2011年10月13日木曜日

ノスタルジア



 意識が芽生えた瞬間から、すでに土の中にいた。何も見えず、何も聞こえず、手足も動かせず、けれどそれが普通であることを知っていたので、心も静かだった。
 「誰かいる?」
 呼びかけると、声は意外と近くから返ってきた。
 「いるよ」
 「どこ?」
 「こっち」
 「こっちじゃ、わからないよ」
 すると声の主はかすかに笑った。
 「きっと目の前に木の根があるでしょう?たぶんその向かい側だと思う」
 「たぶん?」
 「だって見えないから。確かめられないわ」
 「見えない?君も?」
 「そうよ。だってきっと私たち同じ生き物だもの。でなきゃ言葉なんて通じない」
 彼女の推測を確かめようと、何とか前方に顔を動かした。口に当たった感触が確かに木の根だとわかった。
 「本当だ。目の前に、木の根、あったよ。でも、なんでわかるんだろう?」
 「必要なことは、私たち、みんな知っているの。生まれるってそういうことよ。準備ができたからこうして生まれて、生きている。君も私も」
 「それ変だよ。だって、そんなの僕は知らなかった」
 すると再び彼女の笑い声。僕は心が縮こまるのを感じた。
 「私もそう。知らなかった。でも教えてもらったの。君と同じように」
 「誰か他にここにいたの?」
 「うん。でも教えてくれたらさっさとどこかへ行っちゃったけど」
 「君もどこかへ行ってしまう?」
 「行かないよ。だって私、君よりほんの少し先に目を覚ましただけだもの」
 「じゃあ、僕も、どこへも行かない・・・。ずっと一緒にいてくれる?」
 「うん、きっとずっと一緒だね」


 それから彼女はいろんなことを教えてくれた。目の前の木の根から樹液が吸えること。他の生き物の振動が聞こえたら静かにしなければならないこと。
 そして長い月日を二匹で過ごした。春も夏も秋も冬も。幾度の季節が巡っても僕達は一緒だった。
 けれどある夏の日、別れのときが来た。それは生まれたときから決められていたことで、僕らはもちろんこの日が来ることをずっと前から知っていた。
 「絶対探してみせるから」
 「うん」
 「だから・・・、いってらっしゃい」
 「うん、行ってきます」
 言葉を飲み込んだ不甲斐ない僕を、いつもの様に彼女は笑い、そして地表に出ていった。


 彼女が去ってからの一日は、一年よりもずっと長かった。僕がどんなに願っても、身体はまだそのときではないと、上へ行くことを許さなかった。未発達のせいで脱皮がままならずそのまま朽ちても構わないと思っても、手足が自由になることはなかった。
 そしていよいよ僕にもそのときがきた。あの日から、ちょうどひと月経った頃だった。
 初めて目にする外界のことなんてどうでも良かった。微かに聞こえる同胞の声も、慣れない飛行を邪魔する風も、睨みつける鳥の目も無視して、僕は飛び続けた。


 上にきて二日目。その死骸を見た瞬間に、それが彼女だと僕にはわかった。彼女は、知らない個体と繋がったまま、干からびていた。
 幸せだったろうか。僕にはわからない。干からびた彼女の身体も、何も答えてくれない。
 僕は何かを失ったのだとようやく思い知らされた。彼女がすでに生きていないことなんて、ここに上がる前からわかっていたのだから、失うものなんて何も無いはずなのに。


 僕はそれからわがままを言うのを辞めて、全部身体の好きなようにさせた。自分が喧しく鳴くのを聞きながら、もう鳴く必要なんてないのにと思った。だって彼女はもういないのだから。
 それでも身体は、朽ちるまでぼくを鳴かせ続けるのだった。

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