今日は芥川龍之介の「藪の中」という小説を読んだ。ある殺人事件について関係者の証言で組み立てられた話なのだが、その中で容疑者・目撃者・被害者(!)の証言が一致しない。ではその真相は、というと小説は真相を明らかにしないまま終わってしまう。いわゆるリドルストーリーである。
この小説は全て証言で綴られている。したがって、誰の証言を信用してもなんらかのストーリーを補完できるし、極端な話証言のすべてが嘘ということすら可能である。小説内で一応確からしいのは、関係者がそういった証言をしたというただそれだけなのだから。
僕はこういう話が好きだ。なぜなら推理小説の推理の部分を飽きるまで楽しめるからだ。推理小説をプラモデルに例えると、推理部分は組み立てであり、解決編は完成したプラモを眺める段階といえる。
リドルストーリーの中にも理詰めで作者の用意した完成形に辿りつけるものはある。「笑わない数学者」などもその一つだろう。
しかし「藪の中」は上述のように確定しないことが確定している話である。プラモの例えを少しずらして改めて言うと、レゴブロックみたいなものだ。それぐらい自由度があると思う。
しかしこういうレゴブロックで延々と楽しめるのは判断を迷いやすい証拠と言えるかもしれない。現実に不確かな情報しか得られずに判断を迫られたとき、僕はよく延々とブロックを組み立てて、崩して、組み立てるのを繰り返してしまう。
今日の夜もそうだった。
友人であるマツダがTwitterでこんなことを呟いた。
「これが本当だったらひどい http://(以下省略)」(当該ツイートは消されているため記憶による不確かなもの。表現が違っているかも)
なんだべかとリンク先を見てみると、人権問題の新聞記事の画像が出てきた。しかしページにはいくつかコメントが付けられており、それによるとその画像はネタらしい。
脊髄反射で僕はマツダにネタ元のURLをTwitterで送った。そしてしばらくすると返信がきた。
「@mizoken なんかイラッとした」
そして連投。
「ので消す」
最初、素直に「ああ、ネタだということに気づいてイラッとしたのか」と思ったが、ふと疑問に思う。
もしかしたら、もともとネタだと理解していて、それなのにわざわざネタ元を言われたことに対してイラッとしたのではあるまいか。
十分ありうることである。では謝るべきではないかと思い、しかし再び立ち止まる。もし前者が正解だった場合、謝られたら不快に思うのではないだろうか。だが「後者だとしたらごめん」みたいな周りくどくかつ反省に半信半疑の状態で謝罪するのは果たして正しいのだろうか。
そんなことを延々と考えていたら1時間くらい過ぎていた。
本当に面倒くさい人間だと思う、自分が。
とりあえず僕はリドルストーリーは好きだが、リドルストーリーのような現実はめちゃくちゃ苦手だ。わかる人にはわかる、という表現の殆どは僕にはわからない。
しかし唯一現実が小説よりも楽なのは、証言をいくらでも増やせることである。それが証言に過ぎないというのはどこまでも一緒ではあるが。
そんなわけで、これを投稿したらマツダに聞いてみようと思う。結局、丸投げである。