2015年2月2日月曜日

理屈は道具

 理屈などというものは道具に過ぎない。何かが間違っていると感じるならば、理屈によって間違っているのではない。ある状態を指して間違っている、あるいは変えなければならないと衝動を直感しているだけなのだ。それに対して正しい理屈など追求したところで、状態がそのままならばなんの解決にもならない。しかし人は、苦しいときほど理屈に縋ろうとするように見受けられる。それを理屈によって解析するならば、状態を変えるほどの余力がないから対処療法的に理屈をあてがっているということだろう。状態を肯定できる理屈を構築することは、状態を変更することに比べて容易だ。しかし、状態が変わらなければ、苦しさもまた変わらないだろうし、いずれ破綻するだろう。
 理屈というのはありきたりの表現をすれば麻薬であって、つらい状況に対して一見解決のような爽快感を与える。しかし状態が持続すれば常に理屈が必要になり、最終的には自己否定の理屈へたどり着く。バッドトリップのような自己否定と、幻覚のような明るい理屈を繰り返すのは全く健全とは言えない。むろん、その循環を“生きているだけで素晴らしい”と絶望的に明るい理屈で肯定することは可能だが、いったい、それがなんになるというのか。
 有用な理屈とは、状態の変化を促すものだけであって、正しい理屈という言葉が意義を持つのは状態が改善されたという結果に飾られているときだけだ。そのときにおいてさえ、理屈によって状態が変えられたとするのは言いすぎだ。その都度その都度、条件によって理屈は変わって良い。逆に、どんなに言い返せないような理屈であっても、それが状態に何ら影響を及ぼさないのであれば、そんなものは捨て去るべきだ。
 現状がつらいのなら、理屈によって苦しいのではなく、理屈を求めても解決はないということを自覚すべきだ。また、現状に対して実行可能性のない理屈を主張されたとしても、どんなにそれが理に適った言葉であっても、馬鹿かお前はと捨て置いて良い。
 重要なのは、「すべき」という理屈ではなく、「したい」という意思だ。それを常に忘れずにいたい。

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