯一現実が小説よりも楽なのは、証言をいくらでも増やせることである。それが証言に過ぎないというのはどこまでも一緒ではあるが。
そんなわけで、これを投稿したらマツダに聞いてみようと思う。結局、丸投げである。

2011年5月16日月曜日

信じないでみる

思うところあってTwitterのフォロワー増減を調べてみたくなった。
しかし、増加ランキングはあったけれど、減少ランキングみたいなものはなかった。
そんなわけでここを参考にトップ10の増加数の推移をグラフにしてみた。
予想したとおり、震災直後からするとだいぶ落ち着いてきた様子。もっとも、これはあくまでトップ10の数の推移であって、ここから全体が直ちに導けるわけではないので注意。

で、最初に何を思ったかというと、震災初期はどこに自分が必要な情報があるか調べるけど、その段階ってもうとっくに終わってるだろう、ということ。つまりもう人それぞれ自分が必要と思う情報源を確保しているだろうという予測。
これは4月の時点で思っていて、だから、自分のような少数のフォロワーしかいない人間が何かを拡散してももうあまり意味が無いと判断した。

でも、こうなるとすなわち沢山の集団群が出来上がっていることになって、そしてその集団群の情報交換は少なくなっているだろうと推測できる。自分が属していない集団の情報が聞こえてこない、あるいは聞こえてきたとしてもなんらかのフィルターにかけられて届くとした場合、集団同士に存在する矛盾が認識されないか、あるいはかなり歪んで認識されることになる。

震災直後、僕らは圧倒的な量と質(それも悲惨な)の情報で、もうそれだけでくたくたになってしまうほどだった。そういうとき、信頼できそうな情報源を絞って選択するというのはだいぶ有効な手立てだけれど、はたして今もそれで良いのだろうか。
むしろ今こそ、自分の情報源を疑い、検証してみるべきときなのかもしれない。
まあ、そんなことを思いましたとさ。

2011年5月10日火曜日

方法の決定は傾向の指定

 集団によって何かが選択されるとき、多数決がとられることが多い。最も得票数が多い意見を採用とする方式で行われる場合、もしなんであれ自分の意見を通したいのであれば、その集団において一部に利益が傾くように意見を設定するのが良い。その一部というのが過半数を超えていなければならないが、そうすれば最も票を得られる可能性が高い。
 利益が傾くということは、どこかに損が生じる。通常は集団の外部に損をさせて内部の利益を得るのが一般的だと思われるが、そもそもその構造を集団が持っているのだから多数決をするという段になって改めて多くの利益を外部から徴収する仕組みを作り上げる、あるいは提案するのは難しい。しかしすでにある内部の利益を偏らせるのは比較的容易であり短期間で可能である。
 集団に属する者の多くは、自らに得られる利益こそが重要であり、その利益の出所など二の次である。

 このようなあり方で行われる多数決の場合、最も多くの票を集める意見が集団内で最も多くの不利益をもたらすことがままある。100人が50円得するために10人が一万年損をする。しかし、100人の者たちの意見も10人の者たちの意見もそれぞれ1ずつしかカウントされない。そういう構造が一番分かりやすくよく見られるのは選挙のときだろう。

 では集団内でそのような不利益や偏りを出さないためにネガティブな票を入れられるようにし、投票された総数からその分を引くようにしたとする。するとどうなるか。毒にも薬にもならない意見が採用される、と思いたいところだがそれはありそうにない。なぜなら集団に属する殆どのものが自らの利益を第一に考えており、その意見は集団に属する何ものかが発したものだからである。
この場合ありえそうなのは、議論されてもいない新たな偏りが生じるであろうという予測である。そしてその偏りは10人に十万円をもたらし、100人に千円を払わせるようなものであることも十分にありうる。
それであれば、十分議論され認識されている、集団内で最も不利益をもたらすと思われる意見を採用した方が良い、ということも考えられる。もちろんそんなことはないということもあるが、十分認識されているのであればその対策もしやすいからである。それに最も不利益を被る集団内の集団が多いのであればその対策を大きくしやすいし、その集団内の集団を構成する条件が自明であるほどまとめることが容易である。

さて、こういった意思決定の構造を個人の内面に当てはめてみる。自分の中の多数派は、少数の内部を犠牲にしてはいないか。また、犠牲を恐れるあまり十分にそのメリットデメリットを考えられていない意見を採用してはいないか。
あるいはそこから少し離れて、自分の現状を作り上げた意思決定の方法はどのようなものか、他にどのようなものがありえたか、などを考えると、もしかしたら客観に近づけるのかもしれない。

そんなどうでもいい話。